第2幕
僕は暮れかけの夕日を背に玄関扉をくぐる。
「ただいま」
返事は返ってこない。当然だ、今僕は一人暮らしだし彼女もいない。それでもつい口にでてしまうのは習慣か、淡い期待ゆえか。
水彩絵の具でずいぶんと鮮やかになった靴を脱ぎ、中へ入る。
この借家八畳一間、キッチンは玄関から部屋を繋ぐ通路にあり、トイレと風呂は共同で家賃は月三万六千円。広いという理由だけで選んだため、学校からはそこそこ遠く、徒歩で30分程度の場所にある。
この借家は住宅街にある為、子供や暇な大学生が騒いだりする時はうるさい。
しかし今はそんなことはなく、微かに聞こえてくるのは、掃除機をかけたり洗濯物を取り入れたりする生活の音だけだ。
僕は鞄をベッドの上に放り投げ、窓を開ける。
そこから見える景色は、ほとんどが塗りつぶされたような茜色に染まり、雑多な住宅街に奇妙な統一感を与えている。
窓が東側にある為眼下にだけは影が広がり、墨を垂らしたように茜色の町を侵食していく。
それはまるで、この影が夜を呼び寄せているようだ。
窓を開けた体勢のまま、ぼーっと外を見続ける。
夜が増えていく。
今感じているのは安心か不安か。
眩しいばかりの茜色が徐々にくすんでいく。
明日が来るのを楽しみに待っているのか。
今日が終わるのを悲しんでいるのか。
とうとう世界は、透き通るような黒一色に染まった。
夕方に帰ってきたときは、よくこの変化を見届ける。
急に世界の色が変わるのが、今日とは違う明日を期待させるからかもしれない。
もしくは、今日と言う日を永遠に望んでいるからかもしれない。
我ながら感傷的なことをしていると思う。
ふわっカーテンがなびき、風が部屋の中に入ってきた。微かに身震いする。五月になったとはいえ、夜はまだ冷えそうだ。
僕は窓とカーテンを閉め、電気をつけた。
ぱちっという小さく弾けるような音とともに、人口の太陽が目を覚ます。
ぐるっと部屋を見回すとため息をつきたくなる。
机の上は弁当のトレーでできた丘ができ、足元には服が芝生のように広がっている。
部屋の隅には鮮やか過ぎる作業着が山となり、本棚には参考書と絵の具が踊っている。
わかっていたことだが、どうやら僕はあまり整理整頓というものが得意ではないらしい。一~二週間に一回は掃除をするのだが、気づいたときにはこの有様である。
明日一気に掃除をしよう、たしか講義はなかったはず。そのあとは部室に行って絵の続きでも描くか。
僕は明日の予定を決めると、ベッドの下から桐の箱を取り出す。上部には鉛筆の先くらいの穴が何箇所か空けてあり、微かにおしろいの匂いがする。小さな穴からちらちらと真白い光沢を放つ何かが見える。
自然と笑みがこぼれる。
この箱を持っているときはとても安心する。
今日も良い一日だった、絵の具でとても良い色が出たし、体調も良い。きっとこの小さな妖怪のお陰だ。飼い始めの頃は一月くらいで捨てるつもりだったけど、このままずっと飼い続けよう。
僕は箱と一緒に置いてあったおしろいとスプーンを取り出す。
ポニーの話によると、あまりこの箱を開けてはいけないらしい。
僕はおしろいをスプーンで軽くすくい、小さな穴から落とすように、とんとんと箱の中にいれた。
強く願う。
この先もずっと。
しあわせでありますようにと。
箱の中の白いなにかが微かに動いた気がした。
この幸福の妖怪さえいれば、明日もきっと良い日のはずだ。
僕はそう願い続けた。