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嘘キス  作者: 安芸
第三話 危険な上司
10/15

八 十一月某日

 五話完結の物語。

 お時間のある方、最後までどうぞおつきあいくださいませ。

    

「片桐さんって怖いよね」

「えっ。なになに? 鉄の処女(アイアン・メイデン)になにかされたの?」

「ううん、別になにかされたってわけじゃないんだけど……ただ、話しかけても必要最低限の会話しかしてくれないし、ほとんど笑わないし」

「あーわかる。近寄りがたいよね」

「美人だし、スタイルもいいし、T大出身、仕事もできるんだけどねー。ブラック課長の片腕なんてあのひとぐらいしかできないよ」

「片腕じゃないでしょ、あのこき使われ方は。下僕よ、下僕」


 あははははは、と同じ部署の女子社員たちの笑い声が遠くなったので、ようやく水を流して外に出る。

 十分以上も女子トイレの一番奥の個室で息をひそめていたのだ。ムダに疲れた。カルティエの腕時計を見るとランチタイム終了間際だ。まずい。化粧直しもろくにできない。


「なんで私がこそこそしなきゃならないのよ」


 悔しくてリップブラシを持つ手が震える。泣くな。マスカラはウォータープルーフとはいえ、ちょっとでも滲んだらみっともない。


「泣くな、泣くな、私。我慢よ、我慢。こんなの、はじめてじゃないでしょ」


 女子トイレは魔の巣窟だ。そこでは上司への罵詈雑言、ゴシップネタからブラックジョーク、社内の噂、社外の噂までなんでもござれなのだ。

 だから普段は長居せず、用だけ済ませたらさっさと出るのだが、今日はタイミングが悪かった。いざ出ようとした瞬間に自分の名前が聞こえたので思わずフリーズしてしまった。

 片桐司(かたぎりつかさ)、二十六歳。肩書きは営業第三課の課長補佐。陰で鉄の処女(アイアン・メイデン)と呼ばれている。拷問器具の名称だが本来の意味ではなく、愛想がないこと、飲み会や合コンの誘いには一切のらないこと、などからついた別称だ。

 美人で仕事はできるけど、つまらない女。

 ――それが私の世間一般の評価。


 愛想がなく口下手で人付き合いが不得手な私でも、仕事は別だ。ギアチェンジをするように、モードが切り替わるのだ。

 完璧な笑顔で舌も滑らか、得意先を挨拶まわりし、プランニングを紹介し、資料を手渡し、アポを取りつけ、よもやま話に耳を傾け、セクハラを軽くかわす。

 社会人四年目にして身につけたスキルだ。


「黒崎課長、片桐ただいま戻りました」


 営業先で運悪く話の長いお偉方につかまってしまい、社に着いたのは終業時間を一時間も過ぎていた。それでもやはりデスクには直属の上司である黒崎仁(くろさきじん)課長が残っていた。


「遅かったな。なにかあったのか」

「いえ、特には。花沢建設で彦根専務のゴルフコンペのお話を聞かせていただいていたら、こんな時間に。帰社が遅れて申し訳ありませんでした」

「そうか」

「明日までの急ぎの仕事など、なにか私にできることはありますか」


 全部言い終えないうちに、さっそく黒崎が一枚のA4用紙を司に寄こす。


「眼を通しておけ。東河西(ひがしかさい)のプレゼンがうまくいった。我が社に決定だ」

「本当ですか!」

「本当だ」


 やった!!

 司はガッツポーズで飛び跳ねたい衝動を堪えた。


「よかったです。何日も徹夜したかいがありました」


 それは黒崎課長を筆頭に営業三課が三ヶ月かけて取り組んだ大きな仕事で、司もプレゼン前日まで奔走した。苦労が報われた、と思った。眼の下に隈をつくって必死にコンシーラーで隠しつつ戦った日々もムダではなかったのだ。


「今日はもう上がるぞ。帰り仕度をして来い」

「はい。あ、課長、お先にどうぞ。私はメールチェックをしてから帰ります」


 今日は金曜日だ。土日は休みなので、もし月曜までの緊急事項があったら困る。一応眼を通すだけ通しておかなければならない。


「わかった。じゃあ俺は先にロビーに降りている」

「え? いえ、私を待っていただかなくても結構です。お帰りください」

「なにを言ってる。今日は祝勝会だ。他の奴らはもう行っているぞ、あとは俺とおまえだけだ」


 司は顔にはまったく出さずに心で悲鳴を上げた。

 祝勝会!?

た、確かに、それだけの価値はあることをやり遂げたけれど、でも、いきなりそんな! 心の準備ができていないんですけどー!!

 はっきり言って、飲み会というものが苦手だ。酒が飲めないこともあるが、そもそも大勢と語り合う、会話についていく、空気を読む、面白くもないのに笑う、そういうことができない。壁の花になるのがオチで、いや、花ならまだしも、粗大ゴミにすらなりかねない。

 それでも前もってわかっていれば、心構えとか、服とか化粧とかネイルとか、戦闘態勢を整えることができるのに。こんな急には、ムリムリムリ。この対人スキルが限りなく低い私が、楽しいお酒の席でなにを話せばいいのー!?

 逃げたい。

 どうしよう。行きたくない。不参加じゃダメですか。

 だが黒崎課長はアルマーニのコートに腕を通しながら、つれなく言った。


「待ってるから、早く来い」



 祝勝会会場は、池袋の某和風居酒屋。

 黒崎と司が店の暖簾をくぐったときには皆結構できあがっていて、給料日後の金曜ということもあり、店内は満員御礼、騒々しいことこの上ない。

 帰りたい。

 司は黒崎の背中に重い足取りで続きながら必死になにか適当な口実はないものかと頭を巡らせていた。だが良案は浮かばない。

 店の奥から、部署内では下っ端だがムードメーカーである渋谷友広(しぶやともひろ)が目敏く二人を見つけ、大きく手を振ってくる。


「かちょー! こっちです、こっち! どうぞ上座へ! 鉄――じゃない、えーと、片桐さんも隣に来て来て!」


 渋谷。あんた、面と向かって鉄の処女(アイアン・メイデン)って呼ぼうとしたね。でもって名字は忘れていたよね!? 一緒に働いている人間の名前くらい憶えておきなさいよ!!

 次になんかトラブルがあったらあいつに始末させてやる、と内心イライラしながら表では表情を取り繕って、司は掘り炬燵(こたつ)式の席に着いた。

 黒崎が飲み物のメニュー表を差し出してきたが、司は受け取らなかった。


「生一つ。おまえはなにを飲む?」

「私はウーロン茶を」


 お酒は飲まない。嫌いではないのだが、酔いが早くまわる体質らしく、とても酔いやすいのだ。酔ったら寝る。こんな宴席で寝オチなんて恥はかきたくない。

 課長の音頭で改めて乾杯。酔っ払いは喋る、喋る。目立たず隅っこで小さくなっていようと思っていたのに、なぜか課長の隣。否が応にも話題の中心となり巻き込まれてしまう。

 最初はプレゼンの苦労話からはじまったので話にもついていけたし、会話にも参加できたが、徐々に色々な話題が飛び交いはじめるともうダメだ。ギブアップ。芸能人もアイドルもお笑いも全然わからない。ついでに他部署の噂話や恋愛ゴシップネタなど知りたくもない。

 耐えられない。逃げよう。


「ちょっと失礼します」


 司はさりげなくバッグを抱えて化粧室に立った。用を足して、化粧直しをする。まさか勝手に帰るわけにはいかないので一応は戻ったものの、元の席には着かずに端に座り、予定通り壁の花となることにした。

 うん、ここなら皆の邪魔にならないし、ひとりでぼーっとしていられる。


「わーっはっはっはっは! いやあ、そりゃあないでしょう」

「いやいや、火のないところに煙は立たぬと言いましてな――」


 隣はどこかの会社の忘年会のようで、さきほどからすごい盛り上がりだ。中高年のオジサマ方がくだをまいて飲んだくれている。眼福だ。くたびれた皺の寄った目尻や哀愁の漂う背中がなんてかっこいいのだろう。


「……」


 司はうっとりと見つめた。

 なにを隠そう、年上の男性が好きだ。はっきり言って年の差結婚というものに憧れている。いつかは自分も、と夢見ながらも現実は厳しくて結婚の『け』の字もなく、彼氏もいない。それどころか恋愛すらとんとご無沙汰だ。

 これは女として由々しき事態――のはずなのだが、仕事が忙しくて正直それどころじゃない。いまはこうして好みのオジサマ方を観賞しているだけで満足だ。見ているだけなら面倒事にはならないだろう。

 放っておいてくれればいいのに、ぶらりと渋谷がやってきた。


「あー、営業課いちの美人がひとりなんてさみしーなー。かーたぎーりさーん。たーのしんでますかぁー?」


 来るな、酔っ払い。

 渋谷は司の手に薄紫の液体と氷が入ったグラスを掴ませた。


「はい、これ。飲み物の配達にさんじょーう」

「せっかくだけど、お酒は飲まないから」

「ブルーベリーのノンアルコールカクテルでっす! それなら飲めるでしょー」


 本当かな。

 司は一口飲んだ。甘い。おいしい。酒の味はしない。うん、これなら飲める。


「ありがとう」

「どーういたしましてー。へへー。俺って気が利くっしょー?」


 確かに。と渋谷を見直したところまでは記憶がある。



 だが次に司が眼を醒ましたとき、そこは自宅のベッドではなかった。

 おまけに自分一人でもなくて、誰かに優しく抱かれている。


「……?」


 逞しい胸、肩、からまった腕、足。見上げると、見知った顔が間近にあった。


「……おはよう」

「……おはよう、ございます」


 反射的に返事したものの、そのまま瞬間フリーズした。南極で今世紀最大級のブリザードの直撃を浴びたペンギンのような気分だ。

 なんだろう、これは。いったいどうしてこんなことになっているのだろう。

 感情が顔に出ないのはこういう場合、とても便利だ。

 司は能面のように無表情のまま考えた。


 ――黒崎と一つベッドの中にいる、その理由を。


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