幕間
「明日から実家に帰るんだ」
電話口から弾むような声が聞こえてくる。
俺は外で乾かしていた洗濯物と洗濯板を取り入れながら応答する。
「ケサランパサランはどうするんだ?」
「もちろん持って帰る。もうこいつなしの生活はありえないからな」
洗濯物はすっかり夜気を帯びている。ようするに、湿っている。
俺はあまりに予想通りの結果に悪態を吐きたくなった。とりあえず、ひ弱なカーテンレールに干しなおすことにする。
「さいですか、旅行鞄の中で箱を潰さないようにな」
「その辺は大丈夫、別に手提げ袋用意してるからそっちに入れる。」
洗濯物がカーテンをふさぐように広がる。これでは僅かな月明かりすら届かない。
湿気が一気に上がった気がする。やはり部屋干しは好きになれない。
「せいぜい電車内に置き忘れないようにな。」
「忘れるかよ、じゃあ明日早いから切るな、夜分遅くすまんかった」
無音が走り抜ける。
最近の携帯電話は高性能すぎるのか、切れた後にツーツーという音がない。それが寂しく感じられるのは俺だけだろうか。
「夜分遅く云々は電話の始めだろう」
俺はそうぼやくと、髪を纏めていたゴムをはずす。
綺麗に馬の尾のように流れていた髪は、バサッと無造作にばらけ、顔全体を覆うように広がった。・・・なんとなく、髪を下ろした時の自分は落ち武者に見える気がする。
たまに切りに行こうか、と思うこともあるが、切るのにわりとお金がかかるし、自分で切ると間違いなく失敗する。そう思ってずっと放置していたら、こんなに長くなってしまった。まあ、気に入っているから良いけど。
俺はうっとうしい前髪を脇に寄せつつ、布団に座る。
予想外にバイトが長引いたため、夕飯も食べることが出来なかった。今から食べようにも食欲がわかない。まあ、明日の朝食べれば結果は一緒か、どうせ今日はもう、眠るだけだ。
シャワーはバイト先で浴びてきたし、これでもういつ寝ても大丈夫のはず。
机の上の時計を見る。暗闇でも微かに針が光って、健気に時間を教えてくれた。現在午前0時、寝るには少し早いかなと思い直す、というより目が冴えて眠れない。
俺は立ち上がって電気をつけ、部屋を見渡す。
六畳一間、トイレ風呂キッチン共同で、窓を開ければ物干し竿が頭上を走っている。
布団一式、ダンボールに入った服が各季節二着づつ。部屋の真ん中には拾ってきた机に、先輩からもらった大学の教本が積み重ねてある。その脇には小さな目覚まし時計。それら以外は、何もない。
殺風景、といえばそうなのだろう。でも必要なものは揃っているし、特に不自由もしていない。
でも、こういうときは何もすることがなくて困る。せめて絵の具と紙さえあれば、手が寂しいこともないのだろうが。
美術道具は全て部室に置いてある。部室には絵の具や絵筆、画用紙やキャンバス。彫刻用の小刀に鋸、鉋、ドリル等等。こと美術に必要なものは一通り揃っていて、部員ならばいつでも使用することが出来る。
便利といえば便利だ。でも、やはり美術好きとしては、自分のアトリエを夢見るものだ。
今月の残高と貯金を頭の中で数える。自分用の絵画セットを買うには、まだ足りない。
俺は今月のバイトのシフト表を引っ張り出した。
とりあえず今月はあと二百二十時間程バイト入る予定だから、そこから食費、家賃、学費、雑費を差し引いて・・・まだまだ遠いな、バイト増やすか、とりあえず明日辺り先輩に相談してみよう。
シフト表を片付けていると、虚脱感とともにあくびが出た。時計を見ると三十分ほど進んでいる。そろそろ寝ることにしよう。
俺は電気を消し、布団に寝そべる。
リ・・リイィー・・・リ・・ィ
寂しげな鈴虫の鳴き声がよく聞こえる。激安で、他に誰も住んでいないこのアパートは、学校から自転車で三十分、一番近いコンビニまで20分という辺鄙な場所にあるため、夜はとても静かだ。
ゆっくりとまぶたを落とす。
ふと、数日前の会話を思い出す。
「俺は今でも十分幸せだ」と言う俺。
「僕はケサランパサランを飼い続ける限り、この先もずっと幸せさ」と豪語する友人。
俺はあのとき一つの質問を飲み込んだ。
「ケサランパサランが居なくなったらどうなのか」という質問を。
なぜならそれはあいつにとって、ありえない日常であり、今日とは違う明日であり、見ることの出来ない夢だからだ。
答えの帰ってこない質問に意味はない。
それに、他人にとっての幸せにも意味はない。
つまり、自分が幸せだと思えばそれは間違いなく幸せで、自分が不幸だと思っていればそれは間違いなく不幸である。
少なくとも俺は、そう思う。
意識がまどろんでいく。
思考の海に沈みながら感情の川を流れる。
理性の森で記憶の絹糸が絡まる。
懐かしい声がする。
「被害者面は醜いぞ」
不幸だと言った俺に返された言葉。
相反する考えが矛盾する。
集合する理性を攪拌する。
あれは誰だったろうか。
雑多なようで機能的。
殺伐としていて凄然。
倣岸でいて冷静。
奔放な打算。
あぁ、親父か。
俺は眠りについた。