第3話
夕方Saint興業に戻ると、社長室の中は大の男が大勢で床に転がされ怯え切った彼女に、おっかなびっくりの対応をしていた。
後ろ手に手足を縛られ、目隠しと口にはガムテープ…くぐもった声でウーウーと訴えながら頭を壁に打ち付けるのを、厳つい強面達が困った様に止めさせようと手を出す。
それが嫌で、彼女はひたすら暴れている。
全てを解放してやると、俺を睨んで誰だと問いただした。
思った通りだ…彼女は、この姿で出会った俺とのファーストコンタクトをすっかり忘れている。
まぁ、あれ程酔っていたのだから、無理はないか…そう思いながら少しからかうと、烈火の如く怒り出した。
一体自分が何をした、殺されるのか、それともどこかに売り飛ばされるのかと叫ぶ。
落ち着く様に言っても聞く耳を持たず、誘拐しても金なんて無い、両親共に亡くなり、叔母の家も裕福ではない…大学も奨学金で通っていると訴えながら、嫌だ嫌だと叫び続けた。
仕方ない…いつもカフェに通っている姿を見せるしかないと、上着の内ポケットから黒縁の眼鏡を出して掛けると、棗が後ろからカチューシャを俺の頭に装着した。
叫び疲れたのか、彼女は俺の胸でブツブツと呟いている。
まだ、19なのに…。
大学だってもっと色々楽しい事いっぱいあるかも知れないのに…。
まだ、恋だってした事無いんだよ?
恋人作って、ラブラブになって…。
就職だって…。
結婚だって…。
可愛くて…抱き締めてそっと背中を撫でてやる。
女の子の夢が満載だ…だが残念ながら彼女の置かれた状況は…そう思うと可哀想で、何度も何度も謝った。
「大丈夫?」
「…」
「…萌奈美ちゃん?」
「…」
「19なんだ」
「…うん」
「大学、楽しい?」
「…うん」
「アルバイトも…楽しい?」
「…うん」
「…恋した事…無いんだ」
「…うん…無い」
「…恋人…欲しい?」
「…うん」
「ラブラブになりたいんだね…」
「…うん」
彼女の呟きを確める様に問うと、素直な答えが返ってくる。
だから、ついあんな質問をしてしまった。
「…恋…しよっか?」
「…」
「…俺と……恋…する?」
「…ぇ?」
自分で吐いた言葉にドキリとした。
彼女をここに連れて来た理由は、俺が忍んでカフェに通うのを知った俺を排除したいと思っている連中が、数日前にカフェを襲撃し、俺を彼女諸共片付けてしまおうとしたからだ。
それが、俺がカフェに居る時を狙っての犯行で、ターゲットはあくまでも俺であったのか、それとも俺との仲を疑われた彼女を、わざと狙った犯行なのかが絞り込めずにいた。
確かに…偶然の再会を面白がった俺が、まるで変装して会う様にカフェ通いを続けた。
珈琲の味も、店の雰囲気も気に入ったから…しばらくは、そう思っていた。
その場所に、たまたま彼女が居ただけの話だ…そう思おうとした。
だが、彼女が風邪でバイトを休んだ時、思わず車を彼女の自宅近くに走らせて思い知ったのだ…俺は、彼女に会いにカフェに通っているのだと…。
チビでスタイルがいい訳でもなく、顔立ちだって…まぁ愛嬌が有って可愛いが…普通ってとこだろう。
新宿の夜の女達とは違うからか…いや、学生時代も、もっと美しい女達と付き合っていた筈なのに…焦がれてしまう。
だがそう思いながらも、決して相容れない関係に、それ以上を望む事等考えた事はなかったのに…。
今更何を…いや、こうなってしまったからこそ言える事か…。
10歳も年下の女子大生とヤクザの組長…今を逃すと、もう2度と言えないから…。
「コッチ向いて、萌奈美ちゃん」
「…」
「顔、上げてよ」
「…」
「俺の顔、ちゃんと見て」
「…」
ボンヤリとした彼女を抱き締めて背中を撫でながら、この状況を整理していた。
何にしても今は、彼女を守り安心させてやらなければ…。
その為に先ずやらなきゃいけない事は…俺を認識させて落ち着かせる事だ。
フゥと頭の上で溜め息を吐くと、俺は言い慣れた言葉を吐いた。
「…今日のオススメのブレンド、何?」
「…え?」
ふぃと彼女が俺を見上げ…その瞳に驚きと安堵の色が宿った。
「…嘘…お客さん?」
そう言ったかと思うと、その瞳からみるみる涙が溢れ…多分安心したんだろうが、ボロボロと涙を零してしゃくり上げ、両手で口を塞いで咽び泣き…突然パタリと俺の腕の中で意識を飛ばした。
「…賑やかな女だな」
いつの間にか社長室の中は、棗と俺の2人になっていた。
「可愛いだろ?」
「…ってか、いつからそんな趣味になったんだ、お前…」
途端にぞんざいな物言いになる幼馴染みを、俺は横目で睨んで笑った。
「何だよ、文句あるか?」
「だから、いつからロリコン趣味なんだ!?」
「19歳は、ロリコンの域に入るのか?」
「中身は兎も角、見掛けはド・ストライクだろうが!?」
「…癒し系と言ってくれ」
「それに、何だぁ…あの口説き文句…」
棗は真っ赤になりながら、上を向いた。
「お前、中坊の頃でも、そんな甘ったるい口説き方してなかったぞ!?」
「羨ましいのか、棗?」
「有り得ねぇ…鳥肌もんだ!!」
騒ぐ棗を横目に、俺は彼女を抱き上げた。
「マンションに連れて帰る」
「ちょっと待て…お前のマンション、佐久間のシマじゃねぇか!?又こないだみたいな事になったら…」
「大丈夫だ…佐久間には、もう挨拶を済ませてある。事情も全て話したら、事務所よりマンションの方に保護するのがいいだろうと、あちらから言って下さった。下の者への連絡も、徹底して下さるそうだ」
「…お前、幾ら包んだんだ?」
「少しな…色を付けた」
「成る程」
「基本、お前と太一で面倒見てくれ。マンション警護は、他の者に当たらせろ」
「お…俺は…襲った奴等の探索の方が…いぃんじゃねぇか?」
幾分頬を赤らめ、鼻をポリポリと掻いている棗を見て、俺は笑った。
「どうした?」
「だってよぉ…怖がらせた張本人だぜ?」
そう棗が言った途端ノックの音が響き、返事をすると1人の眼光鋭い壮年の男が、入って来るなり棗を怒鳴り付けた。
「棗!!若の命令は絶対だ!!口答えは許さないと、何度言ったらわかる!?」
「申し訳ありませんっ!!」
「貴方もです、若!!いつまでも、若い者を甘やかして頂いては…」
「…お前もだ、真木。『若』じゃなく『社長』だ。お前がそうだから、いつまで経っても浸透しないだろ!?」
虚を突かれた様に頭を下げるこの真木と言う男は、Saint興業の専務で、俺に極道のイロハを教えた人物…Saint興業の前身、聖組の若頭だった男だ。
「…そのお嬢さんが、例の…」
「あぁ」
真木が俺の腕の中を覗き込み、目線を俺に戻した。
「社長の『姐』になられる方ですね?」
「…さぁな」
「では、『姐』になる事は無い…のでは無い方かも知れない訳ですね?」
「嫌な聞き方するなよ…」
眉を寄せながら早々に社長室を出て、車を出させた。
「社長のご自宅へ…後、4人程着いて来い!」
運転している奴の手前、社長秘書としての顔を取り繕う棗は、先程の真木との話を息を呑んで聞いていた。
「…社長」
「帰ったら話す」
ピシャリと言い切ると、隣で黙って頭を下げた。
腕の中で穏やかな寝息を立てる彼女を見て、自然と頬が緩む。
抱き締めたのは、何回目だ?
先日カフェが襲われた時と…今日と…。
ヤクザの『姐』なんて、彼女は望んでいないだろうに…だが俺と一緒に居ると、自然そう思われる事になるのか…。
「…可哀想に」
又ポツリと言葉が口から溢れた。
「太一君、お待たせ!」
公園近くのコンビニで立読みをしていた俺に、華やかな香水の香りを振り撒くフルメイク女性が近付いた。
「花音さん…今から同伴?」
「えぇ…7時に伊勢丹で待ち合わせなんだけど…社長の用事って、そんなに時間の掛かる事なの?」
「いや…多分大丈夫ッス」
「じゃ、行きましょうか?」
コンビニの店員が、凡そ釣り合わない俺達を不思議そうに見送った。
歌舞伎町の高級クラブ『St.Valentine』のホステスである花音さんは、確か27歳だと聞いている。
入れ代わりの
多いこの業界で、入店からずっと同じ店で働いている『St.Valentine』の古株だ。
持ってる客筋も上等で、銀座に店を持たせてやると言い寄る客や、ママに迎えたいというスカウトも引く手数多だが、先代組長に恩が有るとかで絶対に首を縦に振らないと聞いた。
色白で優しげな雰囲気と大人の色香を漂わせた美女で、今日もセールスポイントのFカップの胸をバーンと見せる様なカットの深いワンピースを着ていた。
「で、何をすればいいのかしら?」
「社長が、知り合いのお嬢さんを暫く預かる事になって…着替えなんかを自宅に取りに行けって言われたんッス。でも、俺じゃ何持って行けばいいかわからないんで…兄貴が、花音さんに頼めって…」
「そぅ…どの位預かるの?」
「さぁ…俺にはちょっと…」
チラリと俺を見て、花音さんは何も言わずに了解した様だった。
拐かした女の子の着替えを取りに行くなんて口が裂けても言えないが、余計な事を聞かずに了解してくれる辺りは流石だと思った。
これが他の女の子だとそうは行かない…質問責めで聞き出され、噂を振り撒いてしまうだろう…流石は兄貴だ…そう思いながら、桜井家の玄関の鍵を開けた。
「これは、台所にでも置いといて下さい」
「わかったわ」
スーパーの袋を花音さんに渡し、俺はドアを閉めて玄関に腰を下ろした。
台所でわざわざ食材を冷蔵庫に入れていた花音さんは、やがて目当ての部屋を見付けたらしく、ゴソゴソと荷造りを始めた様だ。
不意にガチャガチャと鍵を回す音に、俺は緊張感を漲らせた。
入って来た制服の少年が、俺を見て驚いた表情を見せた。
「おっ、お帰りぃ〜」
引き攣った笑顔で迎えた俺に、少年はあからさまに眉を寄せた。
「…アンタ、誰?」
「太一ってんだ。萌奈美さんのダチ」
「姉ちゃんの?…大学の?」
「そ、大学の」
「ふぅん」
訝しむ視線に、冷や汗が流れる。
「姉ちゃんは?」
「いや…実は…」
そう言い掛けた時、花音さんが荷物を抱えて部屋から出て来た。
すると少年は、俺を見ていたのとは明らかに違う視線を花音さんに向けた。
「あら、お帰りなさい…名前は?」
「……繁雄…筒井繁雄」
「そう、繁君ね?私は花音。萌奈美ちゃんのゼミの先輩なのよ」
「…大学生?」
「そう…新宿で、夜バイトしてるの」
「へぇ…」
そう言いながらも、繁雄の目は花音さんの胸に釘付けだ。
「…姉ちゃんは?」
「あ…あのな…」
「合宿なのよ、聞いてない?」
言い淀む俺の横で、サラッと花音さんが言った。
「合宿?」
「そう。明日からの予定だったんだけど、1年生は先発隊で行って貰う事になってね。私達は、先発隊の合宿の荷物を引取りに回ってるの」
「…いつまで?」
「え?」
「いつ帰って来る?」
「多分夏休みいっぱい掛かると思うわ」
「えぇ〜っ!?飯、どうすんだよぉ〜!!」
「飯!?飯の心配かよ!?」
声を上げた繁雄に、俺は思わず突っ込みを入れた。
「だって、姉ちゃんが毎日飯作ってくれて…掃除も洗濯も…」
「母ちゃんは?」
「フルタイムで仕事だよ!どうすんだよぉ…俺、朝から学校の補習で、今から塾だし…」
情け無い声を上げる繁雄に、花音さんはチラリと時計を見て言った。
「繁君、お腹空いてるの?」
「もう、死にそう…」
「じゃあ、何か作って上げるわ…塾何時から?」
「7時」
「わかったわ。着替えていらっしゃい」
「いいの?やった!頼むよ!!」
繁雄はバタバタと2階に上がって行った。
「いいんですか、花音さん?でも、何で名前とか知って…」
「部屋に色々置いてあったからよ…駄目よ、あれ位ちゃんと切り抜けられないと」
「ウィッス」
花音さんは台所で手早く炒飯を作り、繁雄に食べさせた。
「姉ちゃん、帰って来んの?」
炒飯を頬張りながら、繁雄が俺に尋ねた。
「え?」
「だって…独り暮らししたくてバイトしてんだろ?」
「あぁ…そんな事言ってた…かな?」
「ならさぁ…通帳とか印鑑も、持って出た方がいいぜ?」
「どうしてなの?」
「だって…アイツ等、姉ちゃんの金狙ってる…借金取りや督促状が来て…この間も、バイトで入った金貸してくれってババァ言ってたし」
俺達は顔を見合せた。