第31話
四谷に建つ聖の本家は、驚く程大きなお屋敷だった。
まるでテレビの時代劇にでも出て来そうな、古くて大きな平屋建ての日本家屋に、料亭や名勝古刹の様な日本庭園…そして、大勢の使用人達が住んでいる。
聖さんはここに帰って来てから仕事も忙しい様で、普通のサラリーマンの様に朝出勤して、夜中遅くに帰って来る。
それに引き換え、私は…。
「お嬢様!そんな事をして頂いては困ります!」
「お天気も宜しいのですから、お部屋にばかり居られては…」
「申し訳ありませんが、掃除をさせて頂きますので、どこか他に…」
毎日毎日、サキさんの呆れた様な溜め息と共に、右往左往する日々が続いていた。
家事の手伝いをする事も拒まれ、部屋に籠る事にも難色を示される。
庭に出てしゃがみ込んでいると、庭師から苔が傷むと注意された。
以前の私なら、そんな事は知らない…自分の行動は自分が決めると文句を言っていただろう。
しかし、今は……私は…自分の発する言葉が、怖くて仕方ないのだ。
私の不用意な言葉が…殺人を引き起こし、皇輝と近松さんのお腹の子供の命を奪い…皇輝の母親の精神を壊し…そして、自分の躰さえも汚してしまった…。
私のちっぽけな正義感と、みっともない虚勢の為に…多くの人々が不幸になり、聖さんを始め多くの人々に迷惑を掛けたのだ…。
屋敷の人達は、きっと皆知っているのだろう…蔑む様な溜め息が私を苛む。
屋敷に居た堪れず、近くの公園で時間を潰していると、中高生に間違われて補導された。
「お嬢様…困ります!仮にも当屋敷は、由緒ある聖組のお屋敷なのですよ?そのお屋敷にお住まいの方が、例え間違いであっても補導される等……留守を預かる身として、旦那様に申し訳が立ちません!今回の事は私の胸に納めますが、二度とこの様な事が起きぬ様に…宜しくお願い致します!」
そう言って、又もサキさんに溜め息を吐かれる。
私には…この屋敷に居場所がない……私はこの屋敷の人達にとって、ただの厄介者でしかないのだ。
外出をする時には身分を証明する物を持ち、携帯とメモ帳とペンを持ち…社会人の様にスーツを着た。
そして…私はいつしか、毎日外で生活をする様になっていた。
外苑西通沿いに本部事務所を引越し、今迄本家に管理を任せてあった不動産や店等の引継ぎ、会計監査、地回りの配置、周辺各位への挨拶回りと、俺は多忙を極めていた。
年明けには真木を相談役に、棗を専務にし、新宿のフローリストの会社を任せ、俺は統括責任者として全体を把握する立場に立つ。
「その内に、会計事務所も作って下さい」
紹介状を持った、俺よりも歳上の男の面接が終わった後、菊池が冗談めかして言った。
「お前もトップに立ちたいのか?」
「憧れない訳じゃありませんが…それよりも、管理物件の数が多過ぎて裁き切れません」
「そっちも補充が必要か…誰か当てはあるか?」
「些か…小さな会計事務所を経営する男がいます。地価の高騰と病気の家族の為に首が回らない状態で、事務所を丸ごと取り込もうかと…」
「人物は?」
「問題ありません。キャリアも相当な物です…強いて言うなら、年齢ですかね」
「幾つだ?」
「所長が52歳、後は40代が1人、30代が2人」
「他の人物の調査も進め、こちらの仕事内容他諸々承知して納得している様なら、お前が紹介状を書いてやるといい」
「有難うございます」
頭を下げる菊池を見て、不機嫌そうに棗が吐いた。
「序に花屋の代表も、どこか他所から引き抜いて来てくれ!」
「何言ってるんです、専務代行?」
「柄じゃねぇんだ!」
ムッスリとした棗を笑いつつ、菊池は一礼して社長室を出て行った。
「所で、お嬢ちゃんはどうしてる?」
「相変わらず、何も話さない」
「先代には、喋ったんだろ?」
「あれ以来、又黙んまりなんだ…」
仕事の忙しさに追われ、最近萌奈美とゆっくり時間を過ごす事も出来ない。
同じ部屋に過ごしても、使用人達の目を気にする素振りを見せ、スキンシップどころか俺の話を聞く事さえも緊張して出来ずにいる様だった。
「世話をする人間がいるからと思って、あの家に引き取ったんだが…時期尚早だったかな」
「だが結婚したら、あの家に住むんだろうが?なら、少しでも早く慣れといた方が…」
「俺も、そう思ったんだが…」
プレジデントデスクの上の電話が鳴り、俺は受話器を取り上げた。
「社長、オフィス柴の柴健司様からお電話です」
「繋いでくれ」
「よぅ、ナイト…その後調子はどうだ?」
「お久し振りです、柴さん。その節は、お世話になりました」
「いゃ…俺も仕事だったからな。所で、あの時の娘の事だが…」
「萌奈美ですか?今は、聖の本家に引き取りました」
「みてぇだな…」
「ご存知でしたか?」
「あぁ…今日知った。言葉が不自由みてぇだが……上手く行ってねぇのか?」
「は?」
「あの時、意識をなくしていた時よりも…顔色も悪く、何だかやつれている様だった」
「…お会いになったのですか?」
「秘密にしてくれと言われたんだが…どうにも気になってな」
「一体どこで…」
「俺の事務所だ」
「え?」
「事務員と調査員募集の求人案内を出してたんだがな…それを見て、面接に来たんだ」
「…」
「彼女には、俺の事は話していなかったらしいな?」
「はい」
「驚いてたぞ…そして礼を言われた。携帯の画面越しにな」
「そうでしたか」
「求人に関しては断らせて貰ったが、やはり言葉が話せないからかと、しつこく理由を聞かれた。何でも、結構な数の会社を回ってたみてぇだぞ?」
驚いた…体力どころか言葉も話せない状態で、バイトを探している等と…。
だが、一緒に暮らすと…いずれは結婚すると約束したのだ。
何故、今更バイトする必要がある?
何か欲しい物でもあったのだろうか…?
「ウチで雇えねぇ理由は、説明したがな…俺は佐久間憲一郎の弟で、ナオは義理の娘で…堂本組に関係のある人物を無断で雇う訳にはいかねぇと話すと、納得してくれた。序に、今迄の会社が何故断ったか、理由も話して置いたぞ」
「何か問題でも…」
「…現住所が、聖本家の住所じゃなぁ…誰も正社員としては迎え入れないだろうよ?」
「…バイトではなく?正社員としての面接だったのですか!?」
「…やはり、知らなかったか……然も応募理由が、住居の斡旋紹介だってんだから…お前と、何かあったのかと思ってな」
「…」
高校の時も、寮の完備された就職先を考えていたと言っていた。
だが、何故だ…!?
一緒に暮らす事も納得させた筈だ!
俺への気持ちも…。
「今日の午前中に面接に来た。そう遠い場所でもねぇし、今頃は帰ってるんじゃねぇか?」
「…そうですね」
「何かな…結構、思い詰めてた様子だったからな。少し心配になったんで連絡したんだ」
「有難うございます」
「…今日、何かの記念日なんだってな?」
「え?」
「知らなかったのか?大切な記念日なんだって…これも何かのご縁ですねって、彼女笑ってたぞ?」
「…」
「お前達…本当に、上手く行ってるのか?」
「…私の…驕りなのかもしれません」
「話し合えよ、ちゃんと……じゃねぇと、取り返しつかねぇぞ!?」
「…」
「ナオも…俺の嫁さんもそうだったが…思い込んだら一直線でな。結婚前は、俺から離れる事ばかり考えてて…その時の様子に似てるんだ」
「…話してくれません…言葉は勿論ですが、メールをしても何も答えないんです」
「お前にその気があるなら、しっかり捕まえとかないと…どっかに行っちまうぞ!?」
「わかりました…ご連絡、有難うございます」
俺は電話を切ると、心配そうな棗に後を任せ、携帯で電話を掛けながら自宅に戻った。
「サキ!萌奈美はっ!?」
「朝から、外出されております」
「どこに行くか、聞いているか?」
「いえ…最近は、旦那様がお出になられると直ぐに外出されて…本日も遅くなるので、ご夕食は必要ないとの事でございました」
「本日も?いつも食べてないのか!?夜食は!?」
「いぇ…ご用意した事はございませんが?」
俺と一緒に朝食を摂る時も、小鳥が啄む様にしか食べない…昼も夜も…1人でちゃんと食べているとは、到底思えなかった。
この家に引き取っても、一向に体重が増えない事を心配していたのだが…。
「いつも何時頃に帰る?」
「まちまちでございますね…旦那様のお帰りになる直前迄、お出掛けの事もございます。夜遊びも、程々にして頂かないと…変な噂でも広がったら、聖の威光に傷が付きます。私の忠告も、頭を下げるばかりで一向に聞いて頂けない様ですし…」
「忠告?何を言った!?」
「いぇ…特には…ただ、こちらのお宅の事をよく存じ上げないご様子で…お遊び相手にしても、余り相応しい方ではないかと…」
「どういう意味だ!?」
「いぇ、何かと…公園でぶらぶらしていて警察に補導されたり…私共に対しても、おどおどするばかりで…終いには姿を見掛けると逃げ出す始末で…」
「サキ…俺は、萌奈美は病気だと言わなかったか?」
「そうお聞きしていましたが、実は話せると…仮病なのだと聞きました」
「誰が言った!?」
「いぇ…誰ともなく…」
「いい加減にしろっ!!お前等全員、解雇されたいかっ!?」
「滅相もございません!」
「いいかっ!?萌奈美は、この屋敷の女主になる女性だぞっ!!」
「えっ!?」
「お前に任せれば間違いないと思ったのは…どうやら、俺の買い被りだった様だな!?」
「…旦那様!?」
「俺は妻に迎える女性以外、この屋敷の中に迎える積もりはないぞ!?お前達が萌奈美に仕えられないと言うならば、即刻解雇してくれるっ!!」
「その様な事は、決して…」
「この家の威光や歴史等、そんな物は必要ない!!そんな物は一切気にしなくていいのだと、幼い頃の俺にそう言って励ましてくれたのは、お前じゃなかったか!?」
「…申し訳ありません、旦那様」
「萌奈美の好きな様に…萌奈美が、この家で安らげる様に世話をしろと……皆に伝えろ!」
「承知致しました。誠心誠意、萌奈美様にお仕え致します!」
「…宜しく頼む」
サキは深々と頭を下げ、萌奈美への忠誠を誓ってくれた。
この屋敷の使用人達に置いて、女中頭の権威は絶大だ。
サキが、萌奈美の事を俺の遊び相手にしか思っていなかったという事は、屋敷の使用人達が、萌奈美に対してぞんざいな扱いしかしていなかったという事だろう。
屋敷に連れ帰った事で、皆が親父の様に理解していると思い込んでいた、俺の手落ちだ。
萌奈美は…きっと、敏感にそれを感じ取っていたのだろう。
だから、就職して屋敷を出ようとしていた…何故、言ってくれなかったのか?
屋敷の使用人達の態度が冷たいと、俺に訴えてくれていたら…。
「もう傷付けないと…そう、誓ったのに…」
萌奈美の携帯に電話やメールをしても、電波が届かないか電源が入っていないというメッセージが届くばかりで、一向にメールの返信もない。
大体…今日が記念日って…何の事だ?
俺の秘密主義が、感染ったっていうのか!?
「旦那様、大旦那様がお呼びです」
使用人の呼び掛けに、俺は離れに足を運んだ。
「お呼びでしょうか?」
「…あの娘がいなくなったそうだな?」
「お聞き及びでしたか」
「今日は、両親の結婚記念日だそうだが、聞いているか?」
「えっ!?そうなのですか!?」
「あの娘は、毎日私を見舞いに来る…最近は、携帯で少し会話をする様になった」
「…そうですか」
「マリアと…お前の母親と同じ様な表情をする。寂しくて仕方がないという…そんな表情だ」
「…」
「ちゃんと愛してやってるか、夜?あの娘は、お前にちゃんと笑顔を見せているか?」
「…萌奈美は、何か言っていましたか?」
「いや…何も。お前に、感謝しているとしか書いて来ない」
「…俺は…今日が、彼女にとって大切な記念日だという事も知らなかったんです」
「…情けない息子だな」
「全くです」
「娘の行き先を、探しているそうだな?」
「行き先を…ご存知ですか!?」
「いや…ただ、毎年誕生日や記念日には、墓参りに行くと言っていた。この世で誰も共に祝う人間はいないから、記念日には毎年墓参りに行って両親と過ごすと…」
「墓ですね!?有難うございます!!」
俺は頭を下げ、離れを飛び出した。




