第22話
『虐待されてたの?』と聞かれ、あれはやはりそうだったのだろうかと考えた。
帰国して初めての夏休み、毎日叔母の出社と同時に朝から外に出されて、私は1日中玄関前に座っていた。
勿論、お金も食料も飲み物も持たせては貰えなかった。
考えれば、近くの公園に行けば水も涼しい木陰もあったし、図書館や公民館に行けば、快適に過ごせたのだが、当時の私にはその知恵もなかった。
『ここで待て』と言われたら、その場所から動いてはいけないと思い込んでいた…でないと、又叔母に折檻されると…。
日陰のない玄関先で、水分も摂れず…私は熱中症で倒れ、近所の人に通報されて2回救急車で運ばれた。
退院後当然の様に折檻され、病院の世話になる様な事をしたら、ただじゃ置かないと脅された。
私の病院嫌いは、その影響もあるのかも知れない。
叔母に叩かれて右耳が聞こえなくなった時、どんなに痛いと訴えても病院に連れて行って貰えなかったのは、叔母が英語を理解出来ない為だと諦めた。
しかし、お腹が痛いと日本語で訴えても無視され続け、腸捻転の時も腹膜炎の時も、ギリギリ迄我慢して自分で救急車を呼んだ。
当然見舞いなどあるはずもなく、退院後に支払いの金額を告げると散々嫌味を言われた。
高校に入って直ぐにバイトを始めたのは、そんな嫌味に耐え兼ねて自由に出来るお金が欲しかった事と、修学旅行の費用を稼ぐ為…そして大学に入ってからは、独り暮しをする資金を貯める為だ。
『インフルエンザなんて、病気の内に入らない』と言ったのは、やはり叔母だったんだと思う。
家で寝ていれば治ると、枕元に食パンと水を置いて会社に行ってしまう。
学校には、インフルエンザだと病院の完治証明書が必要だから、ただの風邪だと嘘を付いて休んだ。
でも本当は知っていたのだ…繁雄がインフルエンザになった時、叔母は会社を休んで病院に連れて行って、ずっと看病していた。
ただの風邪の時も、少しお腹を壊した時も…夜中でもタクシーを呼んで病院に連れて行った。
私が風邪を引いても、咳をするだけで煩いと叩くのに…。
…平気だよ…強くなる…イイ女になる…。
諦めと、強がりと、息を殺す事で、私は耐え抜いて来たんだと思う。
腕の中の萌奈美の躰が、痙攣する様に揺れる…息を殺す様に、両手で鼻と口を塞いで咳き込み、呼吸困難で喘ぐ様に又痙攣する。
「…萌奈美、萌奈美…手を離して…ちゃんと息をしなさい!」
食い縛る口を抉じ開けて指を入れると、ようやくヒューという音と共に呼吸を再開する。
「…いゃぁ」
首を振りながら憤かる萌奈美の口から指を抜き、背を撫でてやりながら呼び掛ける。
「咳をしてもいいんだ…こんな時迄気を遣うんじゃない」
「…」
もぞもぞと起き上がり、萌奈美はベッドを降りて寝室を出て行った。
トイレに起きたのかとしばらくうつらうつら微睡んでいたが、いつまでたっても戻って来ない…。
「まさか!?」
ハッとしてリビングに行くと、暗がりの中ソファーの上に毛布の塊が蠢いているのを見て安心した。
「…萌奈美…何してるの…」
「…ごめん、やっぱり起こしちゃった?」
押し殺した咳をして、萌奈美はもぞりと起き上がった。
「ベッドに戻ろう」
「あ…いゃ…風邪治る迄、私コッチで寝るよ」
「何で!?」
「いゃ…私が咳き込んだら…聖さん起きちゃうしさ。仕事、支障来すでしょ?」
咳を押し殺しながらヘニャリと笑う萌奈美の躰を抱き上げると、俺は問答無用でベッドに戻りその躰を横たえて覆い被さった。
「…聖さん!?」
「萌奈美は…俺が風邪を引いたら、看病してくれないの?」
「いゃ…そりゃするけど…」
「じゃあ、俺に看病させてくれないのは、何で!?」
「いゃ…だから…」
「俺は、萌奈美を手離したくないだけだ!!」
そう叫ぶと、少し目を見開いてヘニャリと笑顔を見せた萌奈美が、俺の首に腕を回して抱き寄せた。
「甘えん坊さんだね、聖さんは…」
「…っ!?俺はっ…萌奈美を甘やかせたいだけで…」
萌奈美の胸に抱き寄せられ髪を撫で梳かれると、甘い陶酔感に襲われる。
「…寒くて…寝れなかったの?」
「!?」
「寂しかった?」
彼女の腰に腕を回し、その小さな躰を縋る様に抱き締めた。
「…いいよ…このまま寝ても…」
萌奈美はいつも俺がする様に額にキスをして、唇を離さずに呟いた。
「ごめんね…いっつも心配させて…」
「…そんな事は…」
「…今日は、私が聖さんの事甘やかせてあげる」
「いゃ…俺は…」
「気持ちいいの…人肌に触れて誰かに包まれるって、凄く心地良くて…安心出来て…幸せになれるんだよ…」
「……」
「全部、聖さんが私に教えてくれたの」
「…萌奈美」
「私達2人共、他の誰にも甘えられる人がいないから……だから…聖さんが寂しい時には、私が抱いて上げる」
「…」
「だから…聖さんも、私に甘えてね?」
「…萌奈美」
「何?」
「…キスして」
腕を解き見上げた俺の頬に手を添えると、少しはにかみながら萌奈美は柔らかな唇を重ねて来た。
赤く熱を孕んだ唇が、俺の唇を優しく食む様に触れては離れる…その熱と柔らかさを追う様に俺が頭を浮かせた途端、萌奈美は手で口を塞いで顔を背け、激しく痙攣しながら咳を押し殺した。
ゴウゴウという肺の音と、生理的な彼女の涙を見て我に返る…俺は病人である萌奈美に、縋る様な事を…。
「悪い…大丈夫?」
「…ご…めん」
熱が上がって来た萌奈美の躰を抱き直し、布団の中に押し込んだ。
「萌奈美を抱いてるだけでも、十分癒されるんだよ」
「たまには、いいと思ったの」
「…早く良くなって…そしたら、続きしてもらうから」
胸元でクスクスと笑いながら、彼女はわかったと呟き、再び目を閉じた。
社長の家に桜井さんが戻ったと兄貴から連絡を貰ったのは、俺が『St.Valentine』に花の配達をしている時だった。
良かった…あの綺麗な女が来て以来、社長は顔色が悪く落ち込んでいる様子だったし、桜井さんは荷物を持って倉庫とかで生活してるし、兄貴はそんな2人を見て怒っている様だし…事務所の中もピリピリとした空気が張り詰めていたのだ。
Saint興業の直営店であるこの店の花は、全てウチが請け負っている。
広い店内のそこかしこに生けられる花を、アレンジメント担当のバイトが手際良く生けて行く。
「ご苦労様、太一君」
ゴミをまとめていた俺の背中に、艶っぽい声が掛かった。
「花音さん、お久しぶりッス」
「社長や棗さんは、お元気?」
「元気ッス…数日前に信越から帰って、俺まだ会っちゃいないんッスけどね」
「そう…たまには、店にお運び下さいって伝えてくれる?」
「勿論ッス」
にこやかに笑っていた花音さんは、俺に近付き少し声を落として耳打ちした。
「…昨日久し振りに、若頭補佐が…あ、元だわね…いらしたわよ」
「本家の…皇輝さんッスか!?」
「結構な人数を連れていらして…予約のお客様とかち合って大変だったわ。然もタダ酒だし…」
「そうッスか…」
「ちょっとキナ臭い感じだったの…店の女の子達を、引き抜きに掛かるし。それに、一緒にいらした方の中に見知った顔があって…少し気になったのよ」
「誰ッスか?」
「解散した、三上組の人…」
「えっ!?」
「又、聖の先代を困らせる様な事にならなきゃいいんだけど…」
「…花音さん、昨日の面子わかりますか?」
「私が付いた訳じゃないけど…少し調べれば…でもね…」
「掟やぶり承知で、お願いするッス!ウチ今、結構ヤバいんッスよ!!」
「えっ?」
「社長の将来…いや、会社の将来に関わる、大問題なんッス!!」
「……わかった、調べてみるわ」
「あ…これは秘密に…」
「当たり前よ…私だってマズイもの…」
「わかったら、兄貴に連絡して貰えますか?」
「太一君じゃなくていいの?手柄になるんじゃない?」
「いえ…俺なんか、どうでもいいんッスよ…今は専務代行の兄貴の足元を、しっかり固めたいんッス」
「…承知したわ」
柔らかな笑みを浮かべて、花音さんは去って行った。
三上組って言ったら、堂本傘下で、組長が幹部の本部長だったが、ヤク絡みで逮捕され組も解散した堂本の中でもタブーな組の筈だ。
堂本傘下の組は、それ以来ヤクはご法度になった筈だが、新宿からヤクが消える事はなかった。
外国物が山の様に出回り、最近じゃ素人迄もが手を出している。
小遣い稼ぎ程度に手を出している組もあるらしいと噂じゃ聞くが、真相は藪の中だ。
バイトの娘達が現地解散だというので、店を出てゴミ袋を車に積み込んでいると、不意に後ろから肩を叩かれた。
「よぅ、太一じゃねぇか!」
「…先輩!?お久し振りッス」
「何してんだ、オメェ?」
派手なストライプのスーツを着て、紫色のサテンのシャツを胸元迄開け、金のネックレスをじゃらじゃら着けたこの男は、俺の中学時代の先輩で坂下という。
「何って、仕事ッスよ」
「オメェ、聖組に居るって言ってたじゃねぇか?足洗ったのか?」
「聖組じゃなくて、今はSaint興業ッスよ、先輩。これは、そのSaint興業の仕事ッス」
「へぇ…聖の組長が起業して、金儲けに躍起になってるって噂は本当なんだな」
何言ってるんだ、この男は!?
馬鹿にした様な坂下の笑いを見て、俺は心の中で毒づいた。
「フロント企業ッスよ…堂本の若頭も、そうじゃないッスか」
森田組長の名前を出すと、坂下は苦い顔をして路上に唾を吐いた。
気が短いこの男に、昔は散々殴られパシリをさせられていた…悪い事はその時に全て教わった…カツアゲも万引きも、シンナーも…やらなかったのは、殺人とクスリ位のものだ。
中学を卒業して坂下がヤクザになったと噂が広まると、当時の仲間は散々(ちりぢり)になった。
少しでも正気な心を持っていた奴等は進学したり就職した。
俺は頭も悪かったし、半分人生諦めちまってて…今更全うな道に戻れる筈はないと思ってたし、とはいえ1人で粋がる勇気もなくて…。
そんなフラフラしている時に、憧れの人に会った。
かつて『Lone Wolf』と呼ばれた、伝説の人…俺は、新宿の街をその人会いたさにさ迷い、殆どストーカーの様な生活をして過ごした。
根負けしたその人が、自分の舎弟として面倒を見ると聖の先代に申し出てくれた時、俺は一生この人に付いて行くと決めたのだ。
組に入ってヤクザになってからの方が、全うな生活をしている…親迄もがそう言って笑った位だ。
「羽振り良さそうッスね、先輩?」
「おぅよ!これでも舎弟を抱える身分でな」
「へぇ…今、どこに居るんッスか?」
「筑波組だ。お前んとことも同門だろう?」
「確かに…そうッスか…」
筑波組は、今の組長が立ち上げた割合と新しい組で、同じ堂本傘下になる。
「オメェ、この後時間あるか?」
「いぇ…事務所戻って、待機しなきゃならないんッス」
「何だよ、マジでリーマンみてぇな事してんだな?」
「仕事ッスから」
「極道の誇りなんか、なさそうだしな…オメェん所の組長」
「…先輩…ウチの社長の事馬鹿にするのは、止めて貰えませんかね?」
「何だよ、怒ったのか?俺が言ってるんじゃねぇよ…オメェん所の身内が言ってんだ…勘弁しろや」
「身内?誰ッスか!?」
「オメェん所の組長の弟さんだよ」
「皇輝さんッスか…」
全くあの人は…社長やウチの会社の評判落とす様な事を、吹聴して回ってるんだろうか?
「…て…でよ…昨日は、俺達迄馳走になったんだ」
俺が考え事をしていた間も喋り続けていた坂下は、上機嫌で皇輝を持ち上げている。
「馳走って…筑波の組長さんもご一緒にですか?」
「あぁ勿論だ。あの方は、ウチと固い絆で結ばれる方だからな」
「へ?」
「何だ、知らねぇのか?ウチのお嬢さんと婚約したんだ…ウチの組もこれで安泰よぉ!なぁ、オメェも今の内にウチに来ねぇか?こんなシケた仕事じゃなくてよ、ちゃんとした極道出来るぜ?」
「何言ってるんッスか…冗談も程々に…」
「大丈夫だってぇの…その内に、皇輝さんが吸収してくれるってよ…」
「…」
何か…とんでもない話を聞いているんじゃないだろうか…。
「な、ちょっと話そうぜ?」
「わかりました…彼女にメールだけ打たせて下さいよ」
「女かよ…今度会わせろや!」
笑いながら俺は、頭の中で必死に文章を組み立てた。




