第30話
百人町の高架下にある寂れた作業所に到着した時には、夜中をとうに過ぎていた。
「今年は、本当に寒いな…まだ11月に入ったばかりだぞ?」
コートの襟を立てながら、柴さんが呟いた。
「確かに…」
こんなに寒い中、萌奈美はこんな場所に連れて来られ…どんなに不安な思いをしているだろう。
「まず俺が様子を見て来る。お前は、ここで…」
柴さんが俺にそう話し掛けた時、中から絹を割く様な悲鳴が!?
俺達は顔を見合せ、慌てて中に踏み込んだ。
…その光景を…俺は、一生忘れないだろう…。
血塗れでナイフを手にして、狂った様に叫び続けるのぞみ。
そして、背中をメッタ刺しにされている皇輝。
柱に手錠で繋がれたまま、皇輝に組敷かれている萌奈美の姿…。
「萌奈美ッ!?」
俺は皇輝の躰を押しどけると、洋服を引き裂かれている萌奈美の首筋で脈を、そして微かに呼吸しているのを確認した。
「柴さん、救急車をっ!!」
「今、連絡してる!」
俺が萌奈美を呼び掛ける横で、ナイフを取り上げられたのぞみが、皇輝の躰に縋り付いていた。
「何があったんだ、のぞみ!?」
「…その子が悪いの…皇輝さんに…逆らってばかり…」
「何があった!?」
「皇輝さんには組長は無理だとか、誰も付いて来ないとか言うから…『HDS』飲まされたのよ。それに…皇輝さんの言う事、信じないなんて言うから…」
「何を!?」
「…お兄様が…寺嶋の叔父様の事、殺したって…寺嶋の叔父様が、お兄様の本当の父親だって…」
「そう言ったのかっ!!皇輝がっ!?」
氷の刃で背中を斬られた様な衝撃が、俺を襲った。
「その子笑って…信じないって…だから皇輝さん怒って……嫌がらせしてやるって…容姿も性格も悪くて不感症だけど…兄貴の女だって言って…」
「…」
「だって『HDS』沢山飲んだのに…ちっとも気持ち良くならないのよ?変だわ…その子…気持ち悪いって、何度も吐いて…」
「当たり前だ!!無理やり飲まされたんだぞ!?」
「だって…私だって…そうだったのに……変よ……でも、私嫌で……皇輝さんは…私のなのに……その子に…取られるの……嫌で…」
呼吸を荒くして下腹を抱え込むのぞみは、そのまま前のめりに倒れて痙攣し始めた。
「柴さんっ!?」
「マズイ…もう一台救急車が必要か…」
皇輝のポケットを探しながら、柴さんは再び携帯を操った。
「駄目だ…鍵が見付からねぇ…」
遠くからサイレンの音が近付いて来る。
「萌奈美!?萌奈美…しっかりして…もう大丈夫だ…萌奈美、目を開けて!!」
上着を脱いで彼女の躰に掛けてやり、俺は華奢な躰を抱き締めた。
病室のドアを開けると、中は蛻の殻だった。
又か…俺は荷物を置いてガウンを持つと、屋上への階段を上がった。
のぞみに背中と腰をメッタ刺しにされた皇輝は、救急車の中で絶命した。
刺したのぞみは、腹の子を流産したが一命は取り止め、現在は医療刑務所に収監されている。
本家の登紀子は皇輝の死を受け止められず、のぞみの腹の子が流産した知らせを聞いた直後に発狂し、精神病院に入院した。
筑波組、桐生会は共に解散、筑波組長と桐生会長は共に行方不明…萌奈美を監禁していた元三上組の松島と桐生会の木田は、横浜で自首をしたらしい。
あの作業所で発見され病院に運ばれた萌奈美は、5日間昏睡状態に陥った。
様々な検査の結果、急激に摂取した薬の影響はないとの事だったが…心へのストレスは相当の物だったらしく、目覚めた時には耳ばかりか目も見えない状態で…。
「…萌奈美」
屋上の隅にある給水タンクの下で、萌奈美は膝を抱え膝頭に顔を埋めて座っていた。
近付いてガウンを掛けてやると、ゆるゆると顔を上げて俺を見上げる。
「こんな所に居たの?寒いんだから、そんな格好で外に出たら風邪引くだろう?」
フルフルと頭を振り、萌奈美は再び膝頭に顔を埋める。
視覚も聴覚も取敢えずは戻った…だが萌奈美は、頑なな迄に言葉を発しようとしないのだ。
「PTSDから来る、失声症なんでしょうが…本人が頑なに治療を拒否するんですよ」
「治るんですよね?」
「ストレスになっている事を、吐き出させる必要があるんですが…投薬もカウンセリングも拒否されて…病棟の方でも、食事ばかりか点滴も嫌がって、看護師達が困ってる状態でね…」
「幼い頃のトラウマで、以前から病院そのものに拒否反応を示すんです」
「…退院させるにしても、体力が戻らないと…それに今後の事も考えて、それなりの環境が必要ですよ」
「…わかりました」
「どんな形でも構いませんから、心の中に抱えている物を吐き出させる様に仕向けて下さい」
「…はい」
心療内科の医師の忠告に従い、萌奈美を説得して水分と食事を摂る様にはさせているが、3口も食べると首を振りいらないと箸を置いてしまう。
「病室に戻ろう…霙でも降って来そうだ」
冷たくなった手を握るとスルリと解いて立ち上がり、俺の後をとぼとぼと付いて来る。
萌奈美は…あれ以来、俺の腕に戻ろうとはしないのだ。
寂しさを滲ませる癖に…差し伸べる手にさへも躊躇して、結局は我慢してしまう。
「もう、萌奈美を狙う奴は誰もいない。安心していいんだ…全て、終わったんだよ」
「大学にも行ける、外にも出掛けられる…これからは、一緒に外出出来るんだ。どこに行きたい?」
「前の様に、メールで話して…萌奈美の思ってる事や、嫌だった事、何だっていいんだ…俺に話して…」
何を言っても、悲しそうな顔をして首を振る…あのポジティブな萌奈美が…一体、何が彼女をそこ迄追い込むのか?
病室に帰ると、ベッドに入らず床に座り込もうとする萌奈美の手を引いて、一緒にソファーに座らせた。
「萌奈美…退院したい?」
ポットに入れて来た珈琲をカップに入れてやると、両手で持ち上げ息を吹き掛けながらコクンと頷く。
「…俺の所に…帰って来るよね?」
左右に忙しなく視線をさ迷わせ、何も答えない萌奈美に再び尋ねる。
「萌奈美は…俺の事が嫌いになった?皇輝と…血の繋がった俺の事が…許せない?」
彼女は真っ直ぐに俺の顔に視線を合わせ、はっきりと首を振り…そして又、俯いた。
「良かった…嫌われた訳じゃないんだね?」
コクンと頷き、珈琲を啜る彼女に安堵する…しかし、では何故俺を拒む様な態度を取るのか…?
「独り暮らしは、させられない…そんな状態じゃ無理だし……俺は、萌奈美と離れて暮らす気はないんだ」
「…」
「…本家に帰ろうと思う。あそこなら女手もあるし、何より広いから…今迄の様に、窮屈な思いをさせる事もない」
顔を強張らせブンブンと頭を振る萌奈美に、俺は穏やかに話し掛けた。
「大丈夫だよ…前にも言ったけど、皇輝の母親の登紀子も入院して、もう戻って来ない。それに、親父を1人であそこに住まわせる訳にもいかないんだ…。大丈夫だよ…親父の了解は得てるから…」
「…」
「どうしても、嫌?それなら、又別の方法を考えるけど…」
手に持った珈琲のカップを取り上げテーブルに置くと、俺は萌奈美の手を包み込んだ。
「…どうかな?」
俺が本気で言った事を、萌奈美は決して断らない…眉を寄せ逡巡しながら、彼女はコクンと頷いた。
俺は卑怯者だ…皇輝と母親の登紀子が居なくなった本家に戻る様に言ったのは、堂本組長の指示だったからだ。
「本家の奴等が居なくなった今、お前が本家に入るのは道理だろう?」
「しかし…」
「いつまでも、森田のシマに居る訳にはいかねぇだろ?弁護士事務所や警備会社は兎も角、お前の自宅と本部事務所は自分のシマに戻さねぇと、他の組にナメられるぞ!」
「…それは、そうですが…」
「先代である親父も、1人であそこに住まわせるには忍びねぇからな…子狐と戻って、親孝行してやれ」
「…」
「で…子狐の容態は?」
「…躰は何とか…ですが、心が…」
「病んでんのか?」
「一切、話さなくなって…何かを思い詰めている様です」
「…まぁ…堅気には、キツかっただろうよ…ヤク盛られて、死人も出ちまって…然も腹上死同然だからなぁ…そっちも、トラウマ増やす事になっちまったんだろ?」
「…いえ…そちらは、何とか無事でした。しかし、本人は信じていない様で…」
「まぁ…本家で、ゆっくり静養させてやれ」
「…有難うございます」
「本部事務所は、皇輝が使ってた元の聖組の事務所に構えるといい。新宿の事務所じゃ手狭だろうよ?元々の聖のシマで、足場固めろ。新宿にある元の事務所は、花屋専門にでもすればいいだろ」
「はい」
「それからな…いい加減、人数増やせよ」
「…」
「お前が何を考えてるかなんぞ、先刻承知してるがな…いい加減腹括れ。今のままの人数で仕事回すのは無理がある。お前が組を会社組織にして、どんな面子で、この先どんな形に育てるのかは自由だがな…手下の首絞める様な事をするんじゃねぇぞ!」
「承知致しております…体制を立て直し、私なりのやり方で成長させて行く所存です」
「…そうか。楽しみが増えたな」
「は?」
「何だ、忘れたか?俺は、子狐を連れて来いと言った筈だ。早く元気にして連れて来い!」
「…はい、必ず…」
新宿区四谷…税務署に程近い場所にある聖の本家は、都心にしては広大な土地と古い家屋を遺す、威風堂々とした邸宅だ。
事務所や住居、全ての引越しと環境を整え、俺は萌奈美を退院させた。
純日本家屋と広い築山を配した庭を見て、萌奈美は目を丸くしていたが、ずらりと居並ぶ使用人達を前に怯えた表情を見せた。
「女中頭の前田サキと申します」
「サキは、この屋敷の事は何でも心得ている。萌奈美の事も、全てわかってくれているから…安心して任すといい」
「宜しくお願い致します、お嬢様」
そう挨拶をする上背のある年輩のサキに、萌奈美は少し怯えた様に頭を下げた。
「おいで…親父に会わせるから…」
俺は萌奈美を誘うと、離れに向かった。
この離れは、以前俺と母親が暮らしていた…そして今は、俺に跡目を相続させた直後に2度目の発作で半身に麻痺の残った親父が静養している。
「失礼します…夜です」
「…入れ」
広縁から続く障子を開けると、可動式のベッドがゆっくりと立ち上がった。
「萌奈美を連れて参りました」
「…うむ」
静養して2年…幾分痩せたとはいえ、その肩幅の広さと立ち上るオーラ、そして眼光の鋭さは少しも変わらない。
…あぁ、そうか…連城氏の雰囲気は、父に似ていたのだ…そう、改めて思った。
萌奈美は緊張しながら俺に続いて部屋に入ると、少し後方に正座をして座った。
「先日も話した様に、萌奈美は口が…」
俺が説明するのを無視して、親父は直接萌奈美に話し掛けた。
「聖十生也だ」
「……桜井…萌奈美と…申します」
掠れた小さな声で…だが、はっきりと萌奈美は親父に挨拶をして頭を下げた。
「うむ」
親父が驚く俺の顔に視線を寄越し、そのまま食い入る様に萌奈美を見詰める。
萌奈美は頭を下げたまま肩を震わせ…そして、再び掠れた声で言ったのだ。
「…この度は……ご子息の事……本当に…申し訳…ありません…」
そして畳に額を擦り付けて、嗚咽を漏らした。
「萌奈美……声が…」
「…」
「お前が謝る必要はない!!萌奈美は被害者だろう!?」
「…」
「萌奈美、顔を上げて…悪いのは皇輝だ!!お前じゃない!!」
「…」
萌奈美は額を畳に擦り付けたまま、黙って涙を流し続けた。
「夜…もういい。その娘を休ませてやれ」
「…わかりました」
俺は萌奈美を連れて部屋に戻り、ベッドに休ませ髪を撫でながら話し掛けた。
「声が…出る様になったの?」
「…」
「皇輝の事で、思い悩む必要はないんだ…皇輝も、義母も…自業自得なんだよ?」
「…」
「萌奈美は、悪くない…太一の事だって助けたろう?」
「…」
「…萌奈美…もう一度、声を聞かせて…」
萌奈美は目を閉じ、俺のスーツの裾を握ったまま、やがて静かに眠りに落ちた。
彼女は、失語症等ではない…自分の意思で言葉を発しないのだ。
安堵する反面、その不器用な生き方に涙が出そうになった。
皇輝の事を…自分を誘拐し、強姦して殺そうとした男が死んだ事を、自分の責任の様に感じて…親父に謝罪する彼女が憐れだった。
苦しくて人一倍寂しい癖に、他人に助けを求める事の出来ない萌奈美が……憐れで仕方なかった。




