第7話
「…話の続き…しようか?」
洗い物をする彼女の背中に声を掛けるが、何の反応も示さない。
「萌奈美ちゃん?」
肩に手を置くと、ビクリと痙攣し、オズオズと見上げた目が怯え切って潤んでいた。
…あぁ…限界なんだと思い、水を止めて話し掛ける。
「疲れたね…少し、ベッドで横になってくれば?」
見上げた彼女の眉が少し寄り、何も言わずに頷いてフラフラと寝室の扉に向かうのを見送った。
「無理をしているんですよ…物凄く…。」
カフェのマスターの声が蘇る。
「以前は、怖がりで甘えん坊で…引っ込み思案だったそうです。だが、強くならなきゃいけないと誰かに言われたらしいですね。『誰にも守って貰えないなら、泣き寝入り等せず、自分の意思を通せる程強くなれ』と言われたそうです。それからは、少しずつ実践して来たんだって言ってました」
「…そうですか」
「でもね…やはり、怖いものは怖いんですよ。彼女は、あんなに小さくて…若い女の子ですからね」
「どういう事です?」
路上で煙草を吸って歩いていたヤクザとぶつかって絡まれた友人を助ける為に、往来のギャラリーを味方に相手を論破した彼女をカフェに送り届けた時に、マスターが話してくれた。
「萌奈美ちゃんがバイトに来てくれたのは、高校1年生の頃でした。理不尽な客に対しても、小さな躰で堂々と意見を言う姿に、最初は驚き尊敬したんです。でもね、違うんですよ…多分、今も裏で震えてるんです」
「え?」
「最初は機嫌が悪いのか、気分が悪いのかわからなかった…でもね、膝を抱えて震えてるんですよ。理由を聞いても最初は答えてくれなくて、随分と難儀しましたけどね」
「…」
「自分の言った事や行動に、後悔した事は一度もないと言ってましたよ。でもその為に、学校でも随分と理不尽な目に会って来たのは一目瞭然でした。濡れ鼠でやって来たり、アザだらけの時も有りましたから…」
「誰か、助けてくれる人間は…家族は!?」
「叔母一家と生活しているんですが、余り大切にはされて来なかった様です。萌奈美ちゃんの住んでいる家は、元々彼女の父親が建てた家だそうですが、その家も父親の退職金も、全て叔母夫婦に取られたらしい。彼女は、大学も奨学金で通ってるんですよ」
「…」
「明るく振る舞ってますがね…時折どうしようもない位怖くて寂しくなるんでしょう…虚勢を張った後は特にね。でも平気だと笑うあの子が、いじらしくてねぇ」
「…そうですか」
「誰か…助けて上げる人と…早く巡り会えばいいんですけどね」
「…」
「萌奈美ちゃんを落とそうとする人は、大変ですよ…」
「…そうでしょうね」
マスターは優しく笑うと、カウンターの中に戻って行った。
「入るよ、萌奈美ちゃん」
寝室のドアをノックしてカーテンの閉まった薄暗い部屋に入り、ベッドの上に誰も居ない事に眉を寄せた。
ベッドの周囲、クローゼットの中…どこにも居ない。
はたと思い付き、血が凍った…昨夜彼女は、ベランダの手摺から飛び降り様としてなかったか!?
慌ててカーテンを開けてベランダに出ると、隅の方に膝頭に顔を埋め、膝を抱えている彼女を見付けた。
ホッと安心して近寄り、声を掛ける。
「何してるの、こんな所で?」
「…中…寒いんだもん」
「クーラー、消せばいいのに」
「リモコン…どこか、わからなかったんだもん」
「中…入ろう」
「…」
答えない彼女の隣に、一緒にしゃがみ込んでやる。
「ここがいいの?」
「…さっきね」
「ん?」
「下覗いてみたの…やっぱり高いね……落ちたら、死んでたかも」
「危なかったね…肝が冷えたよ」
「…ありがとう」
「いえいえ…どう致しまして」
少し戯けた様に答える俺の横で、彼女はそれっきり口を開かなかった。
そこかしこで鳴く蝉のワシャワシャという合唱が、建物に反響する。
上がる気温に反して、冷たいコンクリートの壁で覆われた日陰は、思いの外涼しかった。
「…萌奈美ちゃん」
「…」
「…好きだよ」
「…」
「それが理由」
何も反応を示さない彼女の様子を窺おうと少し躰をずらすと、膝頭から少しだけ顔を上げて視線を正面にぼんやりと投げている。
「……聖さん、幾つ?」
「29歳」
「社長って事は、ヤクザの親分でしょ?」
「まぁ…余り大きな組じゃないけどね」
「…そんな人が…何で私?」
「…それって、変な事?」
「変でしょ…思いっ切り」
「んー…でも、好きになっちゃったんだから…しょうがないよね?」
「…」
「ねぇ…知ってる?」
「何?」
「恋は落ちるモノで、愛は育むモノなんだって」
「…」
「俺は、萌奈美ちゃんに恋に落ちて…今現在、自分の中で愛を育んでいます」
「それ、変だよ…」
「何で?」
ふぃっと彼女は顔を上げ、俺の顔を見据えて言った。
「だって、恋は1人で落ちるのかもしれないけど、愛は…愛を育むのは、2人でするものでしょ?」
「でも、萌奈美ちゃん…俺の事、何とも思ってないでしょ?」
「……」
正論と自分の想いのギャップに気付き、彼女はパチパチと瞬きをして…少しだけ視線を外した。
「だって…聖さんの事、よく知らないもん」
「そうだね」
「お客さんの中では…好きだったよ。優しいお兄さんみたいだし、いつも庇ってくれてたし…少し意地悪だけど…」
「そりゃあ、嬉しい!」
「…でも、ヤクザは嫌い」
「うん…わかってるよ。だからね…本当は、萌奈美ちゃんに告白するつもりもなかったんだ」
「何よ、ソレ?」
何となく空を仰いで、溜め息を吐きながら…自分の想いを口にした。
「あのカフェで美味しい珈琲飲んで、君の笑顔を見て過ごす…それだけで満足するつもりだったんだよ」
「ソレって…恋とか愛とかじゃなくて、単に『妹的ポジション』で愛情を感じてくれてただけなんじゃないのぉ?私…見掛けだけは小さくて、こんなだし」
彼女が疑いの眼差しで俺を見上げる…その顎をそっと支えて、顔を少し傾け唇を重ねた。
思った通り…ふっくらとして甘く柔らかい…自分が暴走してディープキスになる前に唇を離し、瞬きをする事も出来ず固まっている彼女に、吐息の掛かる至近距離で囁いた。
「…こういう意味で…好きなんだけど?」
「っ!?」
パチパチと瞬きが出来た途端、再び膝頭に顔を埋めてウーウーと呻き出す……可愛いな、こんな反応をするんだ…そう思いながら、彼女の頭をわざと乱暴に撫でてやった。
「…やっぱり、からかってる!」
「違うよ…ごめんね、同意も得ずに」
「…」
「でも萌奈美ちゃんが、俺の気持ちを疑ったからだよ?」
「…」
「本当にね、カフェで会うだけで我慢するつもりだったんだ」
「…」
「だけど、事情が変わった…君が…狙われた」
「…」
「俺の行動を監視してたんだろうが…君への想いがバレたって事かな…」
「…」
「さっきも言ったけど、相手が確定出来ない…然も、間違いなく同業者だ。大至急君を保護する必要があった」
「ヤクザって…一般人に手を出さないって聞いたよ?」
「だから……君は、俺と関わる事で…一般人から除外された訳です」
「へっ?」
再び顔を上げた彼女に、思わず照れながら答えた。
「……萌奈美ちゃんは…俺の恋人だと思われてる…多分ね」
「エェーッ!?」
そんな嫌そうな顔をしなくても…正直って言えばそうなのかもしれないが…。
「…そんなに嫌な事?」
「えっ?いゃ…そういう事じゃなくて…えっ…でも…あのっ…」
「ハイハイ、又混乱しちゃった?」
「…ごめんなさい」
「兎に角、事態が収束する迄ここで生活してもらいたいんだ」
「…警察に頼る事は…無理なんだよね?」
「さっき、君自身が言ってたじゃない」
「家には、帰っちゃいけないの?」
「…叔母さん達に迷惑掛けるかもしれないし…君を守るにも、ここの方がベストだね」
膝に耳を付ける様にしてアンニュイな表情を見せる彼女の頬を、指の背でそっと撫でてみる…嫌がりもしない彼女の頬は、驚く程冷たかった。
俺は立ち上がって、彼女に手を差し出した。
「中に入ろう、萌奈美ちゃん」
ゆるゆると差し出された彼女の手を取る…凍った様に冷たい手を、俺はしっかりと握って寝室に戻り、彼女を抱き上げてベッドに上がり、その躰を抱き締めて横になった。
腕の中の冷たい躰は、有り得ない程の脈を叩き出し、少し強張って抵抗する。
「大丈夫…何もしないよ。誘拐教唆に、強姦罪も加えられたくないからね」
強張っていた躰から徐々に力が抜けて、穏やかな息遣いになる。
「…ねぇ…」
「ん?」
「夏休み終わる迄に…解決する?」
「…わからない」
「…私…大学に、行ける?」
「…ごめん…本当にわからないんだ」
「そっか……わかった」
意外な程あっさりと納得した彼女に驚き、俺は少し身を引いて顔を覗き込もうとした。
「萌奈美ちゃん?」
「…何?」
「こっち向いて」
胸元からゴソゴソと上を向き、俺と視線を合わせた彼女の顔を見て、もう一度尋ねる。
「わかったって…ここに居るの了解したって…取ってもいいの?」
「うん」
即答した彼女の瞳に、翳りはない…。
「そんな、簡単に決めていいの?」
「…聖さん、私にゴネて欲しいの?」
「いや…そういう訳じゃないけどね…」
戸惑いながら笑い掛けると、彼女は自ら俺の背中に腕を回して胸に抱き付いた。
「守ってくれるんだよね?」
「守るよ…どんな事をしても…約束する」
「私ね…大学なんてどうでもいいの…でも、まだ死ねない…死にたくない!!」
「大丈夫…俺が守る…」
彼女の躰に回した腕に力を込めて抱き締め、左耳にそっと囁いた。
「…キスしていい?」
「え?」
「君に…キスしたいんだ」
「何?」
そっと唇を寄せると、途端に躰を強張らせ掌で俺の口を塞ぎ、怒った様な声音で問い質される。
「何するかな、この人はっ!?」
「えっ?」
「さっきは私が疑ったからだよね!?今度は、どんな言い訳するの!?」
「萌奈美ちゃん?」
「キスは…恋人同士がするものでしょ!?それを、断りもなく…2回目は酷いんじゃない!?」
「…」
真剣に怒る彼女を見て、何が起こったのかわからずにいた。
さっきは確かに不意討ちだったが…今度はちゃんと断った筈だ…しかも耳元で…。
「…ごめん」
甘い気持ちが吹き飛んで、俺はベッドの上に座った。
「…この家で過ごすルールなんだけど、基本家には棗か太一のどちらかが常駐する事になる。君の外出は認めない。後、玄関前、マンションの入口、建物から駐車場の入口に、1人ずつ…表の車に1人、計4人がガードしてる。外と連絡を取ってもいいけど、余り事情は話せない…わかるね?」
目を見開き、彼女は頷いた。
「買い物は、棗か太一に頼むといい。後で、携帯の番号とアドレス教えるから……質問は?」
「…私は、どこで生活するの?」
「生活は…家の中で…」
「どこで寝ればいいの?」
「ここだよ?」
「聖さんは?」
「ここだけど?」
途端に、口をへの字に結び睨む彼女に、俺は笑い掛けた。
「さっきも、キスしようとした!」
「この家は2LDKで、他には休める場所はないよ」
「もう1つの部屋は?」
「仕事部屋…パソコンだらけだから、布団は持ち込めない」
「じゃあ、リビングで…」
「リビングには、棗か太一が寝てるけど?奴等も男だから…然も、かなり獰猛なね」
「…選択肢がないって事?」
「誓って強姦は致しません…信じてくれない?」
「…」
「君の合意がない限りは、手を出さないよ」
「…キスは?」
「たまにはご褒美欲しいけどね…強要はしない」
「……わかった」
渋々ながら、彼女が納得した事に安堵する。
「萌奈美ちゃんから、何か希望ある?」
「あるよ」
「何?出来る限り叶えて上げるよ」
途端にニンマリと彼女が笑い、俺に膝を寄せて来た。
「バイトしたい!」
「それは…」
「だって、カフェのバイトなくなって…稼がないと独り暮らし出来ないもん」
「でもね…」
「ここで雇って!」
「え?」
「住み込みの家政婦!私、家でもやってたから得意だし…掃除も洗濯も、ガードしてる人達みんなの食事も作るから!」
「…」
「ねぇ…駄目?」
「…幾らで契約してくれる?今迄、時給幾らだった?」
「1200円」
「じゃあ、日給20000円でどう?」
彼女は満面の笑顔を見せた。