第1話
何なんだろう、この状況は…?
…一体、何故…?
何故、私は…こんな事になってるんだろう?
バイトが終わって、スーパーに寄って…。
いけない、もうこんな時間だ…早く帰って夕食の準備をしないと、皆帰って来てしまう!
あ…そうだ…クリーニング取りに行ってって、言われてたっけ…。
スーパーの袋を下げて帰り道を急いでいた私は、クリーニング屋に行こうと踵を返した途端、背後に居た人物にぶつかりそうになった。
「あ…済みません」
「……いゃ」
赤いアロハシャツに金のネックレス…いかにもって感じの男性は、そう言うと少し肩を引いた。
係わり合いたくない…そう思って隣をすり抜け様とする私に、頭の上から声が掛った。
「…桜井さん?」
「は?」
「…桜井…萌奈美さん…だよな?」
「…はい……どちら様…ですか?」
何となくわかる…というか、絶対ヤクザ!?
そんな人に声を掛けられる覚えは、まるっきりない。
…名前を聞かれて、つい正直に返事してしまったよね?
それって、非常にマズい状況なのでは!?
ここは逃げるしかない…そう思って、引き攣った笑顔のままジリジリと後退する。
「あ…いゃ…ちょっと頼みがあってな……これから俺達と一緒に…って、コラッ!!逃げるんじゃねぇっ!!」
後ろの叫び声を聞きながら、私は必死で駆け出した。
そんな事言って、止まったらどこかに連れて行かれそう!
ほら、叫びながら追って来るし!!
「待て、逃げんなっ!!絞めるぞっ、コラ〜ッ!!」
やっぱり、ヤクザだぁ〜!
そう思って死に物狂いで走ると、目の前に黒い車が道を遮る様に斜めに止まった。
…何なの!?
後部ドアが開くと、黒いスーツの男がスッと手を差し出した。
助けてくれるのだろうか…そう思って手を取ろうとすると、追って来た赤アロハの男が叫ぶ。
「わっ!!馬鹿っ!!乗るんじゃねぇ!?殺されっぞ!!」
その言葉にビクリと出した手を引っ込めると、チッという舌打ちと共にスーツの男が掴み掛かろうとする。
「コッチだ!!」
突然横から飛び出して来た若い男が、私の腕を掴むと横の路地に連れ込み、そのままグイグイと引いて走る。
息が上がって喘ぐと、男は近くにあった小さな公園に逃げ込み、木の影に私を匿ってくれた。
「…俺ッス…はい…大丈夫ッス……今…」
若い男が携帯で話す間喘いでいた私は、何とか息を整えると、ホッとして頭を下げた。
「…あ…ありがとう…ございます……助かりました」
「いゃ…マジ危なかったな、アンタ」
「そうだぞ!?今の状況で変な奴等なんかに捕まってみろ…殺されちまうぞ!!」
後ろから聞こえて来た声に顔が引き攣る…嘘…何で…。
「兄貴、大丈夫でしたか?」
「あぁ…何とかな…って、逃げんなっつってんだろ!!」
私は後ろ手に締められたまま、手足をバタつかせて正面の若い男を睨み付けた。
「酷いっ…仲間なのっ!?」
「いや…違わないけど…俺達は、アンタを…」
「離してっ!!警察呼ぶわよっ!!」
「だから、暴れんなっつってんだろうがっ!!」
「ヤダッ!!誰かぁ…」
「兄貴、マズいッスよ…これじゃ、誘拐みたいだ」
若い男が私の口を手で押さえると、赤アロハの男に伺いを立てる。
「まぁ…やる事は変わらねぇんだが……しゃあねぇな…」
赤アロハの男はそう言うと、私の頭の後ろで何かを取り出した。
パチリと音がして、ソレが首筋に当てられた途端、私はその硬質でヒヤリとした物が何かを理解し、息を呑んだ。
「大人しくしてくれ、桜井さん…俺達は、アンタを傷付けたくねぇんだ」
微かに頷くと、赤アロハの男が少し声音を抑えて言った。
「アンタには、このまま俺達と同行して貰う。言う事を聞けば、手荒な事はしねぇから…いいな?」
ピタリと押し付けられた刃物におののき、躰に震えが走る。
赤アロハの男は、細い紐状の物で私の手首を簡単に締め上げた。
首からナイフが外され、背中を押されて無理矢理歩かされる。
あんなに煩かった蝉の声が…茹だる様な暑さが…瞬時に別世界の事の様に思えた。
…何…この状況?
有り得ない……私…今、誘拐されようとしてる!?
こんな街中で…然もこんな時間に…小さな子供でもないのに…!?
視線だけを慌ただしくさ迷わせ、誰か助けてくれそうな人を探す。
そう、誰か…通報してくれるだけでいい…誰か…誰か…。
いつの間にか公園に横付けにされた車に押し込まれ様とした時、少し離れた大通りを横切る人影を見付けて、私は息を吸い込んだ。
「…!?」
思い切り叫んだつもりの声は、若い男が眉を寄せながら口に突っ込んだハンカチと共に消えた。
「全く…見掛けと大違いじゃねぇか!手の掛かるお嬢ちゃんだ!!」
ドンと背中を突かれて車に押し込まれると、ハンカチを啣えさせられたままの口をガムテープで貼られ、何か分からない物で目隠しをされた。
バタつかせた足は、押さえ込まれて固い紐状の物で縛られる…手の紐と同じ…この感触…縛る時の音…多分、結束バンドだ。
「太一、お嬢ちゃんの荷物、家に運んでやってくれ。序に誰か女の子連れて、洋服とか見繕って持って来てやれ」
チリンと鈴の音がする…アレは、家の鍵に付けたキーホルダーの音!?
「じゃあ、マキちゃんと一緒に行くッスよ」
「いゃ…ありゃ駄目だろ?花音がいいな…彼女なら安心だ。家の奴等に会ったら、ちゃんと言い訳しとけよ?」
「ウッス」
家の中に入るっていうの?
着替えって…私、どこに連れて行かれるの!?
バタンとドアの閉まる音、車のエンジンの掛かる音に、私はこれから我が身に起きる事を思い浮かべて、緊張と不安でガクガクと震えた。
息が苦しい…気持ちが悪い…車に酔ったのだろうか?
決して荒い運転ではないのだろうが、目隠しをされた事で車の振動やカーブで曲がる時等、予測のつかない揺れに私は翻弄された。
やがて車が止まり、ドアが開けられる気配と共に、いきなり躰ごと掴まれて担ぎ上げられた。
幾つかの部屋を通り抜け、人のざわめきや男達の挨拶の声がする。
突然ズドンと落とされると、何かに撥ね飛ばされて強かに躰を床に打ち付けた。
「コラッ!?手荒な事するんじゃねぇ!社長に殺されっぞ!?」
「へぇ、スンマセン」
赤アロハの男が、しゃがれた様な声の主を叱り付ける声がする。
でも、その2人だけじゃない…もっと大勢の人間の気配がする。
近付く足音に怯え、海老の様に躰をくねらせて何者かから逃げる。
ガタンガタンと躰のあちこちに当たるのは、家具が置いてあるという事なのだろう…左右から近付く足音に逃げる様に追い込まれ、背中にヒヤリとする壁が当たる。
嫌だ、嫌だ…誰も触らないで!!
それ以上は進めないのに、ガツンガツンと壁に頭を打ち付けて逃げ様ともがく。
その度に、幾つもの手が私に触れ、私は出せない声を張り上げて呻いた。
私なんか誘拐しても、一銭にもならないのに!
それとも、どこかに売り飛ばされる!?
でも、そんな美人じゃないし、チビだし、スタイルだって…胸だって、そんなに大きくないよ?
世間でいうところな並みだよ、並み!
何で、私?
それとも、何か…見ちゃいけない物でも目にして…消されるとか!?
必死で首を振り訴え様としても、口に突っ込まれたハンカチが唾液を吸うだけだった。
突然ドアの開く音に、部屋の空気が変わる。
慄然とする私に、ゆっくりと足音が近付いて来た。
「…可哀想に」
目の前に立った人物が呟いた。
しゃがみ込む様な衣擦れの音と共に、優しく抱き起こされて髪を撫でられる。
…何…誰!?
頭の後ろできつく縛られた物を解かれ、いきなり射し込んだ光に、私は目をしばたかせた。
「…可哀想に…怖かった?」
目の前に現れたイケメンに、私は怪訝な顔を向けた。
この人…知ってる顔だ…でも、誰だっけ?
「棗…手荒な事はするなと、言って置いた筈だが?」
「極力は…でしょう?怪我をさせない様に、最良の策だったんですよ」
「ごめんね…」
目の前の人はそう言いながら、慎重に私の口を塞いだガムテープを剥がしていく。
横分けの長いストレートのボブヘアーに、細いがキリリと引き締まった眉。
驚く程色の白い肌、スッと通った鼻筋に赤い唇。
全体的に優しげな造りの顔なのに、決して女顔じゃ無いのは、その鋭い切れ長の目なんだろうけど……こんなイケメン、何で覚えて無いんだろう?
歳は20代後半だろうか…濃いグレーの上等のシャツに、艶やかなサテンの黒いネクタイ。
オフホワイトのスーツ姿は、ヤクザか若しくはホスト以外に有り得ない。
「…出して」
ガムテープを剥がし終わった彼が、私の顎下に掌を広げ、自ら口を開けた。
口を開けたまま、強張った舌でハンカチを押し出そうと苦戦する私に、彼は細い指先でハンカチを摘まみ出し、横から厳つい男が差し出した灰皿に捨てた。
「苦しかった?」
そう言いながら、ポケットから慣れた手つきでバタフライナイフを出し、器用に操って刃を出した。
喉の奥で、声にならない叫びがヒュッと鳴った……殺される!?
いつの間にか治まっていた震えが再開し、投げ出していた足を思い切り身に引き寄せた。
彼は薄笑いを浮かべながら、私の足首に巻かれた結束バンドをナイフで切り、私の躰をフワリと抱き締めて、後ろ手に巻かれた結束バンドも切ってくれている様だった。
彼の躰から香る甘い様な煙草の薫りとは裏腹に、肩越しから見える厳つい強面の面々……やっぱり、この人もヤクザなんだ…そう思った途端、いつの間にか自由になっていた腕で、思い切り彼の肩を押した。
「……貴方…誰!?」
この人は、確かに私を知っている…それは、雰囲気でわかる。
棗と呼ばれた赤アロハの男も、私の名前を知っていた。
でも、私はどうしても思い出せないのだ…大学、町内、商店街…いや、こんな人は居なかった。
「…誰!?」
引き剥がされたその人は、一瞬ポカンとした顔で私を見詰め、やがてクックッと喉の奥で笑い出した。
「分からない?」
「……会った事はある…でも…」
「覚えて無いかぁ…そりゃあ、ショックだ」
愉しそうに笑う彼が憎らしい…私にしてみれば、そんな状況じゃないのだ。
「……何なの」
「え?」
「何なのよ!?一体何…私が何かした!?私、殺されるの!?それとも、どこかに売り飛ばされるの!?」
「おぃおぃ…落ち着けって」
「何なのよ!!私を誘拐しても、お金なんて無いのよ!?ウチ両親共死んじゃって、叔母さんの家族だって…そんなに裕福じゃないもん!大学だって、奨学金でカツカツで……やっぱり、殺される!?」
「だから、落ち着け…誰も殺さないから」
「嫌だっ…嫌だ…嫌だ嫌だぁ…」
思いのままに叫び、暴れる私を両手で封じ込めていた彼が、溜め息混じりに『ごめんね』と繰り返した。
そして…胸の内ポケットから何かを取り出した気配がしたのだ。
今度は…拳銃!?
私…殺されるんだ…。
ヤクザに対して、言いたい放題言っちゃったから?
何で殺されなきゃならないのか、さっぱりわかんない…。
謝る位なら、殺さないで逃がしてよ…。
まだ、19なのに…。
これから、大学だってもっと色々楽しい事いっぱいあるかも知れないのに…。
まだ、恋だってした事無いんだよ?
恋人作って、ラブラブになって…。
就職だって…結婚だって…。
「大丈夫?」
「…」
「…萌奈美ちゃん?」
「…」
「19なんだ」
「…うん」
「大学、楽しい?」
「…うん」
「アルバイトも…楽しい?」
「…うん」
「…恋した事…無いんだ」
「…うん…無い」
「…恋人…欲しい?」
「…うん」
「ラブラブになりたいんだね…」
「…うん」
「…恋…しよっか?」
「…」
「…俺と……恋…する?」
「…ぇ?」
「コッチ向いて、萌奈美ちゃん」
「…」
「顔、上げてよ」
「…」
「俺の顔、ちゃんと見て」
「…」
いつの間にか抱き締められて、背中を優しく撫でられながら、この状況を理解出来ずにいた。
大体、何で『萌奈美ちゃん』なんて親しげに呼ばれてるのか、頭の中で考えてる事が全てわかるのか?
フゥと頭の上で溜め息を吐くと、彼は聞き慣れた言葉を吐いた。
「…今日のオススメのブレンド、何?」
「…え?」
見上げた顔に見覚えがあった。
黒縁のダサ眼鏡と、ひっつめたカチューシャ頭…。
「…嘘…お客さん?」