第2話
百人町の一角にある高級料亭の様な豪奢な屋敷の一角で、俺は目の前に座る少し年上の着流しの男と、キッチリとしたスーツを着込んだ男と対峙していた。
挨拶を終えて頭を上げてからも、着流しの男はニヤニヤと笑うばかりで一向に口を開こうとしない。
目上の者が話す迄、目下の者は黙って待つ…最初に会った時このルールを破ったばかりに、時折こうやって試される。
ワシャワシャと煩い蝉の声…吹き込む風は庭の打ち水のお陰で多少冷たいが、背中に流れる汗は尚冷たい。
嶋祢会系暴力団堂本組…関東、いや東日本を牛耳る嶋祢会の2次団体で、嶋祢会にも発言力のあるこの組のトップ、堂本清和は36歳。
先代が亡くなって組を継いだのが8年前…若干28歳にして、この大屋台を担いだ訳だ…幾ら腕のいい側近に囲まれていたからといって、俺とは器が違い過ぎる。
その側近中の側近が、隣に控える森田樹…堂本組長の教育係から若頭になった人で、俺自身は商売絡みでこの森田さんとの繋がりの方が深い。
静かに襖を開ける音がして、絽の着物を涼やかに纏った女性が氷を浮かべた麦茶を俺の前に置いた。
「随分『待て』が出来る様になったじゃねぇか…え、聖?」
「畏れ入ります」
「いいから、麦茶飲みな。今日は特別暑くていけねぇ」
「扇風機でもお持ちしましょうか?それとも、窓を閉めてクーラーを点けますか?」
「いや…それより、誰かに言って庭に打ち水させてくれ」
「それでは、私が子供達と一緒に水を撒いて来ましょう」
女性はそう言うと、森田さんと俺に黙って頭を下げて退出した。
「何だ、森田…ニヤついて?」
「いえ…堂本の三大美女が揃うなんて事は、そうそうありませんからね」
「何言ってる…俺もしずかも、三十路をとうに過ぎてる…聖、お前幾つになった?」
「29になります」
「そうか。先代は…親父さんの容態は?変わりねぇのか?」
「お陰様で」
「そうか…」
「…組長、こちらが今月分になります」
「おぅ…森田」
俺が渡したアタッシュケースを受け取った森田さんは、中身を確認して堂本組長に頷いた。
「相変わらず、お前の所は羽振りがいいな」
「そんな事はありません。世間一般と同様、厳しいですよ」
「それでも、こうやって毎回期限を守って上納して来るのは、森田とお前の所位だ。それに今度、森田ん所のシマにビル建てるそうじゃねぇか?」
「森田さんからお話を頂きまして…清水の舞台から飛び降りる覚悟です」
「謙遜するな。それだけの甲斐性が有るって事だろ」
「有難うございます」
「榊の屋敷跡にテナントビルを建てるんだったな…何するんだ?」
「本館を駐車場とファッションビルに。聖の建てる別館には、飲食店とアミューズメント施設が入ります」
森田さんが静かに説明する。
「ふぅん…でも、お前のシマに若い聖がビル建てるのを、誰も文句言わなかったのか?」
「私が声を掛けたのは、聖だけではありません…曰く付きの土地ですから、安く設定したのですが…こちらの言い値で金を出したのがSaint興業だけだったという事です。勿論、組長の許可も頂いておりましたし」
「まぁな。ただ、余り波風を立てるなよ」
「承知しております。所で、聖…」
少し厳しい顔をして、森田さんが俺を睨んだ。
「何でしょうか?」
「少しキナ臭い空気が流れている様だが…大丈夫なのか?」
「…もう、お耳に入りましたか」
「然も、他人様のシマで…と言うのは、感心しないな」
「申し訳ありません」
「どうした?何かあったのか?」
「…いえ」
俺が言い淀むと、森田さんが涼しい顔で堂本組長に説明する。
「佐久間組のシマで、聖を狙った奴がいる様で…」
「佐久間の!?」
「お騒がせして、申し訳ありません。佐久間組長には、先日お詫びに伺いました」
「佐久間とのトラブルじゃねぇんだな?」
「はい。それは、佐久間組長も絶対に無いと…今の所、佐久間との関係は良好ですから」
「そうか…森田、こっちからは?」
「佐久間組長には、昨日詫びの電話を入れておきました。あそこも、先日跡取りがお生まれになったので…子供用品でも贈って置きます」
「それは、ウチが…」
「いや…別口で贈っておいてやれ。あの歳で孫じゃなく息子だろ…可愛くて仕方ねぇだろうよ。然も、本妻のあのご婦人との間の子だろ?満更お前と縁がねぇ訳じゃねぇし…俺やしずかにとっても縁の有る家だしな」
「御意」
堂本組長と森田さんは、互いに含み笑いをして目を見合せた。
「で…狙った奴の心当たりは?」
「…いえ」
「仕事絡みか、プライベートか…どっちだ?」
「まだ、何とも…」
「怪我は?」
「私は何とも…ただ、店の店員が巻き込まれて、少し怪我をさせてしまいました」
「堅気を巻き込んだのか?」
「…申し訳ありません」
眉を寄せ腕組みをした堂本組長は、頭を下げる俺に静かに声を掛けた。
「金庫番だったお前の父親が脳梗塞になった時、お前の組の跡目について俺は口を出した。ヤクを扱う事に関して始終中立な立場を守って来たお前の父親の跡を、ヤクの推進派の本妻の息子に継がせる訳にいかなかったからな」
「いえ…親父は元々、組の跡目には私を指名しておりましたので…」
「だが、お前は家業を嫌って家を出ていた。それを無理矢理説得したのも俺だ」
「私が…自分で帰ると決めた事です」
「だがそれによって組の中は荒れて、死人迄出した…お家騒動ってヤツだな。あれから2年、お前は良く組を纏め上げ、一枚岩になったと思っていたんだがな?」
「Saint興業は関係ありません。社員は、皆心を一つにしてやってくれています」
「…そうか…弟個人の反乱か。だが、仕事の方でも邪魔して来る奴が居るだろう?お前は頭も腕も切れるから、年上の連中は戦々恐々なんだろうぜ?」
「いえ…私など、まだまだ若輩者ですから」
「代替わりして直ぐの若造に金庫番させる訳にもいかなくて、幹部から外して森田に預けたんだがなぁ。お前自身は出者張りでもねぇが…能力の有る奴を若い内に叩きたいって思う年寄連中が多くて苦労するだろうが…まぁ、頑張ってくれ」
「有難うございます」
「森田には、逐一報告しろ。いいな?」
「承知致しました」
俺が頭を下げると堂本組長は立ち上がり、部屋を出ようと襖に手を掛けた所で立ち止まった。
「…それからな、聖」
「はい」
「…そろそろ、組長としての自覚を持て」
「はい?」
フゥという息を吐き捨て、少し困った様な笑みを漏らして堂本組長は振り向いた。
「狙われたのは、1人で出歩いていたからだろうよ?」
「…それは…」
「女と会ってたのか?まぁ構わねぇが…」
「…」
「狙われたのは、本当にお前なのか?」
「…わかりません」
「守りたい奴は、ちゃんと守ってやらねぇと…後でテメェが後悔する様な事だけはするなよ?」
「…肝に命じます」
俺は再び手をついて、頭を低く下げた。
堂本組長の屋敷を出て車に乗り込んだ途端、俺は棗に電話して『桜井萌奈美』の保護を命じた。
「素直に同行すると思うか?」
「その場合は、致し方ない」
「…拉致って来るのか?」
「手荒な事はするなよ」
「まぁ、出来るだけ穏便にはするがな…」
堂本組長の言う通り、先日の襲撃で狙われたのは俺なのか彼女なのか、確証が掴めない。
彼女には悪いが、強行策を取らせて貰おう。
「今は、どうしてるんだ?」
「下の者に見張らせている」
「必ず今日中に連れて来てくれ…相手が把握出来ない限り、こちらとしても手の打ち様がない。もしかしたら、相手も彼女の身柄を狙う可能性が有るからな」
「承知した」
彼女を気に掛けつつ、俺は次の訪問先に向かった。
彼女…桜井萌奈美と出会ったのは、今年の春の事だ。
同じ堂本傘下のシマで接待を受け、見知った場所だからとボディーガードを帰し、気が緩んだ隙を突かれて帰り道に数人の男に襲われた。
3人相手に大立ち回りをして、追って来る男達から必死で逃げた。
幼い頃から見知った街だ…路地裏まで全て把握しているが、立場上こんな姿で馴染みの店に逃げ込むのは躊躇われる。
ズタボロで路地の奥に座り込み息を整えている所で、不意に頭の上から声を掛けられ驚いた。
「…ねぇ…大丈夫ぅ?」
「…」
どこかの店の女だと素性を知られて厄介だ…そう思って立ち去ろうとすると、目の前にニュウッとペットボトルが差し出される。
「さっき買ったの…飲む?」
思わず受け取ると、死ぬ程喉が渇いていた事に気が付いた。
「…いいのか?」
「いいよぉ、奢って上げるぅ」
蓋を開けて喉を鳴らして飲むと、彼女は満足気に俺の正面にしゃがみ込む。
素人女だ…遊びに来た学生か?
「…喧嘩したのぉ?」
「あぁ」
「酔っ払いと?」
「まぁな」
「気を付けなきゃ駄目だよぉ…新宿って怖い人も沢山いるんだからぁ…」
どうやら、地方から出て来たホストか何かと勘違いしてるらしい。
「…学生か?」
「そうだよ。新歓コンパっていうのぉ?連れ回されて…いい加減ウンザリなんだけど…1人で抜けるのも気が引けてさぁ。ここで一緒に隠れてちゃ駄目かなぁ?」
「別に…構わない」
「そ?良かったぁ」
そう言うと、俺の顔を見てヘニャリと笑った。
「怪我してるね…平気?」
「あぁ」
「ちょっと待ってよぉ…」
そう言うと、やおら鞄の中をかき回し、絆創膏を俺に差し出して又ヘニャリと笑った。
何だか…気の抜ける様なその笑顔を見て、こちらも自然と頬が緩む。
「格好イイねぇ、お兄さん…お店でもNo.1?」
「まぁ…No.1は間違い無いな」
「私さぁ、初めて見たよ…本物のホストの人…」
有り得ない位にマジマジと顔を覗き込まれ、思わず仰け反る。
「お前、もしかして…相当酔ってる?」
「うぅん……酔ってないよ…多分…」
「どの位飲んだんだ?」
「少しだよぉ…甘いの少し…」
ヘニャヘニャ笑いながら答える彼女に、とんでもない酔っ払いに絡まれたのだと気付いて溜め息を吐いた。
「終電、間に合うのか?」
「へ?何時ぃ?」
「もう、12時近いぞ?」
「大丈夫だよぉ……歩いて帰れるしぃ」
「どこだ?近いのか?」
「……」
「おいっ!?寝るなっ!!」
「…寝てない……休んでるだけ…」
「親に電話して、迎えに来て貰え!ホラッ!!」
彼女の鞄から携帯を出して、無理矢理握らせた。
「…無理だよぉ」
「ホラ、家に電話しろって!」
「誰も居ないよぉ…だから、今日参加出来たんだもん」
「…旅行なのか?」
「叔母さん達はぁ…法事でぇ……叔父さんの実家に行ってぇ…」
「叔母さんの家族じゃなくて、お前の家族の話だ!」
「私の家族はぁ……お墓の中でぇ…明日ぁ祥月命日でぇ…お花買ってぇ…お墓参り行くんだぁ〜」
「……悪い」
「何がぁ?」
相変わらずヘニャヘニャ笑う彼女は、携帯を鞄に放り込むとフラフラと立ち上がった。
「…じゃあ、私…帰るねぇ」
「電車か?」
「歩いて帰るよぉ…」
俺は仕方なく携帯を出すと、事務所に電話をして近くに車を呼んだ。
ぐでんぐでんの彼女から住所を聞き出す事も出来ず、仕方なく再び彼女の携帯を開けて情報を探す。
その時に初めて、彼女が『桜井萌奈美』という名前である事、俺の母校の後輩である事を知った。
彼女の家に連れ帰り、多分彼女の部屋のベッドに寝かせ…一体俺は何をしているのかと、複雑な思いで酔って寝入る女を見下ろした。
「…酔っ払いめ!」
少し悔しくなって、彼女の鼻を思い切り摘まんで、俺は家を出た。
2度目の出会いは、思いの外早くにやって来た。
学生時代から住む弁天町のマンションからフラリと出掛けたのは、ゴールデンウィーク前辺りだっただろうか?
休日は極力普通の格好で、一般人の様な生活をするのが常だった。
捨て去った過去の自分を引きずっていたい…思えば未練がましい足掻きなのかも知れない。
無精髭を伸ばしたままカチューシャで髪を上げ、黒縁眼鏡を掛けてポロシャツにスニーカーの姿は、どう見ても自由人だ。
本屋の帰り道、思い付いて夏目坂を下り路地を曲がった所で、小さなカフェを見付けた。
買った本を読みながら珈琲でも飲もうと、ドアを開けて驚いた。
「いらっしゃいませ」
そこで俺は、再びあのヘニャリとした笑顔で迎える彼女に再会したのだ。