第1幕
ケサランパサランを飼い始めた。
僕は部室に入るなり、その話題を持ち出した。
ある人は笑い、ある人は珍しがり、ある人は羨ましがった。
ネタとしては上々、なにか幸運が来たら報告してくれという、からかい半分冷やかし半分の激励を受け、僕はとりあえず一月は飼うことに決めた。
前期が始まって2週間。
一週間前に降った雨によって、あれだけきらびやかに着飾っていた桜は散り、シックな葉桜に装いを変えていた。
気温はそれほど変わってはいないが、風が弱くなった分暖かく感じる。
僕とポニーは、今日も公園で絵を描いている。6月に開く展覧会のための絵だ。
僕は風景の水彩画、ポニーは風景の油彩画を描くことにしている。
展覧会といっても美術部が個人的に開くもので、見に来る人はそれほど多くはない。
少し傾けた鉛筆で線を描く。
シュッシュッという音とともに草花が浮き出てくる。
公園の片隅にある蓮華草をベースにして、その後ろにたなびく柳と山々、それと連なるベンチを端の方に描くという構図だ。
今まで似たような構図で四枚ほど下書きを描いたが、どれもうまくいかなかった。
五枚目の今回、ようやく納得のできる下書きができそうだ。
さぁ・・ぁ・と蓮華草が微かな風の音を伝えてくる。柳はざあぁ・・ざわあぁ・と少し過剰に反応する。
空には雲はなく透明にも見える水色は、太陽の恩恵を余すことなく地表に伝えている。
鉛筆を置き、少し遠ざけて絵を見てみる。
うん、大体よし。後は絵の具を塗って仕上げだな。
僕は自分の絵に満足すると、少し離れたところで描いているポニーに声をかける。
「おーいポニー、そっちはどうだー」
ポニーは一心不乱に絵筆を動かしている。
すこし特徴的な描き方で、トントンと絵の具を塗り重ねていく。わずかに体も動いているようだ。
ポニーの動きとたなびく蓮華草が同じ方向に傾く。まるで景色と一体化しているようで、背景として加えたくなる。
しばらくして、ポニーは絵の具を置くとキャンバスの位置を直し、椅子から立ち上がった。
ポニーは油絵の具でぐしゃぐしゃになった白衣を放り投げると、肩の凝りをほぐすようにストレッチをし、こちらへ歩いてきた。
「んーまあぼちぼちかな、そっちは?」
「やっと下書き完成、今から筆をいれるよ」
僕は晴れやかな気持ちで答える。
「ほー大分調子が良いようだな、ケサランパサランのお陰か」
ポニーはからかうように言う。
「案外そうかもな」
僕も冗談ぽく答えた。
実際あれから鬱屈した気分はなりを潜め、絵のほうもうまく描けるようになっていた。
あれは本当にケサランパサランなのかもしれないと、最近思い始めている。
二人並んで春の風を浴びる。
遠くに見える桜は、まだわずかに花を残しているようで、控えめな薄桃色が点々と連なっている。
学生たちの話し声がざわめきとなって風に運ばれてくる。
どこからともなく現れた猫が、近くの木を枕にうたた寝を始める。ちらとこちらを見た瞳が僕らを誘っているようだ。
一緒に昼寝をしろってか。
あるいは、のんびりいこうと諭されているのかもしれない。
「なあ、今俺って幸福なのかな」
なんとはなしに問いかけてみる。
「そいや忘れてた、言語学のレポート写させてくれ。提出期限は明後日だったよな」
きれいに無視された。
「うるさい自分でやれ、あと俺の高尚な哲学をスルーしてんじゃねえ」
せっかく感傷に浸っていたのに台無しだ。
「確か付属病院って近くにあったよな」
今度はすごく可哀相な目で見られた。
木陰の猫が立ち上がり、歩き出した。多分うるさかったのだろう。ちらとこちらを一瞥する視線が憐れんでいるようで、やるせない気持ちになった。
僕は疑問を投げかけるのを止め、その場に寝転がった。顔に近くなった蓮華草が頬に当たって、少しくすぐったい。
空はまだ明るく、布団のようにやわらかく体を包んでくれる。日が沈むまではまだまだ余裕があるだろう。
一眠りするか。
僕は目蓋を閉じ、両手を枕代わりにして体の力を抜いた。
隣でポニーも寝転がり、空を見上げる。筆が油絵の具で固まるぞと言おうとしたが、眠気がすぐそこまで来ていて声にならなかった。
「猫は自分が幸福だとか、不幸だとか考えるのかな。」
意識が沈む前、そんな声が聞こえた気がした。
ちなみに言語学のレポートは僕も忘れていた。