第19話
『猛毒』の香りの付いた服を脱ぎ捨て、大急ぎでシャワー浴びる…途中何度も香りが消えたかを確認し、バスタオルで躰を拭くのももどかしくバスローブを羽織った。
「……良かった?そうね…自分で言わなくて済んだんだもんね…大丈夫ょ?お金なんて要求しない。される様な事してないし、寧ろ私がお金返さないといけないのよね…」
萌奈美の言葉が突き刺さる…。
のぞみとの事は、出来れば隠し通して置きたかった。
しかし、まさか皇輝の子を妊娠しているなんて…それを知った上で、俺との結婚話を推し進め様とする本家の2人に、腸が煮えくり返る思いだった。
萌奈美は事実を知らず、のぞみが俺の子を妊娠したと思った筈だ…。
傷付けてしまった…最悪の方法で…そして、荷造りを始めたのだ。
俺と萌奈美の関係は、同棲という形を取りながらも清らかなままだ。
本家にもEDなんだと疑われる程、跡目を継いで以来女性に対しての欲求を失っていた。
子供を作る訳には行かないと自重した部分もあるが、そう思える女性に巡り会わなかったのも多分にある。
萌奈美と同棲し始め、毎晩腕の中に抱き締めて寝ている…が、そういう関係に至らないのは、何も俺が自重しているからだけではない。
彼女が…そういった行為に異様な怯えを見せた為だ。
そういう雰囲気になり行動に移すと、途端に緊張し震え出す…泣き出しそうになる程緊張しながらも、手で口を塞いで堪え様とする彼女が哀れで可哀想で…。
「我慢しながらする事じゃないんだ…焦る必要はないんだよ」
そう言ってやると、いつも背を向けて1人咽び泣く。
決して声を上げず、息を殺し…1人で涙を流す。
それは辛い事が有ると膝頭に顔を埋めて堪える、あの姿と同じ…萌奈美は泣き顔を決して見せ様とはしない。
「我慢しなくていいんだ」
…そう言っても、
「平気だもん」
と、うそぶく。
「何か…あったの?」
「…」
照れ臭さや初めての緊張から来るものではない、余りの怯え様にそう尋ねると、いつもゴロリと背を向けてしまう。
「萌奈美?」
「……言いたくない」
大概の事はケロリと話す彼女が、その事に関しては頑なに口を閉ざした。
何か、余程のトラウマを抱えているのではないだろうか…そう思い背中から抱き締めると、俺の腕からも逃げようとした。
「駄目だよ…1人で居ると悪い方ばかりに考えてしまう。2人の間の事は、俺の腕の中で考えるんだ…1人で結論を出さないで、2人で考える事。これは、約束しよう…いいね?」
「…わかった」
少し拗ねた様な返事をして、萌奈美は寝返りを打ち、俺の胸に顔を埋めた。
萌奈美の部屋に入るなり、俺は彼女の背中に抱き付いた。
「…冷たいよ、聖さん」
萌奈美はいつもの様に笑いながら振り返ると、俺の首に掛けたままのバスタオルでガシガシと髪を拭き出した。
妙に清々しい顔をした彼女の顔を見て、背筋がスゥッと寒くなる。
彼女がこういう顔付きをしている時は、何か結論を出した時…。
「…待って、萌奈美…もう一度、俺の腕の中に来て…」
「何言ってんの?」
「もう一度…腕の中で考え直して…」
見上げた萌奈美は、ヘニャリと笑いながら俺の手を引いてリビングのソファーに座らせた。
「…何を怖がってるの?私もう、聖さんの事疑ってないよ?」
「…」
「あの近松さんのお腹の赤ちゃんが違う人の子供だって事も、勝手に婚約話を進められてる事も…ちゃんと理解してるよ?」
そう言って着替えを俺に渡すと、萌奈美はキッチンに立って珈琲を淹れ始めた。
ミルで丁寧に豆を挽き、流れる様な手捌きでサイフォンを扱う。
俺は着替えを済ませ、食器棚から彼女のお気に入りのMintonのカップを出し、ダイニングテーブルの席に着いた。
「じゃあ、何を決心したの?」
「…この部屋を出る事」
「駄目だと言った筈だ!」
萌奈美はカップに珈琲を注いで俺の前に置き、自らも席に着いた。
「…聖さんと近松さんの話を聞いて、事情もわかったんだけど…どうしてもショックで納得出来ない事もあってさ」
「どんな事?」
「…聖さん…名前何ていうの?」
「え?」
「私は桜井萌奈美です。貴方の名前を教えて下さい」
「聖夜だよ?」
「…やっぱり…ナイトさんっていうんだ」
「何?」
「今更って思ってる?私ね…今日初めて知ったんだよ?3ヶ月近くも一緒に住んで、恋人になった人の名前を…今さっき、初めて知った…然も、恋敵が呼んでるの聞いて知ったんだよ」
「…」
「棗さんがセイヤって呼ぶの聞いてて…勝手に『聖セイヤ』って名前だと思い込んでたのもあるんだけどさ…聖さんが秘密主義だからって、名前まで隠されてた事…恋人だって思ってたのに…あり得ないでしょ?」
「それは、隠してた訳でも何でもない!!俺は、当然萌奈美も知ってると思い込んで…」
「でもそれって…一番最初に話す事なんじゃない?私、それすら教えて貰えない内に…恋人になって……これって、聞かない私が馬鹿だったのかな?」
「いや…俺が最初に名乗らなかったのが悪い。でもそれだけで、萌奈美はここから出て行くっていうの?」
「甘い気持ちが吹き飛ぶには十分だったけど、それだけじゃないの」
「他にも何か?」
「これは、聖さんに責任のない事…私自身の事なんだけどね」
「聞かせて…どんな事でも…」
「…私、近松さんに…何も言い返せなかったんだよ」
「え?」
「可笑しいの…理不尽な事沢山言われて…そりゃ少しは抵抗したけど…いつもの私じゃなかった。それで考えて見たんだよね…拉致されたり命を狙われたり、耳が聞こえなくなったり…普通じゃない事が沢山あって…そんな時に聖さんに優しくされて、守って貰って抱き締められて、キスされて…」
「…何が言いたい?」
「私、怖くて…聖さんに縋り付きたかっただけなのかも知れない」
「…疑うの?自分の気持ちを!?」
萌奈美は、話しながら手元で弄んでいたカップを持ち上げ、一気に珈琲を飲み干して言った。
「一回、全てリセットしようと思ったの」
「…駄目だっ!!」
「…聖さん」
「許さない!この部屋を出る事も!!勿論、別れる事もっ!!」
「落ち着いて、聖さん」
「駄目だっ!!」
「…落ち着いて…もう一杯、珈琲飲む?」
「…」
「最初から間違ってたんだよ…私らしくないんだよね。どんなに困った事があっても、いつもなら自分で動いて何とかしてた。守って貰うにしても、そこには明確な自分の意思があっての行動を起こす筈なんだよ。でも今回は、最初から私の意思は蚊帳の外だった」
「それは…」
「私ね…今、自分の足で立ってないの。だから、さっき何も言い返せなかったんだよ」
「…」
「こんなの、私じゃない!!」
「…萌奈美」
「昔、言われた…『誰にも守って貰えないなら、泣き寝入り等せず、自分の意思を通せる程強くなれ』って…『その為の努力を惜しむな』って!」
「…それは、あの王子様に言われたの?」
「そうだよ…そして、こうも言われた。『強くなれ…自分の足でしっかりと立てる様になれば、誰にも何も言われない。言って来る奴等には、堂々と宣言し、言い負かしてしまえばいい』って…」
「…君は…」
「私は、実践した…努力も惜しまなかった。今の私が在るのは、その言葉のお陰なの!」
「…俺は…ソイツを恨むよ…」
「え?」
「萌奈美に苦しい選択を強いて…その為に、萌奈美がどれだけ強がって辛い想いをして…涙を流して生きてきたか…」
「…」
「辛くないの?疲れない?そんなに肩肘張って踏ん張って…誰かに助けを求めたり、縋ったり甘えたりする事は、そんなに悪い事!?」
「…今更…そんな事言わないで!!」
「俺は、萌奈美を支えたい!応援して、時には叱って…でも縋って欲しいし、甘やかしてやりたい!!それのどこが悪い!?」
「聞きたくない!!」
萌奈美は立ち上がり、リビングの隅に逃げる…俺は追い掛け、その躰を抱き込んだ。
「イイ女になるんだもん!!」
「イイ女?何ソレ?」
「自分の足でしっかりと立てる、強い自立した女性になるのが、私の夢なのっ!!」
「萌奈美は…きっと素のままでもイイ女だよ?」
「知らない癖にっ!?」
「わかるよ…好きになった娘が、本当はどんな娘なのか位…」
「…」
「優しくて面倒見が良くて、人を上辺で判断しない…寂しがり屋で甘えん坊で、泣き虫で好奇心が強くて…でも本当は怖がりで、とても頑固な女の子…」
「…」
「俺は、そんな萌奈美が大好きだよ」
「聖さんはズルいよ…自分だけ、相手の事何でもわかって…」
「それは、俺が先に好きになった訳だし…年上だし…」
「聖さん、私の気持ちわかってない!!」
「…」
「私は、もう一度ちゃんと聖さんの事見て、私の気持ちを確認したいの!」
「その為に、出て行くの?」
「そうだよ」
俺は溜め息を吐いて、萌奈美の額にキスをした。
「…君の命を狙うのは、多分本家の連中だ。だが、それだけじゃない…新宿の街を麻薬漬けにしようとする連中が、それに手を貸している。ヤクザの利権争いなんだ…手加減しない連中なんだよ」
「…」
「これは俺の都合だけど…こっちに事務所を移した事で、萌奈美の警備に人員を割く余裕がないんだ」
「…」
「ここに居て…本当に危ないんだよ。のぞみを通して本家に宣言した以上、奴等が強行策を取って来る可能性は、十分考えられる事なんだ」
「…」
「…萌奈美」
「…私の気持ちは…又無視されるの?」
「ここに居て…俺に君を守らせて」
「…」
「もしも…どうしてもそれが君の意に染まないと言うなら……俺は決断しなきゃいけなくなる」
「…」
「君の身の安全か、君の恋人で居るか……俺に決めさせたい?」
「…酷い」
「…萌奈美……そうなると、俺の選ぶのは…決まってるんだ」
「…」
「…俺は…」
突然、萌奈美は両手を上げて、俺の口を塞いで叫んだ。
「やっぱり聖さん、何にもわかってないよ!!」
「…」
「聖さんが答え出してどうするの!?聖さんがどんな答え出すかなんて、そんな事はわかってるんだからっ!!」
息を上げて怒りながら、萌奈美は俺の口から手を離すと拳を振り上げて俺の胸を叩く。
「私が答えを出さないと…意味がないんだよ!!」
「…萌奈美」
「私が自分で考えて、自分で答えを見付けなきゃ…私は前を向いて歩けないのっ!!」
振り上げる拳を握り込み、真っ赤な萌奈美を見下ろした。
ひとつひとつ、自分が納得しないと前に進む事が出来ないなんて…。
「…俺の天使は、何て頑固で不器用なんだろうね…」
剥れた萌奈美が俺を見上げ、言葉と裏腹な俺の表情に少し眉を寄せた。
「俺達の関係は、一度リセットされるの?もう…触れ合う事も出来なくなるの?」
「…それは…だって…」
「ん?」
「聖さんだって…本当は…」
「何?どういう事!?」
捕まれた腕を振りほどき、萌奈美は自分の荷物を置いた部屋に向かおうとした。
「待ちなさい、萌奈美!?どういう事だ!?」
「…本当に元の関係に戻りたいの?」
「勿論だ!!何を疑う!?」
「なら、ちゃんと話して」
「えっ?」
「近松さんが言ってた『俺は誰とも結婚しない。例えお前と一緒になっても、俺は決して子供を作らない』って…あれ、どういう事?」
彼女の悲しげな眼差しが、俺を射った。
「あれは、近松さんに限っての事じゃない様に聞こえたのは、私の気のせい?」
「…」
「…確かに、聖さんと私は…まだそういう関係じゃないし…私だって結婚なんてまだまだ考えてない。でも、先の全くない恋愛なんて、する気ないよ?」
「…萌奈美」
「聖さんは、私をどうしたいの!?」
「…」
「森田さんと何を話したか聞かれた時、命が狙われなくなったら私の事捨てるのってメールで聞いたら、そんな事しないって言ってくれたよね!?あれって、嘘!?」
「嘘じゃないっ!!」
「じゃあ、一体何なの?」
「…」
「…ほらね?…聖さんが秘密にするから…この話は、エンドレスでぐるぐる回るんだよ」
「…」
「会社や仕事の事で、話せない事あるのはわかるけど…教えて貰って納得しないと…私が進めないのも、聖さん知ってるよね?」
「…」
「片手落ちの情報の中で、私に結論出させたい?」
「…」
「私は…」
「……萌奈美」
「私は、聖さんと……別れたい訳じゃ……ないんだよ?」




