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第3幕

 「本日の最高気温は三十六度、外に出る方は日射病や熱中症に・・・」

テレビではニュースキャスターが、はにかむような笑顔で、残酷なことを教えてくれる。

僕はテレビをつけたことに軽く後悔しながらリモコンを置き、汗だくの寝巻きを脱ぎ飛ばして、生地の薄いTシャツとジーパンに着替えた。

東側にある窓から、太陽が夏を強調するように部屋を照らし出す。まだ七時だというのにこの暑さはなんだろう。

目覚ましは7時半に設定しているが、あまりの暑さに目が覚め、二度寝する気分にもなれない。

一応この部屋にもクーラーはあるが、電気代節約のために、めったに着けないことにしている。

蝉の微かにくぐもった鳴き声が、窓や壁を突き抜けて聞こえてくる。壁が薄すぎるのか、蝉の声が大きすぎるのか、はたまたその両方か、どちらにしても歓迎すべきことではない。

夜のうちにこもってしまった空気を入れ替えるために、カーテンを引き、窓を全快に開ける。

外の空気が一気に中に流れ込んできた。

一瞬涼しく感じたが、突然大きくなった蝉の鳴き声のせいで余計に暑くなった気がする。

僕は気だるげな身体を動かし、キッチンに向かい、そこで歯を磨き顔を洗う。

ぬるま湯のような水道水が僕の気力をうばっていく。

冷蔵庫の上に置いていた食パンの一つを手に取り、バターをぬると、口に押し込んだ。

夏バテぎみの胃はすぐに限界を訴えるが、むりやり押し込む。するとたださえからからの喉が水分を要求してきた。

僕は冷蔵庫からペットボトルに入れておいた水道水を取り出し、一気にあおぐ。

こくと喉を鳴らすたびに、二リットルのペットボトルの中身はぐんぐん減っていく。

僕は冷たい水が喉が潤す感触にしばし浸る。しばらくそうしていると、お腹の中が少しづつ冷たくなってきた。

ペットボトルから口を離すと、丁度半分くらいまで減っていた。残った水を全て捨てて新たに水を入れ、冷蔵庫に戻す。こうしないと水がすぐに腐ってしまう。

ふと冷蔵庫の上に目を向けると、あまった食パンに何か、緑色の粉のようなものが付着しているのに気がついた。

僕はさぁ、と顔を青くする。一瞬腹痛を感じたような気がした。

とりあえず、あまった食パンを袋ごと雑巾を絞るようにしてつぶし、ごみ箱の中に叩き込んだ。ぼすっ、という音とともに食べ物だったものは、他のごみの中に沈んだ。

僕は食中毒を起こしませんようにと祈りながら、大学に行く仕度を始める。

机の上に広げていた専門書とノートまとめて鞄に突っ込み、その横に置いていた筆箱は中身を確認して、これまた突っ込む。

今日は夏休み前の最後の試験である。本来試験期間は4日後までだが、教授がめんどくさがったのか、前へ前へ試験がずれてしまい、他の学科より早く終わることになった。試験さえ終われば講義はなくなるので、夏休みが他の学科より早く来る。なかなかラッキーだ。

上着をはおり時計を見る七時四十分、家を出るには早すぎるが、部室で時間をつぶせば良いかと思い、玄関に向かう。

「いってきます」

もちろん返事はない。

しかし、四ヵ月前までは誰に向けて言っているのか、自分でも分からなかったが、今はきちんと挨拶を向ける相手がいる。

返事もしない、動きもしない、そもそも生きているのかさえ怪しいが、その幸せを呼ぶ白い妖怪は、たしかにここに住んでいるのだ。

玄関扉を開け外に出る。その途端むっと熱気が身体にまとわり付いてきた。まるでサウナだ、鍵を閉める頃には汗が出始めていた。

僕は家を出て大学への道を歩き出した。

空に居座る太陽だけでなく、その熱を吸収した道路までもが、焼けるほどの熱を放っている。道路には陽炎が立ち、目に映るものの、そのことごとくを歪ませていた。

遠く見える山には春の名残などなく、若々しく淡い木々たちが、確かな成長を遂げているのが分かる。

街路樹に集まった蝉達の斉唱はますます高まり、昼ごろには合唱になっていることだろう。やかましくも愛おしい、夏の風物詩だ。

僕はとめどなく出てくる汗を手の甲でぬぐい、揺れる陽炎の先をまっすぐに歩き続けた。



「お疲れ様です」

滝のような汗を流しながら部室に入る。

その瞬間、巨大な動物になめられるような熱気が僕を包み込んだ。べっとりとして、とても気持ちが悪い。

「お疲れーって・・・珍しいな」

後ろで一つにまとめた自慢の髪の毛を、わさわさと動かしながらポニーが振り返る。

「あれ、ポニーだけか」

「ああ、こんなに早く来るやつなんてそうそういないだろ」

ポニーは前髪を振り払いながら言った。どうやら汗で前髪が顔中に張り付くらしく、うっとうしげにいじっている。

僕は辺りを見回した、窓はちゃんと全て開いている、これでもまだ熱気はたまるのかとこの美術部の構造をうらんだ。まあ、元はただのプレハブ小屋なのだから、仕方がないのだが。

実はこのプレハブ小屋、もとは大学の建築系の資材置き場として使っていたらしいが、何年か前、美術部の部室として勝ち取った、という話を先輩から聞いたことがある。

その頃は部室がない部活が多く、奪い合いになったそうだ、そこで当時の部長達がトランプで勝負して、見事美術部の部室となったというわけだ。試験前に開いた美術展に来ていたOBの方が、あそこで4カードを出した部長は英雄だったと、笑いあっていた。

この部室にはクーラーなどという気の利いたものはなく、唯一暑さを凌げるものは年代物の扇風機だけだ。

僕は靴を脱いで上がり、がたがたと不吉なほど揺れながら回っている扇風機を、自分のほうに向けた。これも何年か前の卒業生が置いていったものらしい。

「あ、こら人がせっかく涼んでるのにとるんじゃあない」

「うるさい、せめて発汗量がお前と同じくらいになるまでは貸せ、床が汗でべちょべちょになるのはお前も嫌だろ」

ポニーはむぅとうなり、あきらめたように鞄からうちわを取り出して、扇ぎだした。

僕は服をばたばたとやりながら汗が引くのを待つ。扇風機が送る風は生ぬるく、全身に毛布を巻きつけられたような気持ちになるが、ないよりはましだ。

僕らはしばらくそうして涼んでいた。

ぱたぱた・・・

がたがた・・・

・・ぱたぱた・・

がた・・・がたたっ・・・

・・・涼しくなる気がしない。

「・・・なあ」

僕はぼーっとしたような声音で、すっかりしなびた髪の毛に話しかけた。

「・・・んぅー」

ポニーもだれるような、こちらの方まで力がぬけるような声で返事をする。もうへばりつく髪の毛もどうでも良いみたいだ。

「試験終わったら・・・風鈴買いに行こうぜ」

「あぁ賛成、せめて気分だけは涼しくしたいよな」

そうして僕らは、試験が始まるまでそこでうだらうだらと過ごしていた。


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