第8話
8月の初旬から始まった家政婦のバイトを、私は順調にこなしていた。
基本今迄の生活と変わらない…ただ、人数が増えた事と、周りが厳つい男の人達ばかりだという事だ。
外でガードしている人達の食事迄作る必要は無いと棗さんは言ったけれど、キッチンの換気扇のダクトが玄関にあって匂いが漏れるらしく、玄関先で
「旨そうッスね…いいなぁ。今日は、何だったんッスか?」
と言う情けない声を聞いたら、何だか可哀想になってセッセと作った。
基本、朝食と夕食…昼時は丁度交代するらしい。
弁当を作る事もあったり、順番で食べに来て貰う事もある。
太一君が、私の料理を食べたくて、皆ここのガードに来るのを楽しみにしてると教えてくれた。
だだ、自分より歳上の見上げる様な男達から『姐さん』と呼ばれるのだけは閉口し、以降『お嬢さん』と呼ばれている。
聖さんとは…相変わらずだ。
ヤクザというのは、一般人と逆の時間帯で生活している様で、朝食を食べた後は何となく午後迄ボンヤリと私のする事を目で追ったり構ったりする。
出勤は大概が夕方近く…それまでの『ダサ眼鏡のカチューシャ男』が、『イケメンのヤクザの社長』に変身する。
最初その余りの変身振りに感心して見ていたら、腰の辺りで両手を広げて、
「…おいで」
と呼ばれた。
何だろうと近付くと、あろう事か皆の前で私を抱き締めて、
「行ってくるよ、ハニー♪」
と言って、こめかみにキスされた。
余りの自然な仕草に、呆然と見送ってしまって以来、出勤前のこの挨拶は恒例行事になってしまっている。
有り得ない…と思いつつも許してしまい、最近では『あー、ハイハイ』と言う様に、聖さんの腰に腕を回して背中を叩いてやる。
カフェに来ていた時、昼にも関わらずフラフラしているので何の仕事をしているのかと尋ねると、デイトレをしてるんだと言っていた。
強ち間違いではない様で、日に数度仕事部屋に籠ってパソコンを操作している。
掃除に入ると沢山のモニターが並び、何だかテレビで見るデイトレの番組さながらの部屋…ここで、物凄い金額が動かされるのかと思うと、怖くて早々に切り上げて出て来てしまう。
「ヤクザの収入源って、何だか知ってっか?」
棗さんが、夕食を食べながら徐に話し始めた。
「何?」
「まぁ…シノギやなんかが昔からの定石だな」
「シノギ?」
「シマの地回りやってみかじめを貰う…払う店の客とのトラブルなんかを、俺達が解決してやる。今はサツが煩くて昔みたいに大っぴらに開拓出来ないけどよ…それでも、店に飾る花や絵画、オシボリなんかをリースで卸してやる方法で、俺達にみかじめ料が入るって仕組み」
「…ボディーガード料って事?でも、警察なら無料で守ってくれるんじゃ…」
「新宿にどれだけの店があると思ってんだ、お嬢ちゃん?サツの人数なんて高が知れてる…俺達に連絡すれば、5分も掛からずに到着して解決してやれる…店は、どっちを選ぶと思うよ?」
「…早い方?」
「それが、サツの取り締まれないヤマでも、俺達だからこそ何とか出来るって事もあるしな…蛇の道は蛇ってヤツ」
「ふぅん」
「他にも、違法賭博、ヤク、密輸、拳銃…世間には色々あるが、ウチは今の社長になってから一切手を出してない…」
「聖さん、会社だって言ってたよ?」
「社長が先代から跡目を相続して、『聖組』を『Saint興業』にしたんだ」
「何やってる会社?」
「主に店の経営…キャバクラや高級クラブ、飲食店にゲーセン、風俗もあるがな…それは、前の組から引き継いだ物も多い。社長が新しく作ったのは、生花を扱う会社…個人で細々やってた生花店を吸収して、大きなフローリストの会社を作って各店に卸してる」
「…みかじめを取る為に?」
「個人の生花店と、大きな生花の会社…どっちが安く花束作れると思うよ?仕入れ量が多い方が、安く出来るだろ?」
「…そうだね」
「然もアレンジなんかもスクールに通う学生をバイトで雇うから、デザイン料が掛からねぇ…学生は、金が入って一流店で修行が出来るから一石二鳥だ。今迄生花店で普通に頼んでた花の料金だけで…いざって時は、俺達の庇護も受けられる」
「…」
「他にも、警備会社や示談屋の弁護士事務所なんかも抱えてる…会社組織と今迄のヤクザの仕事…上手く擦り合わせて頑張ってんだ」
「会社だけに出来ないの?」
何気なく聞いたら、棗さんはキッとキツイ目で私を睨んだ。
「何で俺達がヤクザなんて商売やってると思ってんだ!?世間様からハブられたからだろうょ、えぇっ!?」
「…そこで凄まれても…」
「…まぁな…上手く、会社って組織に馴染める奴等も居るが…出来ない奴も、山程居るしな……社長が継いでから、ウチは他より人数も増えちまった…食って行かせるだけでも大変だが、上に払う上納金が半端なくデカイ」
「上納金?」
「上の組に納める金だな。ウチは、東日本を牛耳る嶋祢会の3次団体だ。俺達の上には堂本組っていうデッカイ組がある…知らねぇか?」
「…知らないもん」
「まぁ、お嬢ちゃんは堅気だから無理ねぇが…新宿界隈を押さえてる2大組織の1つだ。もう1つが関西勢力の佐久間組…このマンションは、その佐久間組のシマにある」
「余所の敷地に、間借りして住んでるみたいなもの?」
「そうだ。だが…社長は、このマンションが気に入ってんだよ…学生時代から住んでるからなぁ…」
「…」
「話が逸れたが…色々会社組織にしたり、経費削減しても…この不景気で売り上げは右肩下がり。一時期よりは持ち直したものの、多額の上納金なんて納めるにはとても追い付かなくてな」
「納めないと、どうなるの?」
「シマ取り上げられて、俺達は路頭に迷う。で…その穴埋めを、ウチの場合…社長が1人で稼いでる」
「…」
「ヤバいものじゃねぇぞ?というより、社長は元々そっちが本業だった」
「…デイトレ?」
「そうだ…元々はそういう仕事してた。お嬢ちゃんの大学卒業して、アメリカに留学して…ハーバードのビジネス・スクールに行って…ニューヨークでバリバリ仕事してたんだ」
「えっ?聖さんって…MBA持ってるの!?」
ハーバード・ビジネス・スクールは、ハーバード大学の経営大学院だ。
経営学修士(MBA)を取得する為に、世界中から学生が集まって来る。
それを持つものは、世界中の一流企業から引く手数多…いや、世界の一流起業家が持つ資格と言っても過言ではない筈…。
「すげぇだろ?」
私は大きく何度も頷き…大声で言った。
「勿体ない!!」
「まぁな…でも……仕方なかった…色々あってな」
「何があったの!?」
勢い込んで尋ねた時、背後から声が掛かった。
「何の話?」
その途端棗さんは苦い顔で黙り込み、聖さんは目だけを凄ませた笑顔を棗さんに送り、私の背後から肩に手を置いた。
「お帰り…夕飯は?」
「美味しそうだね…だけど残念ながら、食事は済ませて来たんだ。お水貰える?」
私はミネラルウォーターをグラスに注ぎ、聖さんに渡した。
「余計な事を話すんじゃないよ、棗」
「…申し訳ありません。何かありましたか?」
「…それは、どっちの立場で聞いてる?親友として?それとも、秘書課長として?」
「秘書課長!?棗さんがぁ!?」
叫んでから『しまった』と思ったが、遅かった。
ギロリと棗さんに睨み付けられ、私は曖昧な笑みでごめんなさいと謝ると、話の邪魔をしない様に寝室に籠った。
聖さんは、自分の事を殆ど話さない…仕事の事も家族の事も、自分の口以外からも私に知られるのを嫌がっている様に見える。
どうでもいい話や私の話になると、とても饒舌で聞き上手なのに…。
大学の課題も終えてしまい、やる事がない…太一君が退屈しない様にと買って来てくれた雑誌も、美味しいケーキの店、新しく出来るショッピングモール、お洒落な観光スポットの情報等、外に出たくなる様な話ばかりで読みたくなかった。
仕方なく携帯を取り出し、メールをチェックする。
お知らせメールに混じって、大学の友人から週末に出掛けないかとの誘いが1件、友達に強引に誘われたサークルの先輩からデートの誘いが1件…何だか矢鱈と押し付けがましい人で、余り好きになれそうになかったっけ。
他には…件名を辿る内、ふと手が止まった。
『まだ帰らないの?』というメールは、繁雄から来たものだった。
思えば、もうじき8月も終わる…ひと月近くこの家で生活している事になる。
メールには、繁雄と叔母夫婦の近況が書かれていた。
「…入るぞ」
突然、棗さんが寝室に入って来た。
珍しい…そう思って見ていると、アロハのボタンをはずし出し、見詰める私に言った。
「何だ…男の着替えがそんなに珍しいか?それとも、そんな趣味があんのかぁ?」
そう言われて、慌ててリビングに戻る。
「棗さん、出掛けるの?」
ソファーに座る聖さんに問うと、気だるそうな返事が返って来た。
「…うん…ちょっと仕事でね…」
何だか、とても疲れている様に見える。
やがて現れた棗さんは、見た事のないスーツ姿で…少し光沢のある生地のスーツと中の黒いドレスシャツに白いネクタイは、やっぱり派手でいかにもヤクザっぽいけど、見慣れたアロハ姿とは違う男臭さがあって…。
「何だ…今度は、見惚れてんのか?」
「…ある意味ね…そんな格好、初めて見るし」
「惚れんじゃねぇぞ?」
「ハハハ…でも、格好イイよ。案外男前なんだね!」
「案外だけ余計だっつーの!じゃあ、社長…行って参ります」
「…あぁ」
棗さんが出掛けた後、キッチンの後片付けをしていると、いつの間にかシャワーを浴びた聖さんがバスローブ姿で冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出していた。
「……、……の?」
「え?何か言った?」
ザーザーという水音に掻き消された声に、私は蛇口を止めた。
「何?」
振り向いたすぐ後ろに、濡れた髪にタオルを掛けたままの聖さんが立っていた。
「…萌奈美ちゃんは…棗みたいな男が、タイプなの?」
「え?」
「それとも、太一みたいに犬っぽく懐いて来るのが好きなのかな?」
「…何言って…」
いきなり腕を掴まれてソファーに座らされると、正面から両肩を押さえ付けられた。
「棗はワイルド系だしね…昔から女にモテてたんだよ。俺とは、全く違うから…」
「聖さん…肩痛い…」
「君を守る為に常駐させたのが、仇になった?まさか、もう棗のモノになった…とかじゃないよね…」
何だ…この人…そう思うとカッとなって肩に置かれた手を振り払い、思い切り横っ面を叩いてやった。
「何トンチキな事言ってるかな、この人はっ!?」
「…」
「棗さんは、聖さんにとって大切な部下で親友なんでしょっ!?そんな人を信じなくて、一体誰を信用すんのよっ!?」
「……萌奈美ちゃん」
「馬鹿馬鹿しいったらないわ……私、帰るからっ!!」
「えっ!?」
「このひと月近く、何もないし…夏休みも終わるしね。いい機会だわ!」
「駄目だっ!!まだ…」
「私の事も、棗さん達の事も信用出来ない聖さんとなんて、一緒に居たくないのっ!繁ちゃんからも帰って来てってメールあったし!」
そう言って寝室に向かう私の前に、聖さんは立ち塞がって首を振った。
「駄目だよ、萌奈美ちゃん…本当に、危ないんだ…」
腹を立てた私は踵を返し、ベランダから寝室に向かおうとしてリビングのカーテンを開き窓を開けた。
そして、ベランダのサンダルを履いた途端…それは起きた。
何かが掠める音…それに続けて硝子の割れる音…。
部屋の中から私の名前を叫ぶ、聖さんの切羽詰まった声…。
「萌奈美ッ!?」
部屋の電気が消されて真っ暗になる…呆然と立ち尽くす私の後ろで又硝子が割れ…後ろに引き摺り込まれる瞬間、腕に焼け火箸を当てられた様な痛みを感じた。
外から漏れ入る薄明かりと、家電製品の光…うっすらと浮かび上がる聖さんのシルエットに、思い切り抱き締められる。
感じるのは左腕の痛みと、自分の勢い良く跳ねる心臓と呼吸の感触…そして聖さんの鼓動と揺さ振られ躰に伝わる震え。
そっと腕を上げて喉元を触ると、指先に微かに振動を感じる。
叫んでる…きっと私の名前を…そう思いそっと頬に触れた。
ゆっくりと顔が近付き吐息が掛かる…そっと触れられた唇は私の口を割り、熱を持った舌が私を絡め取って離れなかった。