第5幕
ケサランパサランが居なくなった。
それはとても唐突で、予想外で、ありえないことだった。
実家からこちらに戻るための電車の中。電車の定期的な振動に眠気を誘われて、つい眠ってしまった後。
目を覚ますと、桐の箱をいれたはずの手提げ袋がなくなっていることに気づいた。
原因がわからない。
どうして、なぜ、こんなことはありえない、許されない。
焦燥感が煽られる、恐怖が芽吹く、絶望が根を張る、未来に夜の帳が落ちる。
乗り換え前の電車に置き忘れたのか、寝ている間に盗まれたのか、それとも・・・逃げ出したのか。
もちろん全力で探した。
電車内の忘れ物を各駅で確認した。
電車内の人をすべて見回して、それらしい袋がないか探した。
実家に電話をかけ、置き忘れていないことも確認した。
でも、見つからなかった。
探す手段が潰える。見つかる可能性が消える。幸せが・・・見えなくなる。
そして、ケサランパサランが見つからないまま、夏休みは終わってしまった。
緑一色だった山々はその様相を変え、赤と紅と黄に移り変わっている。それはまるで、生まれてから今までの、そのなにもかもを捨て去り、新たな生活を始める、駆け落ちのカップルの姿のようだ。
道路には赤々と紅葉したもみじが散らばり、花梨のように黄色いイチョウが、ところどころにアクセントを加えている。
夏にしては寒く、冬にしては暖かい、そんな合間の季節。
乾燥した風が薄ら寒く、日光が暖かい。空は高く、どこか物悲しげな色をしている。
そんな悲しみを湛えたような空気に、僕は深く同調していた。
秋風が僕を馬鹿にするように通り過ぎる。
役目を終えた木の葉たちが、ガサガサと、僕の心境のような音を立てて風に舞う。
ベンチに居座る猫が嘲るように僕を見た。
後期。講義が全て変わり、新しい年を迎えたような新鮮さが漂う新しい学期を、僕はただ憂鬱な気分で迎えていた。
僕は部室への道を重たい足を持ち上げながら進む。今日は特に講義もないので、一日中絵を描いて過ごすつもりだ。絵を描いていれば、この泥濘のような気分も、幾分かはまぎれるかもしれない。
周囲には人波ができ、夏休みの思い出を自慢げに話すカップルや、来年の計画を話し合う集団などが雑多な足音とともに流れていく。
人の声が、足音が、なぜか妙に心をかき乱す。僕はそれらの雑音をすべて意識から排除し、黙々と歩き続ける。
ポニーは同じ講義を取っているはずだから、今日は全休のはず。だとしたらあいつも一日中絵を描くつもりだろう。ちょうど良いので公園にでも誘ってケサランパサランのことを、相談しよう。
そんな風に考えていると、ちょうど前から当の本人がやって来た。手に手に絵の具や画用紙、画板、筆記用具などを持ち、写生する気満々である。
「おぅいポニー」
僕が声をかけると、ポニーは初めてこちらに気づいたようで、びくっと顔をこちらに向けた後、いつもの飄々とした顔に戻った。
「なんだ、まっしーか」
「おう、で、写生するなら公園でやろうぜ」
「まあ、まだ特に目的なかったから良いか、わかった、なら先に行っとくぞ」
了解と返し、僕は急いで画材を取りにいった。
二人並んでずいぶんと派手になった山々を描く。
赤より紅い葉。
青より蒼い空。
黒より暗い影。
写実的な風景画を描いていたはずなのに、なぜか異常に映える色ばかり。まるでアニメのような絵になってしまった。
僕は肩を落とし、手を止める。
まるで描ける気がしない。思った色が全然でないし、塗りもてきとうすぎる。なにより集中できていない。
隣を見ると、相変わらずのポニーテールを揺らし、一心不乱に絵の具を乗せる男の姿。
ぴちゃと絵の具を筆に絡め、すぅっと半円を描く。腕を動かすたびに情景が浮かび上がってくる。
相変わらず、こいつの技量はすごい、美術部の中でも頭一つ抜けている。たしか水彩画はほとんどやったことない、とか言ってなかったか。
僕は昔から水彩を主にやってきている。それでも、こいつの絵には目を奪われる。なぜか、妙な対抗心が湧き上がってきた。
僕は前に向き直り、画板から描きかけの絵をはずした。
これはもう駄目だ、新しく描きなおそう。僕は今集中力が足りていない。もっと集中して、空間を見るように、連なる山々の一張羅を描く。
そうしてどのくらいの時間が経ったのだろう。
カラスが夕暮れ時を知らせに鳴き始める。
僕は動かし続けていた腕を止め、時間を確認する。午後六時、もうそろそろ切り上げよう。
見上げると、炎のような赤に染まった空を、秋茜が飛び回っている。それらは赤く紅葉したもみじ達と相まって、世界が燃えているような錯覚を引き起こす。
そんな焦熱の世界の中感じるのは、肌を撫でるような冷たい空気。
視覚の炎と触覚の冷気、それらは冷たい炎となって僕らを惑わせる。
隣を見ると、ポニーも手を止め、この不思議な景色に見入っていた。
「そろそろ切り上げるか、こう赤くなっちゃあ別の絵になる」
ポニーはおう、と言うと絵の具を片付け始めた。
僕も道具を片付ける。絵の具を片付け、パレットを公園備え付けの水道で洗う。画板からさっきまで描いていた絵をはずし、たたむ。集中して描いていたはずだが、やはりぱっとしない。これもまた、描き直しだ。
そういえばポニーをここに誘ったのは、絵を描く為だけではなかった。絵に集中しすぎて失念していたようだ。
「なあ」
「ん?」
ポニーはほとんど片付け終わり、後は運ぶだけという状態になっていた。あいかわらず手早い。
「夏休みにな、ケサランパサラン居なくなった」
「・・・そうか」
ポニーはぴたっと動きを止め、こちらを見つめると感情の見えない声で答えた。
これは、先を促しているのか?
「ああ、お陰で調子は最悪、このままずっと不幸なんじゃないかと思う」
「・・・」
ポニーは、何も言わなかった。
がっちゃがっちゃと、それぞれの絵画道具を持ちながら部室への道を歩く。人波と呼べる程の人は居なくなり、乾燥した空気のせいか、皆あまり口を開かない。
少し前まであんなに鮮烈に煌いていた空は、その面影もないほどに陰り、憂いを帯びた上弦の月が、侘しげに明かりをこぼしている。
風は肌寒いからはっきり寒い、と言えるほどまで冷やされ、冬の影をちらつかせている。
昼間はベンチで寝転がっていた猫も、さすがに寒いのか、枯葉が多く積もった木の根元に場所を移していた。
「そういえばお前が実家に帰る日、霊夢を見たよ」
ポニーが唐突にそんなことを言ってきた。
霊夢?またなにやら僕の知らない単語が出てきた。ポニーはなぜか変な知識が多く、たまによくわからないことを言ってくる。
「霊夢?」
「神様や仏様からのお告げが与えられる夢のことだよ」
またこいつは突飛なことを言い始めた、神様や仏様からのお告げって、たしかイエス・キリストが神の使いの言葉を聞いた、とかいうあれのことか、前受けた宗教学で教授がそんなこと言っていた気がする。
ポニーは、哀れむような、後悔するような声で、淡々と言葉を紡ぐ。まるで独白のようで、ため息のような声だった。
「あれは多分、お前に伝えろって意味だったんだろうな。」
はぁ、という生返事しか返すことが出来なかった。