第5話
私はひたすら走っていた…黒い影が幾つも追い掛けて来て、私を捕まえに来る。
赤アロハの男が、背後からナイフを片手に何かを叫ぶ…目の前に現れた黒スーツの男が私の腕を掴み、片手にナイフを振りかざし…。
「キャーーーッ!!」
……叫んだと思った声は喉に張り付き、思い切り咳き込んで目が覚めた。
激しく咳き込みながら辺りを窺う……知らない部屋、知らないベッド…これは現実…紛れも無い現実…。
隣の部屋から近付いてくる足音にギクリとして、私は身を隠す場所を探し、ベランダに出る窓を開けて外に出た。
もしかしたら、隣の家に逃げ込めるかもしれない…そうしたら、警察に連絡してもらって……しかし、期待したベランダは独立しており、眼下には遥か彼方に植え込みが見えるだけだ。
それでも、上手く行けば植え込みがクッションになって、擦り傷位で済むかも……そう思って、何とか手摺によじ登った。
「止めて…萌奈美ちゃん…」
背後から緊張して、少し震えた声が聞こえる。
「無鉄砲な事をしちゃいけないって…あの時も言ったよね?いくら君でも、その高さから落ちたら…命がない…」
おずおずと振り向くと、緊張する見知った顔…一体何で…どうしてこの人が!?
「降りて…ゆっくりでいいから…」
「…どう…して?」
「…」
「…何で…こんな事…」
「君を助ける為だよ」
「…助け…る?」
「そう…強引な手段だったけどね…君を助ける為なんだ」
「…」
「落ち着いて話そう…先ずは、そこから降りて…」
「…や…嫌だ…」
「大丈夫…俺を信じて」
そこに有るのは、いつもの優しいお客さんの顔…この状態を、本当に心配している人の顔だ。
だけど、助けるって何?
何でヤクザ?
全身が震えて嫌な汗が流れ、何となく痺れてボゥッとする。
「…萌奈美ちゃん……深く息して」
そう言われて気が付いた…私、過呼吸起こしてる?
「手を出して…萌奈美ちゃん」
確かに、こんな所から落ちたら……怖くなって、言われるままに腕を伸ばす。
「いい子だね……俺を信じて…そのまま、俺の手を…」
その時、部屋の中から違う人間の…聞き覚えの有る声がした。
「セイヤ…お嬢ちゃんの荷物…」
「来るなっ!!棗っ!!」
あ…やっぱり…赤アロハの男だ……私にナイフを突き付けて、酷い事した人!?
思わず仰け反ってしまい、重心が後ろに下がる。
幅10センチ程のベランダの手摺が、私の与えられたスペースの全てだったのに…。
伸ばした腕は空を切り、視界はベランダの外の星空を仰いだ……これは私の罪……助け様としてくれた人を信じ切れなかった、私の罪だ…。
「萌奈美ッ!!」
突然、有り得ない力で引き戻され、そのまま倒れて彼の胸に抱き締められる。
震える躰と上がる息…抱き締められた腕が、ワナワナと震えていた。
「棗!!ビニール袋持って来いッ!!」
そう叫び、私を抱いたまま起き上ると、彼は再び凄い力で抱き締めた。
「…勘弁してくれ……これ以上、大切なモノを失いたくないんだ…」
何…大切なモノって?
ぼんやりした頭で考えながらも、私の躰はまだ恐怖で強張ったままだ。
「持って来た……何があった?」
赤アロハの男が持って来たビニール袋を私の口に当て深く息をする様に言うと、彼は眉を寄せて困った顔で言った。
「少しパニックを起こしたんだ…序にスポーツドリンクも2本程持って来て、彼女の着替えもこっちの部屋に運んでくれ」
「わかった」
過呼吸が治まり、スポーツドリンクを飲んで…自分でも信じられない程喉が渇いていた事に気が付く。
相変わらず彼のシャツの背中と胸を握り締めたままの私に、彼は頭の上から優しく囁いた。
「そのまま寝ていいから…詳しい話は明日にしよう。ゆっくりお休み…」
そう言って、返事も答えられずに頷くだけの私の髪や背中を撫で、優しく包み込んでくれた。
こんなに優しくしてくれるのに…この人…何でヤクザなんだろう……。
誰かに抱いて寝て貰うのって、いつ以来だっけ……人肌って、なんて優しくて落ち着くものなんだろう…。
夜中にも変な夢を見た気がするけど、優しく寝かし付けられた…様な気がする。
何にしても目覚めた時、名前も知らない男性の胸に自ら抱き付き、腕枕されて寝ていた事に私の頭は混乱した。
然も起き抜けに、とんでもないイケメンが私の顔を覗き込み、満面の笑みを浮かべて、
「お早う、萌奈美ちゃん」
なんて事を言ったのだ!?
慌てて相手の胸に手を付いて距離を取り、相手の格好と自分の姿を確認し…どうやら致してしまった訳ではない様だと確信する。
その様子を見てクスクスと笑う彼が、枕元に置いた眼鏡とカチューシャを着けた。
「…お…お早う…ございます」
「大丈夫だよ。何もしてない」
「え……あ…はぃ」
「それとも、した方が良かった?」
「えっ!?いや…そんな事は……」
ゴニョゴニョと口ごもる私に、彼は起き上がって笑い声を上げた。
「お腹空いてる?夕べは、食べ損ねたでしょ?」
「……何か…よくわかんない」
「じゃあ、シャワー浴びておいで。朝食はその内に届くから。着替えは、ボストンの中だからね。脱いだ物は洗濯機に入れて…あ、タオルとバスタオル、歯ブラシなんかは洗面所の棚の中。風呂場や洗面所の物は、好きに使ってくれて構わない……質問は?」
「……無い…かな」
「そう?じゃあ、行動開始!」
ベッドの下に置かれた、私の大きなボストンバッグの中には、洋服や下着、化粧品や生理用品、パソコンや机の上に置いたままにしていた大学の課題プリントや本迄…見事に納められていた。
驚いたのは、小さな巾着に入った私の印鑑と通帳、健康保険証や貴重品迄入っていた事だ。
「あ…あの…」
「質問は後でね。朝食の後、ゆっくり話そう…いいね?」
そう言われたら、頷くしかなかった。
必要な物を持って、洗面所の鍵を閉める。
大きな鏡の前に立つ自分を見て、私は溜め息を吐いた。
「何だかなぁ…」
ぐちゃぐちゃの髪に泣き腫らした目、薄汚れた顔の口元には、ガムテープの糊が残っている…酷い顔。
それに対して、何なの…あの朝から無駄に爽やかな笑顔!?
人が混乱してるのをからかう様に、『それとも、した方が良かった?』って、どういう事!?
それより、何で自分から抱き付いて寝てんの!?
風呂に入れって、もしかして超汗臭かった!?
…落ち着け、私…まだ混乱してる…。
一息吐くと、私は冷水でバシャバシャと顔を洗い、服を脱いでシャワーを浴びた。
出て来た頃には幾分落ち着いていた…一番驚いたのは、昨日あれ程何が何でも逃げなきゃいけないと思っていた自分が、事情を聞いてから判断してもいいかな…と、思っている事だった。
『君を助ける為だ』と言った彼の言葉を鵜呑みにする積もりもないし、添い寝をして貰ったからといって情に流される…私はそんな女じゃない…と思う…多分。
言ってる事が胡散臭い様なら、その時に考えればいい…化粧水を付けて、髪を乾かし終わった頃には大分落ち着いた。
洗面所から出ると、リビングで煙草を吸っていた彼が、私を見てニヤリと笑った。
「いつもの顔に戻ったね、萌奈美ちゃん」
「まだ少し緊張してるけどね」
「当然だよね…珈琲入れてくれる?その間に、俺もシャワー浴びて来るから」
そう言って、キッチンを指差した。
「豆は?」
「棚に有るのをどれでも使って…ミルもサイフォンも有るから」
「お好みは?」
「萌奈美ちゃんに任せるよ」
そう言って、彼は手を振って洗面所に消えた。
棚の前に立って驚いた…本当に珈琲好きなんだ…。
「確か…余り苦いのは好きじゃなかったよね…」
私は、サントスとブルーマウンテン、モカをチョイスして混ぜ合わせ、珈琲ミルで豆を挽いた。
カリカリという音と共に、部屋の中に珈琲の香りが広がる…自分が香りを引き出している様な、この瞬間が私は好きだ。
フラスコに水を入れ、アルコールランプで温める。
その間に漏斗部分に布フィルターを設置して浮かない様にチェーンの先のフックを漏斗口に引っ掛け、フィルターの上に挽いた珈琲を入れる。
お湯が沸いてきたら火を遠ざけ、フラスコと漏斗部分を合体し、再びランプでフラスコを温めてやると…沸騰した湯がゴボゴボといいながら漏斗口から逆流するのだ。
浮き上がった珈琲の粉を静かに混ぜて沈めてやり、2〜3分…アルコールランプを外してやると、漏斗に溜まったお湯がフラスコ部分にゆっくりと戻って行く…。
いつ見ても魔法みたい…調べたら、19世紀にはサイフォンは既にヨーロッパで使われていた様で、それが少しずつ改良されて行ったとか。
家でサイフォンの珈琲淹れる人って、本当に居るんだ…漏斗に残った珈琲をビニールに捨てて、手早く洗い終わった所で洗面所から彼が出て来た。
「いい香りだね…」
そう言って、食器棚からカップを2つ出して私の前に置いた。
わっ…Wedgwood…ブルジョアだぁ…。
出されたカップに珈琲を注ぎ、確かブラック派の彼の前に置くと、嬉しそうにありがとうと言って香りを楽しみ口に含んだ。
「…美味しいね…ブレンドしてくれたの?」
「ブルマン4、サントス3、モカ3」
「愛情は?」
「…無いよ…今は、お客さんじゃないし」
「つれないね…」
「…」
「朝食まだ来ないし、先に話しようか?聞きたい事、沢山有るんじゃない?」
ニヤリと笑って珈琲を啜る彼に、少し眉を寄せた。
この人って…時々とても意地悪…最初から順序立てて説明する気ゼロなんだ…。
「…どうして誘拐なんかしたの?」
「昨日も言ったけど、君を助けて守る為」
「どういう事?」
「…この間、カフェが襲われたよね…あれ、俺が原因」
やっぱり…彼がヤクザだと知った時から、もしやと思っていた。
先日、私のバイト先が何者かに銃撃されたのだ。
丁度彼も店に来ていて…私がオーダーされた珈琲をテーブルに運んだ途端、表の道から銃撃されて…彼は身を挺して私を庇ってくれた。
「…あの時は…ありがとう」
「いや…だから、俺のせいなんだよ」
「ヤクザ同士の…抗争ってやつ?」
「ん…まだ、相手がハッキリわからないんだけどね」
「…スッゴイ迷惑!」
「…ごめんね」
「私もだけど…マスターも……お店滅茶苦茶で、硝子も割れて…昨日も片付け大変だったんだから!恵ちゃんも、ミナちゃんも辞めるって言ってたし、マスターも…お客さん戻らないかもって…店畳まなきゃいけないかもって…」
「ゴメン」
「ゴメンで済んだら警察要らないんだからね!?」
「マスターには…ウチの弁護士が会いに行く事になってる…店の弁償や修理、もしも移転して営業するならその補償も含めて、ちゃんとする手筈になってるから」
「…誠意を見せるって事なら、自分が謝りに行くのが筋じゃない?」
「…それは…相手に余計迷惑を掛けるからね」
「迷惑?」
「そう…やっぱり、ヤクザだからさ」
目の前のイケメンが、少し哀しそうな顔で笑う。
…変なの…まるで、ヤクザやってるのが悲しいみたいじゃない…。
「……で、私にどう関わりがある訳?」
「…狙われてるのが…俺なのか、萌奈美ちゃんなのか…わからなかったんだ」
「はぁ!?」
「でも、昨日棗が君を迎えに行った時、拐われそうになったよね…それで、やはりターゲットは萌奈美ちゃんだったんじゃないかと思うんだ」
「ちょっと待って……整理させて…」
「うん」
「棗って…赤アロハの人?」
「赤アロハ?…着てたっけ、昨日…君を…誘拐した、年嵩の方だよ」
「私を誘拐したのは、その棗…さんで……他に居たのは、若い人。私と同じ歳位の…」
「それは太一だな…棗の舎弟で、ウチの社員だ」
「社員?」
「ウチは会社組織にしてあるんだ…一応ね」
「…そう…」
「棗に追われてる時に、黒い車に乗った奴に捕まりそうにならなかった?」
「あ…黒いスーツの人…」
「……顔、見たんだね?」
「うん…男の人…」
「多分その男か…その仲間が、カフェを襲撃したんだと思う」
「誰なの!?」
「わからない…顔を見たのは、萌奈美ちゃんだけなんだ」
「……基本的な質問、いい?」
「どうぞ?」
「…何で…私が襲われる訳?」
「それは…」
途端に歯切れが悪くなり困った顔を見せる彼に、不味い事を聞いたのかと躊躇した時、突然横槍が入った。