九 十二月某日
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またか。
いったいこれで何人目なの。
「あの……じゃあ、本当に黒崎課長とおつきあいされていないんですか?」
「ええ」
「噂は誤解……?」
「どんな噂か知りませんけど、黒崎課長は私の上司です。上司と部下、それだけの関係です」
この説明も言い飽きた。
司が辟易しながらも丁寧な口調で説明すると、我が社の看板受付嬢はキラキラした笑顔を咲かせて、「お時間をいただいてすみませんでした」と頭を下げて、軽やかに去っていった。
「……ふー」
時計を見ると、ランチタイムがあと半分しかない。
司は慌てて社食でたぬきそばをすすり、化粧室で歯を磨き、ファンデーションとリップを塗り直し、仕事に戻った。
あの日――黒崎の腕の中で眼を覚ますという珍事態に頭が真っ白になって身動きの取れない司に、黒崎は言った。
「落ちつけ。ここは俺の部屋で俺のベッドだが、おまえに手を出してはいない。それが証拠に、上着と靴は脱がせたが服を着ているだろう」
確かに服は着ていた。ブラウスもスカートも皺が寄っているが、乱れてはいないし、ストッキングもはいたままだ。
司は衝撃からやや立ち直り、黒崎の腕からそっと抜け出して問い質した。
「いったいなにがどうして私が課長のお宅にお邪魔しているのでしょう」
「憶えていないのか」
「申し訳ありません」
「昨日の飲み会で、おまえが俺の隣から消えてしばらく経ったあと、若い連中が騒ぎ出した。見に行くとおまえが潰れていて、誰が家まで送るかで揉めていた。だから俺がおまえを担いで連れ出した。おまえのマンションは知っていたが、女の独り暮らしの部屋に俺が勝手に入るわけにはいかないだろう。だからここに連れてきた。わかったか」
恥ずかしい。穴があったら飛び込みたい。
でもどうして潰れたのか。酒は飲んでいないのに。怪しいのは渋谷からもらったブルーベリーのノンアルコールカクテルだが……いや、それはともかく。
「重ね重ね、申し訳ありませんでした」
司はベッドの上で正座して頭を下げた。
そのまま帰るつもりだったのに黒崎に引き止められた。
「朝飯食っていけ。すぐ作るから」
「いえ、結構です。お暇させていただきます」
ハンガーにかかっていた上着を見つけ、袖を通す。
黒崎は上半身裸のまま起き上がり、青のハーフパンツ姿で部屋を出ていった。間もなく水音が聞こえて、くぐもった声が届いた。顔を洗っているらしい。
「いいから待て。食ったら送ってやる。おまえも昨夜はほとんど食ってないだろう。腹が空いたんじゃないのか? それにこう言うのもなんだが、そのよれた恰好で外を歩くよりもおとなしく俺の言うことを聞いた方が利口だと思うが」
「そんなご迷惑はかけられません」
宴席で寝オチして担がれ、ベッドを占領(半分だけど)した挙句、朝ご飯までたかるなんてどんな部下だ。これ以上恥の上塗りになる前にとっとと帰って体勢を立て直し、後日改めてお詫びとお礼をしよう。そうしよう。よし決めた。
ところがバッグが見当たらない。バッグの中に携帯も財布も部屋の鍵も入れている。あれがなければ帰ろうにも帰れない。
うろうろしていると、顔を洗った黒崎が戻って来てクローゼットを開けた。司は後ろを向いた。上司の着替えを見る趣味はない。
「おまえも顔を洗って来い。洗面所は玄関の右だ。ほら、タオル」
「私物を返していただけませんか」
「俺の言うことを聞いたら返してやる」
ニヤリと人の悪い微笑を浮かべる黒崎は俺様上司の顔をしていた。そんなんだから陰で『ブラック課長』なんてあだ名がつくのよ! 私は呼んでいないけど。
「……化粧を落としていませんので顔も洗えません。バッグを返していただかないと」
「そうか。じゃ、来い。リビングのソファの上にある」
黒崎は上下グレーのスウェットに着替えて司を置き去りにした。司はシーツをはがし、ベッドメイキングをした。ジロジロ見るつもりはなかったが、ここはベッドルームでナイトスタンドと本棚、本が積まれたローテーブルがあるだけだ。壁には絵やポスターはなく、すっきりとしていかにも黒崎らしい。
リビングもシンプルだった。必要な家具が必要な位置にある、ムダを嫌う黒崎らしいインテリアだ。
司はソファの上にあったバッグからまず鏡を取り出して覗き込んだ。
「――課長、洗面所をお借りします」
ない。ないわ。この顔はない! このひどい顔を黒崎に見られたのか。
司は持っていた化粧落としシートで顔を拭き、ぬるま湯で洗い、メイクした。櫛で髪を整え、一応は見られる顔になったことを確認して、化粧室も借りた。
この間、二十分ほど。
「ちょうどいい、飯が出来た。冷めないうちに食うぞ」
そう言われては断わるに断れず、司は黒崎と差し向かいでキッチン傍の椅子に座った。テーブルの上には純然たる和食。ごはん、味噌汁、きんぴらごぼう、卵焼き、青菜のおひたし、茄子の味噌炒め、明太子と大根おろし、漬物。
これだけの品をこの短時間で作るなんてどれだけ手際がいいのか。
司は黒崎の意外な一面に驚嘆しながら、「いただきます」を言って箸を取った。
「課長、おいしいです」
お世辞ではない。本当においしい。茄子の味噌炒めなんて味付けが絶妙だ。
敬意を込めて褒めると黒崎はちょっと照れ臭そうに笑った。
「実は料理が趣味だ」
「そうですか。私は料理があまり得意ではありませんので、こんなきちんとした和食は久しぶりです」
司は黙々と完食し、緑茶を啜り、後片付けだけはさせてもらった。
それから車で家まで送ってもらい、翌日の日曜、在宅を確認してから迷惑料として日本酒を持参して自宅を訪ねた。以前なにかの話の際に、ワインやビールより日本酒が好きだと聞いたことがあってそれを憶えていたのだ。
「先日は大変ご迷惑をおかけしました」
司はジーンズとシャツというラフな格好で現れた黒崎に深々と頭を下げて、持参品を差し出した。この一件はこれで済ませ、黒歴史として永遠に記憶の彼方に葬るつもりだった。
それなのに、日本酒を押しつけて帰ろうとした司を捕まえて黒崎が言った。
「一つ、頼みがある」
「……なんでしょう」
聞きたくないが、黒崎には一宿一飯の恩がある。
足を止めて振り返った司に、黒崎は玄関に腕を組んで寄りかかったまま言った。
「以前からどうしても落としたい女がいて、アプローチはしているんだが、なかなか通じなくて困っている」
それを私にどうしろと。恋愛事なら、相談する相手を間違っている。
そう言って断ろうとした矢先、黒崎が司を遮るように続けた。
「だから、趣向を変えてみることにした。胃袋から攻めようと思う」
「胃袋、ですか」
女が男を落とすのに料理は奥義だけど、男が女を落とすのにも有効だろうか。
突飛な案だが黒崎は大真面目らしく、真剣に頷いた。
「俺は料理を作る。おまえはそれを食べて評価する。どうだ? 頼めないか」
要は味見役ということか。
悪い話ではないが、上司と仕事以外に接点を持つのはどうだろう。あとで面倒なことにならないだろうか。それともこれも仕事の一環として引き受けるべきか。
考えてみると、上司の心の平穏は部下の安寧にも繋がる。好きな女性がいるならとっとと口説き落としてゴールインしてもらえれば、それだけこちらの苦労も減るだろう。
なにせ、なにかといえば黒崎のお伴に駆り出される。接待ならまだしも、パーティだの、会合だの、クラブだの、料亭だの、女性同伴の招待を受けると必ず自分にお鉢が回ってくるのだ。なぜ私だけ、と恨めしく思っても課長補佐という肩書きが逃げることを許してくれず、疲労とストレスは蓄積される一方だ。
でも黒崎が結婚すれば、当然そういう席には夫人同伴となる。晴れてお役御免となるに違いない。少なくともいまよりぐっと軽減されるだろう。
司が無言で無表情のまま思案を巡らせていると、黒崎は痺れを切らしたのか、勝手に話を決めてしまった。
「返事がないなら了解と受け止める。おまえは当面の間、俺とここで夕食をとれ。帰りは俺が家まで送る。それでいいな」
「わかりました」
上司命令だ。諦めよう。
「待て。どこへ行く」
「家に帰ります」
「夕食がまだだろう? 食っていけ。今日は鯖の味噌煮と蓮根の豆腐はさみ焼き、かぼちゃの黒ゴマいためだ。豚汁もあるぞ」
「……」
豚汁。どうしよう、大好物だ。
司の腹がタイミングよく、クーと鳴った。
黒崎が笑い、「どうぞ」と身体を退かした。
翌日から、司は黒崎と共に帰り、夕食をいただき、品評し、家まで送ってもらう。そんな日課を繰り返した。ほぼ毎日そんなことを繰り返していれば人の眼につくのは当然で、社内に噂が広がるまでに時間はかからず、連日ランチタイムともなれば女性社員から呼び出しをくらうようになった。その都度、「つきあってない」と釈明するも、いいかげん疲れてきた。
信じられないくらい、黒崎はもてる男だったのだ。
師走も半ばを過ぎれば忙しさはピークに達し、社内は年内に仕事納めをしようという空気で殺気だっていた。同時に、クリスマスを眼の前にして黒崎を誘いたい独身女子社員が猛アタックを開始し、司は巻き込まれないようにひたすら無関心、無関係の主張を貫いた。下手な助け舟や口出しをすれば眼の仇とされるのは必至だ。それはなんとしても、ご免こうむりたい。
「片桐、出るぞ」
「はい」
黒崎からお呼びがかかり、司はすぐさま応じた。
得意先に年度末の挨拶まわりに出かける。年が明ければ年始の挨拶が待っている。地味だが、人脈が命の営業には欠かせない業務だ。
昼から夕方まで何社も訪問し、ようやく帰社の途中、不意に声をかけられた。
「片桐様」
――『様』?
怪訝に思い司が肩越しに振りかえると、腕に七部咲きの白バラを大量に抱えたすらっと背の高いスーツ姿の男性が立っていた。
「塔谷さん!」
司は意外な邂逅に驚きつつ、塔谷にぱっと笑いかけた。
塔谷は司の行きつけのカフェのウェイターで、顔なじみだ。ルックスがよく、愛想もよく、仕事は丁寧で気配りがさりげなく、誰に対してもとても紳士的だ。彼のファンは大勢いて、かくいう司もその一人だった。
「こんにちは、ご無沙汰しています」
「こんにちは。お変わりがないようですね。まだお仕事中ですか?」
「ええ。年末の挨拶まわりです。塔谷さんは? いまから出勤ですか?」
「はい。明日はクリスマス・イヴなので、今夜からお客様にバラを配ると突然オーナー命令が出まして、その買い付けに」
「きれいですね」
「片桐様にはかないませんが」
さらっとこんなセリフを言っても気障にならないのは塔谷だからだ。甘い言葉と甘い微笑で女性をいい気分にさせてくれる。それでいて一定の距離をおいてくれるから、気楽に店に通うことができる。
塔谷はバラの花束から一輪を抜き取り、司に差し出した。
「少し早いですが、メリー・クリスマス」
「……メリー・クリスマス。ありがとうございます。またお店の方に伺いますね」
「お待ちしております」
司に向けてにこやかに微笑み、一度だけ黒崎を見て会釈してから去っていく。
立ち話していた時間はほんの二、三分なのに、黒崎は眼に見えて不機嫌だった。
「すみません、お待たせして」
「誰だ、あの男は」
「知り合いです」
なぜ睨まれなければいけないのよ。
黒崎はむっつりと黙り、背を翻して足早に歩きはじめた。パンプスでは追いかけるのがやっとだ。
重苦しい沈黙のあと、おもむろに訊ねられる。
「……口説かれているのか?」
「いいえ、まったく」
「……単におまえが気づいていないだけじゃないのか」
否定したのに、黒崎はぶつぶつ言っている。納得していないようだ。
司は塔谷にもらったバラをなんとなく明るい気分で眺めながら、忘れないうちに伝えようと、黒崎に話しかけた。
「課長」
「なんだ」
「明日と明後日ですけど、私、お夕食はいりませんから」
「なんだと」
黒崎が急に立ち止まり血相変えて振り返ったので、小走りにあとを追いかけていた司は正面から黒崎の胸に飛び込む形になった。
「すみません」
いきなり止まらないでよ、危ないでしょうが!
鼻の頭がぶつかって痛い。悪いのは黒崎なのにこちらが謝らなければいけないなんて理不尽だ。
「どういう意味だ」
両肩を掴まれて厳しい眼で顔を覗き込まれる。道の往来で。通りすがりの衆人が好奇の視線をちらちらと投げかけてくる。
司は自社の近くで外聞の悪い噂が立ってはまずいと黒崎に訴えて手を退かしてもらい、道の端に移動した。
「だって明日はクリスマス・イヴで明後日はクリスマスですよ。お宅に私がいたらお邪魔でしょう」
今年のクリスマスは両日とも平日だ。カップルにとって、夜は一緒に過ごせる貴重な時間だろう。
司は更に続けて喋った。
「余計なお世話かもしれませんけど、本命の女性にはアタックしましたか? まだしていないなら、クリスマスなんてうってつけでしょう。お得意の料理で豪華なディナーを用意して、花でも贈って告白なさってはいかがですか」
出過ぎた真似だとは思う。一介の部下が上司に言うことではない。だけど、味見役もそろそろ潮時だろう。社内であれほど噂が流れては、いつどんな形で黒崎の本命とやらの耳に届くともわからない。いらぬ誤解であらぬ疑いをかけられるよりは、いまのうちにきちんと終わらせた方がいい。
約三週間、黒崎の手料理を堪能した。
ロールキャベツ、肉じゃが、オムライス、ハンバーグ、里イモのコロッケ、エビマヨ、塩コブピーマン、カブのそぼろ煮、鮭餃子、ビーフカレー、大根のステーキ、マグロのやまかけ、おでん、もやしピカタ、ジャガイモのグラタン、鳥雑炊、ホタテのタルタル、ごぼうのサラダ、煮込みうどん、他にも色々。どれも大変おいしかった。
司は黒崎をじっと見つめたまま正直に称えた。
「課長の料理は最高です。どんな女性の胃袋も満足しますよ」
「……そうか?」
「ええ、絶対」
黒崎は俺様上司な鬼だが、仕事はできる。人徳もあるし、誠実でかざらない、頼りがいもある。料理上手で家事も得意で色気も見た目も十分合格点、とかなりハイスペックな男だ。
よほどの場合を除いては、黒崎を振る女性などいないだろう。
黒崎の恋がうまくいけばいい。幸せになって欲しい。心からそう思った。
「応援していますから」
司が誠心誠意、気持ちを込めて言ったのに対し、なぜか黒崎は片手で顔を覆った。疲れたような深い溜息と、苦々しい舌打ち。
「……おまえ、ちっともわかってないだろう……」
なにが?
司が疑問をぶつけるより先に、黒崎は仏頂面で口を開いた。
「片桐は、クリスマス、どうするつもりだ?」
「家にいますよ」
なにげなくそう答えた。まさかあんな目に遭うとは思わなくて。
ケーキとシャンパンを買って、DVDでも借りて観よう。
静かなクリスマスになるだろう――そう信じて疑わなかった。
クリスマス・イヴの夜、折しも白い粉雪が夜空の果てからちらつきはじめた頃、突然黒崎が訪ねてきた。
大きな赤いバラのリースとケーキ、それから山ほどの食材を抱えて。
「来たぞ。開けろ」
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