生きるための考察と、よりよく死ねるための準備と
思ったことをそのまま書いてみました
(ゝω・)v
ほんとはもっと書きたかったですが、長く書いたところで内容が薄くなるだけで結果は変わりません。
ですので、この長さで終了とさせて頂きます。
生きる。ということを考えていたら頭が痛くなったが、この頭痛こそが生きてる証ではないだろうか。いや、それは違う。痛みは痛みであって、シグナルでしかない。つまりそれは反射だ。身体の反射を生きるというのなら、死後硬直だって反応の一種なのだからある意味で死んだ後も生きているということになってしまう。よってこの案は却下。
生きる。とは何だろうか。恋をすることだろうか。しかしそうなったら、もし世界が自分一人になってしまった時、私は生きるということを自動的に終了させられることになる。しかし、私はその後も生存し続けるだろう。生存と生きるは同義ではないが、相似ではある。つまり、私は『恋』という他者を必要とする行為がなくても生きていけるということだ。よってこれも違う。
では逆に、死ぬとはなんだろうか。死ぬというのは身体が生命活動を終了することである。しかし、それのみが死ぬということではないだろう。例えば、無趣味無職で家族もおらず街を徘徊していたら、それは死んでいるということにならないだろうか? それとも、せそれは死んだように生きている状態なだけであって死んだというくくりには入らないのだろうか。
分からない。死ぬも生きるもよく分からない。結局のところ、人というのは死ぬために生まれてくるのだろうか。だが、それではちと寂しくないだろうか。だから私はこう思いたい。『人は、よりよく死ぬために生まれるのだ』と。どうせ死ぬことが決まっているのなら、より良い状態で死んだ方が楽しいし嬉しいじゃないか。私はそう思う。
では、と私は思う。今の私はよりよく死ねるための準備をしているだろうか? やるべきことを怠ってはいないだろうか? これもわからない。
わからないことだらけだ。だが、それを考えるのも人生の楽しみの一環だろう。
そういえば、人生というのは人が生きると書いて人生と読む。そして私は今、人生について書いた。
なるほど。私はちゃんと生きているじゃないか。そして、思考することによってよりよく死ねるための準備をしているじゃないか。
病気か事故か他の原因か知らないけど、私はいつか死ぬ。
どうか最期の時には、笑顔で死ねるよう準備をしていたいものだ。




