第14話
『眠るのが怖い、目を閉じるのが怖い』
と愚図る彼女を宥める様に抱き込んでやり、半ば気を失う様に眠りに着かせたのは明け方近くだった。
俺の懐に潜り込む様にして眠る彼女を見て、俺は彼女を甘やかせてやりたいんだと自覚する。
何にせよ、翌日には家に帰るという彼女を何とか説き伏せ、あれから半ば強引にこの部屋に監禁している。
彼女が愚図る度、怖い夢を見て怯える度に、手足を絡める様に抱き締め、指を絡め、額に口付けたまま何度も大丈夫だと囁いた。
見上げる彼女の唇を捉え舌を絡め…やがて彼女はトロンとした表情を浮かべ、穏やかに俺の胸に顔を埋める。
それ以上、進みそうで進まない関係に、苛立つ様な安心する様な、何とも複雑な感傷に浸っていた。
そんなホテルに監禁生活4日目の朝、枕元に置いてある彼女の携帯の着信音が鳴った。
フリップを開けると画面に『糸子叔母さん』と表示されている。
彼女の叔母だ…俺は仕方なく通話ボタンを押した。
「もしもし?」
「はい、桜井の携帯ですが?」
「貴方、誰?」
「私、桜井さんの大学の准教授をしております、聖と申しますが…ご家族の方ですか?」
「萌奈美の叔母で、筒井と言います。あの…萌奈美は?」
「申し訳ありません。桜井さんは、昨日より別の場所で作業して貰っているのですが、生憎携帯をこちらに忘れて移動されてまして…何か、急用でも?」
「あの…あの子は、いつ帰りますか?」
「申し訳ありません。もうしばらくこちらでの作業が続きます。伝言ならお伝え致しますが?」
「そうですか…まぁ…今時の子は、何というか…薄情っていうのか、ドライっていうのか…ねぇ、先生。そう思いませんか?」
「そうでしょうか?」
「10年ですよ?あの子の両親が死んで、私達が面倒を見る様になって、10年…それがねぇ…こんな風に掌反されて…幾ら賢くて大学に行っててもねぇ…」
「あの…お話の主旨が見えないのですが?」
「まぁ構いませんよ。あの子に伝えて下さいな。私達は、今日富山に発ちます。取り壊しは来月の15日になるから、必要な物はそれ迄に引き取らないと根刮ぎ潰されちまうって」
「えっ?」
「ひと月も勝手な事してるんだから、これからも勝手に生きて行きゃあいいんですよ!今後一切、私達とは縁も切れたと思えってね!!それじゃ、お邪魔様!!」
「もしもし!?筒井さん!?」
一方的に言いたい放題言って切ってしまう、お前の方が可笑しいだろう!?
しかし…どういう事だ?
携帯を閉じた途端、胸元から見上げる視線とぶつかった。
彼女の携帯で話していたのだ…気まずい顔を見せた俺に、彼女はヘニャリと笑って見せた。
『叔母さんから、電話があったよ』
そう彼女の携帯に打ち込んで見せると、納得した様に頷く。
『どういう事?』
『引越しするんだって。叔父さんの郷里に帰るんだってさ』
『家は?』
『売ったみたい。上物は潰して、更地にするんだって』
『知ってたの?』
『繁ちゃんが、メールで教えてくれた』
『だから家に帰るって…何で言わなかったの!?』
『言ったら、どうにかなった?』
確かに…事情がわかった所で、彼女を帰す訳には行かなかった。
『今日引越しだそうだ。来月15日に、取り壊しが決まったから、それ迄に荷物を取りに来る様にって言ってた』
『わかった』
再び俺の胸に顔を埋める彼女の髪を撫でてやる。
…俺は…彼女の帰る場所さえ奪い取ってしまったのか…。
居た堪れない気持ちで彼女を抱き締めて、額に口付けながら呼び掛けた。
「…萌奈美」
不意に俺を見上げて目を丸めると、彼女はベッドを飛び下りてリビングに走る。
何だ?
何があった!?
訳がわからず追い掛けると、彼女はリビングのグランドピアノを開けてキーを叩く。
「萌奈美?」
「…」
黙ったまま色々なキーを叩き続け…俺に向かってニヤリと笑い、ピースサインをして見せる。
「治った!!」
そう言って、俺の胸に飛び込んで来た。
「治ったよ!聖さん!!」
彼女を思い切り抱き締めて、何度も何度も呼び掛ける。
「萌奈美…萌奈美…」
「ごめんね、心配掛けて…もう大丈夫だよ」
「…萌奈美…」
「最速だよ!こんなに早く治った事ないもん!!」
「良かった…」
「一杯聞きたい事あるの!話したい事も、一杯ある…でもね、先ずは顔洗って、朝御飯食べよ!!」
相変わらずの切り替えの早さと、ポジティブな思考…。
「あ、でも1つだけ質問」
「何?」
「いつの間に、私の事呼び捨てになったの?」
「そこ!?」
俺は、久し振りに大笑いした。
「一緒に暮らそう」
「今迄だって、一緒に暮らしてたじゃない」
「そうじゃなくて…」
何となく言いたい事はわかるけど…。
「バイトならするよ」
「…」
「部屋借りるにしても、仕事探すにしても、もう少し蓄えがないと厳しいから」
「仕事って…大学は?」
「辞める」
「何で!?」
「家賃払って、生活費稼いで…学生の片手間のバイトじゃ、賄えないよ。それに、まだ学校行けないんでしょ?」
「…休学すれば?」
「私、奨学生だしさ。それにね、元々目的があって大学受験した訳じゃないし」
「どういう事?」
食後の珈琲を飲みながら、聖さんが微妙な視線を投げ掛ける。
「希望の就職先がなかったの。寮が完備されてる所を希望したんだけど、事務職は寮の空きがなかったし…完全寮完備なのは、警察官と自衛隊だけだったんだよ…両方共、私アウトだし」
「体力的に?」
「それもあるけど…コッチがね」
そう言って、私は左耳の耳朶を引っ張った。
「殆ど聞こえないからさ」
「え?」
「アレ…知らなかった?駄目なんだよ、こっち側」
言ってなかったっけ…そう思いながら、固まっている聖さんに笑い掛けた。
「子供の頃からね。だから、時々聞こえなくなるのかも」
「…そう」
「これでも高校では結構成績良かったんだよ。それで、先生が勿体ないから大学受けろって…それで受けただけなの」
「英文学コースの方だよね?教師になりたいとか?」
「全然…ただ英語に浸りたかっただけ。でも、何か違うって気がしてさ…模索してたんだよね」
「取り敢えず4年、頑張ってみれば?」
「それは、金持ちの発想。時間もお金も勿体ないよ」
「そんなもん?」
「そんなもんです。どうせならさっさと見切りつけて、次のステップアップに備えて、お金儲けした方がいいよ」
「ふぅん…やっぱり、一緒に暮らそう」
「…話、聞いてた?」
「聞いてたよ。独り暮らしするにしても、生活費や家賃大変じゃない」
「聖さんに援助してもらう理由ないし!」
「好きだから」
「あのねぇ…私達、付き合ってもないし、恋人でもないでしょ?」
「あんなにキスしたのに?」
何言ってるかな、この人はっ!?
一気に顔が熱くなるのを自覚すると、吐かれる声が裏返った。
「ひっ、非常事態だった訳だしっ!」
「成る程…そう来るか…」
「何よ?」
「いや、てっきりね…」
「何?」
「萌奈美も…落ちたかと思って」
「はぃ?」
「……恋に……落ちたかと思ったんだけどな」
「……ふぇ?」
「自覚…ない?」
…脳ミソが…沸騰するというのは…現実にあり得るのだろうか!?
目の前の人は、テーブルに肘を付き、顔を支えながら眼鏡とカチューシャを取ると、ニッと微笑んだ。
「可愛いなぁ…そんな反応されると、堪んないんだけど?」
「かっ、からかってる!?」
「全然…喜んでるんだよ?」
「……ちょっと待って」
「萌奈美?」
「待ってってばっ!!」
落ち着け、私!?
ペースを崩されて、パニックになっているだけじゃないの!?
この動悸は何!?
顔から、火が噴いてるみたいだし…。
ダイニングテーブルから立ち上がり、ソファーに場所を変えて落ち着こうとした。
ところが、事もあろうか元凶になる相手が追って来て、私の隣に身を寄せて座って来たのだ。
「…萌奈美」
思わず立ち上がると、腕を引かれて膝の上に座らされ、腰をホールドされてしまう。
「萌奈美」
「…」
「いい加減、降伏しなさい」
「だって…私、聖さんの事…何も知らないもん」
「拘るね…そこ」
「だって…」
「ねぇ…萌奈美の目の前の俺を、好きにはなれない?」
「え?」
「仕事上、どうしても言えない事もある…わかるよね?」
「…」
「個人的な事も絡んで来るんだ…どうしてもね…世襲制みたいな所もあるし」
「…」
「聞かせたくない事も、沢山あるんだよ」
「…」
「萌奈美に見せてる俺は、素の俺なんだ。ヤクザの組長でもない、会社の社長でもない…俺の素の姿」
「…」
「そして…もうひとつの姿で、萌奈美を傷付けた」
そう言って、聖さんは私の左の掌に巻いた包帯の上にキスをした。
「新宿の街を、粋がって歩いていた…『Silver Fox』と呼ばれていた頃の俺」
「え?」
「狐ってね…単独で行動するんだ」
そう言って聖さんは、私の躰をそっと抱き締めた。
「親父に反発して、徒党を組むヤクザに反発して…独りで新宿の街を、義賊気取って喧嘩に明け暮れてた時期があったんだ」
「…」
「幻滅した?」
「…少しビックリ…でも、納得…かな」
「正直だね。優柔不断で、寂しがり屋で意地悪な俺も、切れやすくて粗暴な俺も…素の俺なんだ」
「…うん」
「そんな男でもいい?君の恋の相手になれる?」
「…話せる事は、少しずつでもいいから話して」
「わかった」
「他の人から話聞いても、怒らないでよ?」
「…善処します」
「……普段は、眼鏡とカチューシャ付けて」
「どうして?」
「…」
「それは…約束出来ないかな」
「何でぇ?」
「萌奈美の照れた顔が、見られるから…」
意地悪そうにニィッと笑うと、私の髪を撫でて…そっと後頭部を包み込む。
「…萌奈美」
「…」
緊張する私に、艶やかなアッシュブラウンの髪が掛かる。
睫毛の長い切れ長な目が、私を捉え…赤い唇が私を奪う直前に、小さく呟いた。
「…mon amie」
途端にフニャッと力が抜けて…彼に支えられる様に唇を奪われた。
彼の舌が、私の口腔を縦横無尽に暴れまわる…舌を絡められて擽られる…今迄何度もして来た行為が、急に恥ずかしく、ドキドキと心臓が跳ね上がる。
やっとの思いで胸に手を付いて、押し離れた。
「…いやぁ」
「どうして?」
甘く尋ねながら、尚も音を立ててキスをする彼から逃れ様と俯いた。
「……音が」
「音?」
そうなのだ…こんなに淫猥な音がするなんて、思ってもみなかったんだもの!
今迄は、全く聞こえてなかったから…何て大胆な事をしていたんだろうと、又顔が熱くなる。
「Bebeちゃんだな…」
「いきなり子供扱い!?」
「大丈夫…俺が、1から教えて上げるから…」
止めてぇ…そのエロい声!?
「…可愛い…萌奈美…」
だから…吐息と共に喋んないでぇ!!
「聖さんっ、聖さんっ!!」
「何?」
「私…もぅ…」
「ん?」
「……許容範囲超え…」
「…」
クスクスと笑い出した彼は、やがて涙を流して大笑いし、私を抱いて額に口付けた。
「やっぱり可愛い」
「…」
「俺はね、君をトロトロに甘やかせてやりたいんだ」
「何よ、それ…」
「俺がやりたい事」
「そんな事言ったら、付け上がるかも」
「いいよ」
「贅沢三昧するかもよ?」
「大丈夫だよ」
「…」
「一緒に暮らそう…大学も、急いで辞める必要ないんだ。ゆっくり将来の事考えてから、結論を出したらいい」
「…でも」
「大人としての忠告だよ」
「…わかった」
「取り敢えず、休学届を出させて置くから」
「…うん」
「奨学金も気にしないでいい…一旦俺が払い込むから。萌奈美は、将来少しずつ返してくれたらいい。利子が付かない分、安上がりだし…いいね?」
「…わかった」
急に、金持ちの恋人とパトロンを持った気分だ。
「私は…何をすればいいの?」
「別に何をっていう事は…」
「何すればいい!?」
与えられるばかりの関係なんて…何だか凄く怖い気がした。
それを汲み取ってくれたのだろう…聖さんは、どこか痛い様な笑顔を見せた。
「じゃあ、毎日美味しい珈琲を淹れてくれる?」
「そんな事でいいの?」
「大事な事だよ…俺に取ってはね」
「わかった」
「それと…」
「何?」
「俺の傍に居て欲しい…君は俺の活力源で…傍に居てくれるだけで、間違った選択をせずに済むんだ」




