終幕
寒い、とても寒い。
まるで冬が、最後の力を振り絞ったような寒さだ。
僕は白い吐息を忌々しげに見やりつつ、筆を進める。
二月。それは終わりの季節。
山はもの悲しさを訴えるくすんだ茶色に染まり、生命の息吹を感じることができない。時折吹く風が、がさがさと朽ちた枝同士を傷つけ合わせている。
空は澄んだ湖を思わせる静謐さで、僕達を静かに見下ろしている。見上げるだけで、凍りつきそうな恐怖を感じるのは僕だけだろうか。
学内はひっそりとしており、春ほどの賑わいはない。通りがかる誰も彼もがマフラーを厚く巻き、顔を隠すようにして歩いている。完全な静寂とはいかないまでも、どこかしら静寂を重んじる空気である。もしかしたらこれが、嵐の前の静けさ、というやつなのかもしれない。
あれほどいた猫達も、今は姿を見ることはない。どこか暖かい場所でじっとしているのだろう。
僕は視線をキャンパスからはずし、変わらず向けられる好機の視線に、凍りついた愛想を返しつつ朴訥とした校舎を描いてゆく、学内の雰囲気と合わさって、まるで協会を描いているようだ。
最近気づいたのだが、好機の視線の中にたまに憧憬が混じる。せっかちな教授を持ったお陰で、いち早く春休みに突入した僕達を羨んでいるのだろう。なにせ今は試験期間、本来なら部活動などせず勉強に勤しむ時期である。
僕は寒さを堪えつつ腕を動かす。思っていたより濃い灰色に、失敗の予感を覚える。
ぴちゃ、と絵の具を乗せる音が、雨路の足跡のような気がして、どんどん景色が見えなくなっていく。
僕は一度筆を下ろし、紙パレットを破り捨てた。もう一度、はじめから色を作ろう。
絵の具を手に取り、大体の分量を決めると、真っ白な面をさらす紙パレットに絵の具をたらす。そうして色をつくっていると、腕が震えていることに気づいた。
指がかじかむ。足が痺れる。頬がこわばる。
どうやら、思っていた以上に体が冷えているようだ。
「なあ、今って春休みだよな」
僕は、なにか喋らないと口が凍ってしまうような気がして、思わず隣に座るポニーに話しかけていた。
「ああ、この気温で春休みだとよ、なかなか皮肉が利いているじゃあないか」
まったくだ、と返し震えのとまった腕で、絵の具を混ぜていく。
そういえばここは大学の中心を走る道路の脇、寒風の通り道だ。もっと暖かい場所で描けばよかった、と今更の後悔をする。
「まっしー」
唐突に、ポニーが話しかけてきた。
絵の具を今まさに乗せようとしていた僕は、少し驚いて、危うく変なところに絵の具を着けるところだった。
「何だポニー、今大事なところなんだが」
僕は話しながらも腕を動かし始めた。
また、思っていたより濃い。全然良い色がでないな。
「指先がかじかんで来たんだ。今日はこのくらいにしないか?」
ポニーからこの提案がくるのは珍しい。こいつは僕が終わりを言い出さないと、日が落ちて景色が見えなくなるまで、ずっと描き続ける性質だからだ。
どうやらポニーはそうとう寒かったようで、歯をがちがちと鳴らしている。
確かに、絵の具のべったりついた研究衣は暖かいとはいえ、手袋もマフラーもつけることが出来ないのはやはりつらい。僕も良い色がでなくて少々苛ついていたので、この提案はありがたかった。
「そうだな、今日はこれくらいにして帰るか」
ポニーはおう、と返事をするといそいそと片付け始めた。僕も絵画セットを片付けつつ、あまりに寒そうにするポニーを不思議に思っていた。
ポニーと僕の家の方向は同じだ。だから必然的に一緒に帰ることが多い。今日もその例に漏れず、一緒に帰ることになった。
すっかり暗くなった道を歩く。
気温はさらに下がり、手袋とマフラーを完備しても暖かくなった気がしない。風が吹くたびに足を止め、身震いするほどだ。
街灯は冬の夜を打ち破るには弱く、ただ一点を照らす役割しか果たさない。
月や星は見えず、そのことから曇っていることが予想できる。このまま降らなければ良いが。
真っ暗な道を歩く。時折見える商店と街灯の明かりを目印に進んでいると、道などないように思えてくるから不思議だ。
隣を見ると、相変わらずがちがちと歯の根の合わないポニーが、自慢の後ろ髪を凍りつかせながら歩いている。どうやら洗濯物が乾かなかったらしく、秋物でなんとか今日一日を過ごしていたらしい。通りで寒がるわけだ。
さらにポニーは手袋とマフラーをつけていない。こんな寒い日によくもこれで耐えられる物である。そういえばポニーが手袋やマフラーをつけているところを僕は見たことがない。もしかして持っていないのだろうか。
しばらく進むと、白いものがふわふわと、まるで僕を誘うように、目の前を落ちていった。
僕ははっとして、あわててその先を目で追いかけた。白い物体は地面に落ちると、すぅっと、その姿を消した。
僕は我に返り、今落ちてきたものが雪であると今更ながらに、認識した。
僕は空を見上げ、小さくて白い、まるでケサランパサランのような雪を見つめる。それは次第に数を増やし、祝福するように僕らを包むベールとなった。
「おそらく今年最後の雪だな」
ポニーの少しくぐもった声が聞こえた。どうやらあまりに寒くて口も回らないようだ。
微かな足音と、ポニーの歯を打ち鳴らす音。たったそれだけの音しかしないこの町は、妖怪や精霊が住んでいると言われても、否定しづらい雰囲気がある。
「ケサランパサラン・・・」
僕は思わず呟いていた。
「お前はまだそのこと気にしてたのか」
ポニーの震える声が、意外とも、驚きともとれる響きを伴って、聞こえる。
僕は今期を振り返り、ケサランパサランがいなくなった後のことを思い返した。どう考えても、半年前とは比べ物にならないくらい憂鬱な日々だった。
「当たり前だ。ケサランパサランが居ないせいで、今期は単位を二つも落とすし、バイト先の生徒も、話を聞いてくれなくなった。なにより絵の具の乗りが悪いのが一番きついね」
また春がくれば、ケサランパサランが見つかると信じて、この半年間耐えてきた。しかし、見つかるわけがないこともわかっている。
僕は、もう幸せにはなれないのだろうか、と絶望的な気分になる。
この雪が、最後に会いに来たケサランパサランのかけら達だと、今の僕にはそう思えてならない。いや、そう・・・願っているに過ぎない。
「この雪が全てケサランパサランだったら、こんなに不幸にならなかったのに」
僕は、嘆きながら祈った。
ふと隣を見ると、ポニーは寒さで全身を震わせながら、諦念を存分に込めた声で、呟いた。
「お前は、幸せだな」
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
この物語はこれで終幕となります。いかがでしたでしょうか?
ご意見、ご感想をいただければ作者はとても喜びます。
この作品について
戯言にある
不幸を語る名もない絵描きはまっしー。
幸福を語る名もない論者はポニー。
幸せを運ぶ純白の妖精はケサランパサラン。
というイメージで書き進めました。
特に意識したのはまっしーの性格で、なるべくむかつくように書きました。
次は、長編を書こうと画策しています。