第12話
病院は嫌いだ…この臭いは、一番思い出したくない記憶と直結している…。
父の仕事の関係でカナダで生まれた私は、両親の方針で家でも英語を話して暮らしていた。
日本語は両親の話すのを少し聞き取れる程度…そんな私の生活が一変したのは9歳になる年の初夏。
父方の祖母が入院したと連絡があり、私と母は急遽日本に帰国した。
帰国後直ぐに祖母が他界…冷たい病院の霊安室で、初めて叔母の家族に会ったのだ。
その叔母に私を預け、叔父の車で母は空港に父を迎えに行った…その帰り道の高速で、タンクローリーに衝突され2人は帰らぬ人となった。
祖母の葬儀の準備で慌ただしくしている霊安室に、その連絡が入った時の叔母の第一声を、私は今も覚えている。
「ウチの車は!?」
兄夫婦の死より、車の心配をする叔母に違和感を覚えたのは、多分この時だ。
身元確認をして欲しいという警察に、祖母の葬儀の準備に加え、兄夫婦の葬儀迄出す羽目に合い忙しいと拒否した叔母は、私を見詰めて言ったのだ。
「どうせ私が見てもわからないし…この子の方が確認出来ると思いますよ」
そう言って、訪ねて来た警察官に私を押し付けた。
連れて行かれた警察で、異臭を放つ炭化し変わり果てた姿の両親に対面し、何が何だかわからない状態で、
「こんな人達は知らない!!」
と言い張った。
あの優しかった両親が、そんな姿になる筈はない…あの時、一緒に父を迎えに行くと駄々を捏ねた私に、母は言ったのだ。
「連れて行けないの、聞き分けて頂戴。ダディを連れて帰るから、いい子で待っていて」
確認させられた遺留品にあった、見覚えのある結婚指輪を見て、初めて両親の死を実感した。
焼き場に行っても尚悪態を吐く叔母に、何故あの時無理にでも母に付いて行かなかったのかと、ずっと後悔していた。
さっき聖さんは、母と同じ様な言葉を携帯に打ち込んだのだ。
然も病院で…この臭いの中で…。
マンションで再び襲われて怖くて痛い思いをしたけれど、聖さんに抱き締められて…キスされて…耳が聞こえなくなっても不思議と安心出来た。
前の時もそう…怖い思いをしても、聖さんに抱き締められてその温もりを感じていれば、直ぐにいつもの自分に戻れた。
たけど離れると直ぐに例え様もない不安に襲われる…何も聞こえない…頭の中が痛くなる程の静寂と、反対に研ぎ澄まされる視覚、触覚、嗅覚…。
胃から込み上げる胃酸に、味覚迄もが敏感に反応する。
又夜も眠れない日が続くのか…周りの音が聞こえないから、視覚を頼る…自然暗闇になる事が怖い…目を閉じる事が怖くて仕方がない。
病院の受付でしゃがみ込んでいた私は、突然棗さんに腕を引き上げられた。
病院の前に黒い大きな外車が停まっていて、黒いスーツの男性がドアを開けてい立っている。
『この車に乗って行け。社長が待ってる』
棗さんが、私の鼻先に携帯の画面を突き付けた。
1人で行けと言うのだろうかと不安になり、見上げて頭を振ると、眉を寄せ再び画面を突き付けられる。
『俺は、荷物を取って来る』
思わず棗さんの袖を掴んだが、そのままグイグイと車に押し込まれ、バタンとドアを閉められた。
慌てて外に出ようとするが、ロックが掛けられびくともしない。
滑る様に走る車は、新宿新都心のビル群を走り抜ける。
一体この男達は誰なのか!?
私を、どこに連れて行こうというのか!?
敵なのか、味方なのか…誰も何も説明してくれない。
車は急に地下の駐車場に潜り、静かに停車した。
煌びやかな玄関に立つ制服の男性がドアを開けた途端に、私は車の後方に向かって走り出した。
多分黒いスーツの人が追って来るだろう…車に乗っていたのは2人…運転手ではない人が追って来る筈。
だが、相手が1人なら逃げ切る事が出来るかも知れない。
駐車場の中を走り、チラリと後ろを確認した。
人影は見えない…私は駐車してある車を縫う様にして進み、大きな車の裏にある柱の影に隠れて座り込んだ。
口を押さえて息を殺す…ここでしばらく隠れてそれから…。
息が静かに整って来ると、又不安になった。
棗さんは聖さんが待ってると言ったが、知らない人に付いて行く気には、絶対になれなかった。
聖さんに会いに行くのなら、棗さんが同行しないのはおかしいと思ったから逃げ出したのだけれど…とはいえ、これからどうすればいいんだろう?
マンションは危ないと言っていた。
さっき連れて行かれた会社の事務所は、場所を確認出来なかった。
自分の携帯もないから、誰にもメール出来ない。
狙われいる以上、友人を頼る訳にも行かず、やはりあの家に帰るしかない…もう少し時間を置いて…こっそりと駐車場を抜け出そうと決心し溜め息を吐いた。
新宿パークタワーの39階から52階に入居している『パークハイアット東京』は、日本でも有数の小規模最高級ホテルだ。
大都会の喧噪を離れた大人の隠れ家というコンセプトのもと、あえて客室を178室に限定し、客室数が少ない分きめ細かなサービスを実現している。
「噂通り、素晴らしい眺めですね」
「気に入ったなら良かった。もうじき、彼女も到着するだろう」
160平米も有るディプロマットスイートからの眺望を堪能しつつ、俺はチラリと腕時計を確認した。
あれから彼女は、大人しく待っていたのだろうか?
気分が悪いと言っていたのは、もう治ったのだろうか?
ノックの音がして、森田さんの側近が携帯電話を片手に入って来た。
「私だ……何だと?少し待て」
携帯を耳から外し、森田さんが俺に向き直った。
「済まない、聖。彼女に逃げられたらしい」
「えっ!?」
「地下の駐車場で、逃走されたと…今、部下に探させている」
「…棗は、一緒ではなかったのですか?」
「彼女1人をここに連れて来たらしい」
「…お手数をお掛けして、申し訳ありません。お手数序に、お願いがあるのですが」
「何だ?」
「彼女を見付けても、決して接触しない様に伝えて頂けますか?狙撃されて怪我をした上、耳が聞こえない事でナーバスになっていると思います。私が直接迎えに行かないと、多分又逃げると思いますので…」
「わかった。見付けたら、お前に連絡させよう。取敢えずは他の階に行かない様に、見張りを立たせてある」
「ありがとうございます」
自分で迎えに行ってやれば良かった…彼女の不安な気持ちに、気付いていた筈なのに…。
急いで地下2階の駐車場に向かい、自ら彼女を探して回る。
耳が聞こえない限り、こちらから探してやらないと見付からない…結構な広さのある駐車場で…じっとしていてくれればいいが…。
小一時間程探し回っていた所で、俺の携帯が鳴った。
「見付けました!!今どちらですか?誘導致します」
電話の声に導かれ、車と柱の影に隠れる様にしゃがみ込む彼女を見付け安堵する。
上着を脱いで近付き、膝頭に顔を埋めている彼女の肩に、そっと上着を掛けてやった。
ビクッと痙攣して顔を上げた彼女が、俺の顔を見上げた途端に瞳を潤ませて抱き付いた。
「ごめんね…怖い思いをさせて…」
震える体を抱き締めて背中を擦り、聞こえない耳に何度も謝った。
どの位そうしていただろう…やがて彼女は俺の胸から顔を上げ、いつもの様にヘニャリと笑う。
『上に部屋を用意して貰った、行こう』
そう携帯に打ち込むと、コクンと頷いて立ち上がった。
ディプロマットスイートに入った途端に、その豪華さに目を見張りつつ、好奇心に目を光らせキョロキョロと辺りを窺う。
しかし、窓辺のソファーに知らない人物を確認すると、途端に俺の背後に張り付いた。
『こちらは森田さん。俺がお世話になっている人で、この部屋を取って下さった方。君に迎えの車を出した方』
携帯に打ち込んで見せると、彼女はオズオズと頭を下げ、俺の手から携帯を取り上げる。
『ヤクザの人?』
『そう、偉い人』
『堂本って組の人?』
棗が教えたのか…余計な事を。
『堂本組の若頭』
『若頭って偉い人?』
『NO.2』
『この人、敵?』
『違う。味方』
そう打ち込むと、彼女は安心した様に笑った。
そして、慌てて新しく文章を打ち込んで俺に見せた。
『初めまして、桜井萌奈美です。先程は迎えに来て下さった方から逃げ出して、申し訳ありませんでした』
文章を見て俺が頷くと、彼女は森田さんに携帯の画面を見せに行き、頭を下げた。
「成る程…少し予想外だな」
「はい?」
「組長に、『聖の囲っている女を見て来い』と言われていたのでな」
「はぁ」
「『銀狐』が囲っていたのは『子狐』だったと報告しておこう」
「…畏れ入ります」
苦笑いして頭を下げると、彼女は不思議そうに笑う森田さんの顔を見詰めた。
森田さんは自分の隣に彼女を座らせると、互いに携帯を操り会話を始めた。
時折彼女がチラリと俺の顔を窺う…一体何を話しているのだろうか?
森田さんの様子から、彼女の事を気に入って貰えたのだろうとは思うが…。
「聖、なかなか面白い娘だな」
「何か失礼な事を申し上げましたか?」
「いや…かなりストレートだがな」
そう言うと、愉しげに笑う。
「組長に会わせて見たいな…上手くすると、長ドスを振り回す姿が拝めるかもしれん」
「ご勘弁下さい…世間知らずの堅気の娘です。どうか、ご容赦下さい」
「いや、久々にストレートな意見が聞けて楽しかった。こんな立場になると、中々正直に物を言っては貰えんからな」
「申し訳ありません」
「お前、自分の事を何も話していないのか?」
「は?」
「彼女の事をどう扱うのか…よく考えて行動してやれ」
「…」
「ビルの改装にはしばらく掛かる…ここで、ゆっくり過ごすといい」
「…ありがとうございます」
悠然と去って行く森田さんに、俺と彼女は2人で頭を下げた。
森田さんが帰り2人きりになると、彼女は嬉しそうに俺の手を引いて部屋を探索し出した。
広いリビングスペースにはソファーセットの他に大きなダイニングテーブル、ピアノ迄置いてある。
独立した広いベッドルームに続くバスルーム、隣室には会議室まで併設されている。
一頻り探索をすると、彼女はホテルの案内書や本棚に置かれてある洋書を物色しだした。
『読めるの?』
『多分。英文科だし、住んでたし』
『帰国子女なの?どこの?』
『カナダで生まれた。8歳迄過ごしてた』
『お父さんの仕事で?』
『そう。輸入建材の会社にいた…らしい』
『俺も、しばらくアメリカに居たよ』
『知ってる。ハーバード・ビジネス・スクール出て、MBA持ってるって?』
『棗に聞いた?』
『そう。ニューヨークでバリバリ仕事してたって』
彼女が、少し醒めた眼差しを送って来る。
『勿体ない』
俺は、曖昧な笑みを彼女に返した。
『何でヤクザなんかしてるの?』
『色々あってね』
俺が打ち込んだ文字を見ると、彼女は携帯をテーブルに置き、それっきり手を出そうとはしなかった。
それでもソファーで身を寄せて座り、俺から離れ様とはしない。
『お腹空いてない?』
しばらくしてそう尋ねると、トロンとした顔で見上げて来る。
『眠いの?』
画面を見せるとコクンと頷いた。
『本当は、シャワー浴びたい』
『入る?』
『着替えないし、傷濡れたら不味いでしょ』
『傷は、ビニールで保護したら大丈夫。着替えは、バスローブ着ておけば?』
頷く彼女に、フロントにビニール袋とテープ、包帯等を依頼し、序にルームサービスで夕食をオーダーした。
『一緒に入って、洗って上げようか?』
と提案すると、ブンブンと頭を振って睨まれた。
シャワーから上がった彼女と夕食を摂った後も、彼女は俺の傍を離れない。
『ベッドで寝ていいよ?』
と書いて見せても、フルフルと頭を振って目を擦る。
チャイムの音に入口を開けると、棗が大量の荷物を担いで入って来た。
「当座必要そうな物を持って来た…どうだ、お嬢ちゃんの様子は?」
「駐車場で逃走したが、何とか落ち着いた…今は俺から離れ様としないんだ」
「あぁ…福助が言ってたが、耳が遣られちまってるから不安なんだと」
「それで…」
「セイヤ、俺は今日家に帰るがいいか?」
「森田さんの所でガードして貰ってるから大丈夫だが…何か起きたのか?」
「…俺、今日入籍したんだ」
「は?」
「嫁さん…貰ったんだ」
そう棗は、照れ臭そうに笑った。




