第21話
「ここの所、寒い日が続く…風邪も流行ってるし、せめて俺が出張の間だけでも家で生活する事にしたら?」
今日から信越の方に出張だという日の朝、聖さんが私に家の鍵を握らせようとしたのを、私は黙って首を振って受け取らなかった。
「…萌奈美」
正直有難い申し出ではあったが、今あの家に戻ると決心が揺らいでしまいそうだ。
それに、この熱っぽさと関節の痛みは多分…。
「仕方がないね。お土産は、何がいい?」
「お土産?」
「そう、出張のお土産」
「お土産貰えるの?」
「え?」
「何でも嬉しい!」
お土産なんて貰った事がない…いつも叔母達が繁雄に買って来るのを、内心羨ましく思っていたのだ。
聖さんは少し笑って私の頭を撫でると、出張に出掛けて行った。
案の定翌日から熱が上がり、関節の痛みと躰の怠さが増し始めた。
インフルエンザ決定だな…そう思い、事務所に薬があるか尋ね様と顔を出してみた。
しかし、人数の少ない事務所には電話番の人が居る位で、その人も次々と鳴り響く電話の対応に追われていた。
会社の移転に伴い人数が足りないと、然も聖さんと棗さんは共に出張し、インフルエンザで倒れている社員も多いと聞いている。
私は休憩室に置いてある食糧と水を袋に入れ、毛布とボストンバックを抱えて10階への非常階段を降りた。
この階には、弁護士事務所と警備会社が入っている。
本当は警備会社の道場に潜り込みたいが、インフルエンザを移しては申し訳ない…。
私は非常階段横にある、新しい掃除道具等が片付けてある備品倉庫に潜り込んだ。
ここなら、比較的スペースもあり、女子用トイレも近い。
念の為に『立入禁止』とドアに貼り紙をして置いた…これなら、誰かが不用意に入り感染する事もないだろう。
熱っぽい肌に、冷たいコンクリートが心地いい…。
インフルエンザは熱に弱い…熱さえ出切ってしまえば大丈夫な筈だ…後は十分に水分を摂って、適度に栄養を補給して…。
暗闇の中、携帯のフリップを開けてデータホルダから写真を引っ張り出した。
アルバムに収めてある両親の写真を撮影した物、カナダの風景、大学やバイト先の友人との写真…そして、聖さんの写真…。
中には、聖さんのアルバムをコッソリ撮影した、若い頃の彼の写真も収められている。
大学にこんな格好いい人が居たら、皆大騒ぎだろうな…まぁ、大人になった今の方が素敵なんだけどね…。
それにしても、何で私なんか好きになったのかな?
バイト先でも、そんな大した話なんてしていないと思うんだけど…。
私を甘やかせたいと言いながら、スキンシップを取って来るのはいつも聖さんの方だ。
家に居る時には、どこかしら私に触れていたいらしく、後ろから抱き込んだり膝枕をせがんだり、指を絡ませ手を握ったり…寝る時にも、必ず腕の中に抱き込まれていた。
私が嫌がると決して無理強いはしないが、いつもどこか身を寄せて来て、
「…いい?」
と尋ねて来る。
家が寒いと…私が居ないからと言っていた。
独占欲が強くて、とても寂しがり屋な人…寒くて寝れないのは、案外聖さんの方なんじゃないだろうか?
そんな聖さんが、結婚を考えない理由…ヤクザの跡取りとしての子供を作る訳にいかないと、頑なな迄に考えているという。
馬鹿だなと思う…それは子供が決めるべき事だって、何でわからないのかな?
案外子供の方が、跡を継ぎたいって思うかも知れないのに…。
それに、嫌な事は『NO』と言える子供に育てればいいだけの話だと思うし…。
大体聖さんが、子供の嫌がる事を押し付けるなんて考えられない。
「トラウマになっちゃってるんだよね…きっと…」
自分の代で、ヤクザとしての聖組を解散したいと思ってるそうだが…皆の事を考えると優し過ぎて出来そうにないと思うのは、きっと私だけじゃなく棗さんも思っている筈だ。
「結局、不器用なんだって事だよね」
携帯に映し出された聖さんを見詰めて呟いた。
強みになってやってくれと、棗さんに言われた…そして、傍に居て欲しいと聖さん自身にも言われた。
私の気持ちは決まっている…傍に居たいと心が叫ぶ…。
聖さんの事を好きなのは、吊り橋効果なのではないかと自分の気持ちを疑ってもみたが、何の事はない…焼き餅を妬いて拗ねて意地を張ったに過ぎないのは、自分でも直ぐにわかった。
一番ショックだったのは彼の名前…教えて貰えなかった事は勿論だが、一番の原因は彼の名前そのものにある。
熱に浮かされながら携帯電話の画像を眺め、私は溜め息を吐いた。
倉庫に倒れている萌奈美に駆け寄り、呼び掛け揺すっても、彼女は意識を戻さない。
俺は萌奈美を抱き上げると、ドアの外でオロオロしている奴等に叫んだ。
「体温計とタオル、スポーツドリンク、それに車の用意をしろ!病院に連れて行く!!」
「へいっ!!」
「棗、高橋医院に連絡してくれ」
「大先生の方だな?」
「物凄い高熱だ…水分を摂れなくなって、どれだけ経つのか…」
脱水症を侮ってはならない…もしインフルエンザなら、高熱による脳症も考えられる。
腕の中でぐったりとしている萌奈美に呼び掛けながら、俺は駐車場に向かった。
「インフルエンザだね…それに、肺炎を併発している様だ」
高橋医院に着いて内科医である福助の父親の診察を受け、念の為に頭部と胸部のレントゲンを撮影した結果を見て、高橋医師はそう告げた。
「確かに脱水も起こしているが…それより、何でもっと早く連れて来なかったんだい?この様子だと、4〜5日は高熱で苦しんでた筈だよ?」
「…申し訳ありません…誰も気付かなかったもので…」
「無茶するねぇ…それに、何だか…劣悪な状況で生活していたみたいだし。大丈夫なのかい?」
「…はい…それで先生、入院は?」
「ん〜、それなんだけどね…」
高橋医師が苦い顔をした所に、福助が内科診察室に顔を出した。
「無理だぞ、聖。ウチは今、満床だ」
「何とかならないか?」
「無茶言うな!元々、そんなにベッド数がないんだからな!?真木さんを出すなら、何とかなるが…」
「…」
「取り敢えず、処置室で解熱剤とブドウ糖を点滴して行きなさい。熱が下がれば、意識も戻るだろう。大丈夫、連れて帰れない程じゃないよ。その代わり、きちんと看病してやる事だ」
「…わかりました」
点滴が終わった萌奈美を、俺は抱いて帰った。
「入院は、せずに済んだのか?」
自宅に帰ると、棗が様子を見に顔を出した。
「満床だったんだ」
「そうか…やっぱり、インフルエンザか?」
「肺炎を併発してた…取り敢えず、解熱剤とブドウ糖を点滴して来た」
「全く、人騒がせなお嬢ちゃんだ…」
「…」
「…そろそろ、決めてやったらどうだ、セイヤ?」
「…」
「このままだと、このお嬢ちゃん…命落とす迄意地を張り続けるぞ?」
「…わかってる」
俺はベッドの端に座って、汗で濡れた彼女の髪を掻き上げてやった。
「……ぅん」
小さく呻いて、ベッドの上の萌奈美は寝返りを打つ。
棗が静かに出て行くのを確認し、俺は声を掛けた。
「…萌奈美、萌奈美」
呼び掛けると眩しそうに顔をしかめて、萌奈美はうっすらと目を開けた。
「……」
「大丈夫?喉渇いてない?」
パクパクと口を開ける萌奈美を抱き起こし、常温に戻したスポーツドリンクを渡してやると、喉を鳴らして半分程一気に飲んで溜め息を吐いた。
「…私…何で…」
「倉庫で倒れてた…覚えてない?」
「…あぁ…いつ帰って来たの?」
「日付が変わったからね…昨日の夕方に帰って来た」
「そぅ…お帰りなさい」
「ただいま。で?何でこんな事になってるの?具合悪いなら、何でちゃんと言わないの!?」
「へ?」
「インフルエンザで高熱出して…肺炎迄併発させてたんだよ!?」
「インフルエンザでしょ?病院なんか、必要ないじゃない」
「え?」
「インフルエンザは、熱さえ出し切れば平気なんだよ?水分補給してれば、直に治るし…」
「もしかして…インフルエンザで、病院に掛かった事がないの?」
「ないよ、そんなの!病気の内に入らないじゃない」
そう言って、萌奈美はカラカラと笑いながら少し咳き込み、慌てて口を塞いだ。
「でも、肺炎になってたんだ…熱が引かないと思ったんだよね」
「萌奈美」
「何?」
「今迄、病院に掛かった事ある?」
「日本で?そりゃね、何回かあるよ?熱中症で2回程倒れたし、後は腸捻転と…腹膜炎?んで、この間」
「…」
「…ねぇ、シャワー借りていい?汗掻いて気持ち悪い」
「あぁ」
萌奈美は寝ていたベッドから這い出すと、少しふらつきながらシーツを剥がしバスルームに向かった。
インフルエンザは病気の内に入らないって…何なんだそれは!?
彼女が病院嫌いなのもあるかもしれないが…いや、そもそもあの叔母が…そういえば、耳は!?
難聴は、生まれつきなんだろうか?
風呂から上がった萌奈美に粥を食べさせながら、俺は何気ない風を装って尋ねた。
「萌奈美」
「何?」
「右耳の難聴って…生まれた時からなの?」
「…違うよ」
「いつから?」
「小学生の時…まぁ…事故かな?」
「病院には、行った?」
「…」
「…もしかして…虐待…されてた?」
「…何で?」
「この前、小学生の頃は鍵も持たせて貰えなかったって言ってたよね?冬の寒い日も、外でずっと待ってたって…もしかして、その耳も…」
「…よくわかんない。他人の子供育てるんだし、あんなものだよ…きっと…」
「他人って…血の繋がった叔母だろう!?」
「…繋がってないよ。ダディと叔母さんは兄妹って言っても、連れ子同士で再婚した家族だから、血の繋がりはないらしいよ。だから他人と一緒」
事もなげにそう言って、俺の顔を見上げヘニャリと笑うと、萌奈美は薬を飲んで立ち上がった。
「お世話になりました」
「えっ!?」
リビングに置かれたボストンバックと毛布を抱え、彼女はスタスタと玄関に向かう。
「ちょっ…待ちなさい、萌奈美!!」
「何?」
「どこいくの!?」
「倉庫だよ?」
「…何言ってるんだ…病気なんだぞ!!」
「だから、病気の内に…」
「いい加減にしないか!?」
思わず吐いた怒声に、萌奈美は目を丸くする。
「…聖さん…何怒ってるの?平気だよ?薬も飲んだし…」
俺は萌奈美を抱き締めて、頭を振った。
「ここに居て…俺に看病させて…面倒見させて!」
「聖さん…」
「俺と一緒に居るのが嫌なら、俺が部屋を出るから…ここで生活して!」
「それは、駄目だよ…この家は、聖さんの家だもん」
「違う、萌奈美!!お前と…2人の家なんだ!!」
「…」
「俺の出す答えなんて、端から決まってる…ただ、余りに長い間拘って来たから、決心するのに時間が掛かっただけだ!!」
「…」
「待たせて…ごめん」
「…」
「愛してる、萌奈美…萌奈美さえ良ければ、ずっと俺の傍に…」
腕の中の萌奈美がフラリと揺らぎ、ボストンバックと毛布が床に落ちた。
「…大丈夫か?」
「…大丈夫じゃ…ないかも」
「愛してる」
「…ん」
おずおずと俺の胸のシャツを握る手が、微かに震えていた。
「…正直…まだ、萌奈美をこちら側の世界に引き摺り込むには、抵抗があるんだ…君が思っている以上に、危険な世界だから」
「…うん」
「それに、まだ萌奈美は学生だし…結婚なんて直ぐには考えられないだろう?」
「…うん」
「だから…ゆっくり考えて…俺との将来の事…」
そう言いながら、萌奈美の熱っぽい顔にキスを降らせた。
「…駄目だょ」
「どうして?」
「…感染っちゃう」
唇に触れようとすると、俺の口を手で塞いで抵抗する。
「大丈夫…ちゃんと、インフルエンザワクチンは打ったよ」
「でも…感染するもん」
「じゃ…感染して…」
この上なく甘いキスを与えて、俺は萌奈美を蕩けさせた。
クフンと鼻を鳴らして甘える彼女を抱き上げベッドに運ぶと、ポケットの中から小さな紙袋を出して渡す。
「…何?」
「お土産」
「ホントにっ!?」
ガサガサと袋を開ける萌奈美の掌に、雪の結晶の細工のチャームが付いたストラップが落ちた。
「土産物を売っている様な場所に行かなくて…新幹線の駅の中でしか買えなかったんだ。そんな物でごめんね」
「うぅん…嬉しい!!ありがとう、聖さん!!」
そう言いながら、彼女は俺に抱き付いた。




