開幕
春になった。
キャンパスには桜が咲き乱れ、新入生がこれから始まる大学生活を夢見ながら、正門をくぐって行く。
学内に入ると、新入生目当ての部がこぞって勧誘に乗り出し、チラシや口説き文句をばら撒きながら走り回っている姿が見える。
いつからかキャンパスに住み着いた猫たちが、急に増えた人間に逃げ惑っている。
そんな春ゆえの明るい喧騒の中にありながら、僕は桜咲く中うな垂れる柳のように俯き、人ごみに流されている。
混雑を予想して早めに家を出たが、どうやら正解だったようだ。
人波に流されていると、どこからともなく手が伸びてくる。反射的に受け取ると、どうやら部活勧誘のチラシらしかった。渡すときに何か言っているようだが、この喧騒では誰に向けた言葉なのか分かりはしない。
渡されたチラシを見る。サッカー同好会、バレー部、テニス同好会、少林寺拳法、文芸部・・・。
どうやら二年生には見えないらしく、新入生と同じくらいのチラシを配られている。
僕は一つため息をつき、流れの途切れた人波を見つけ講義室へと向かう。
去年の一年間は本当に冴えなかったと思う。
そんなに難しくもない講義の単位を二つも落とした上、部活では絵筆のノリが悪く、思ったように絵が描けなかった。
塾のバイトも生徒からあまり信頼されていないのか、まともに授業を聞いてくれる生徒は少なく、バイト仲間の冷たい視線を感じていた。
今年こそはと思っているが、今のところ特に変わった様子もなく、また去年の繰り返しかと思うと気が滅入ってくる。
僕が講義室のドアを開けようとしたとき、学内に満ちる空気そのままの声がした。
「よっ、まっしー久しぶり」
僕は振り向くと、髪を後ろで一括りにした青年が立っていた。
「あぁポニーか、久しぶり」
僕は気のない返事を返すと、再びドアに手をかけ、中に入る。適当に真ん中辺りの席に鞄を置き、席に着く。
後ろから付いてきたポニーは、僕の隣に腰を降ろした。ポニーとは専門も狙う職種も部活までも同じなので、学内ではほとんど一緒に行動している。
ポニーはなにやら専門書らしき本を取り出し、読み始めた。見たことがない本だ。
「おいポニー、なんだその本は」
「これか、これはだなこの講義で使う参考書らしいぞ、先輩から売ってもらった」
得意げに本を見せつけるポニー。
どうせ始めの講義は参考書なんか使わないだろう、と思いつつ一応見せてもらうことにする。
ルーズリーフと筆記用具を出し、鞄を下に下ろす。すると自然とため息がこぼれてきた。
「なんだまっしー、ずいぶん景気悪い顔してるな、何かに憑かれてるみたいだぞ」
心配しているのかからかっているのか分からないことを言う。僕はなんでもないと手を振り、講義が始まるまで眠ることに決めた。
午後四時、本日最後の講義が終わると、ポニーとともに部活に向かう。
朝から続く騒がしさは少し衰えたものの、それは落ち着いたというだけで、決して収まってはいない。あちこちの講義室から聞こえる声は部活紹介か、茶話会か。
空はまだ明るく、肌寒さも感じない。風は少し強いが、このくらいなら外に出て絵が描けるだろう。
正門からすぐ西に曲がって数分。キャンパスの角に当たる部分に部室はある。
一見ただのプレハブ小屋に見える、しかし朽ちかけた玄関扉の横の古ぼけた看板には美術部の文字。
申し訳程度の屋根の下に、子猫が数匹寄り添っている。
僕とポニーは軋む扉を開け、中に入っていく。
「お疲れ様ー」
すでに来ていた人たちが挨拶を飛ばしてくる。
こんにちはでもこんばんわでもない、労いの挨拶。いつからか挨拶といえばこの言葉になっていた。みんな何かに疲れているのかもしれない。
僕とポニーも挨拶を返し、それぞれの鞄を置き、画材を手に取る。
本来勧誘を行う時間なのだが、メジャーな部活なのでほっといても新入部員は増えるだろう、と部長は高をくくっているため、普段どおりの部活が始まる。
「おいポニー外行くぞ」
僕は画板と画用紙数枚、それとナイフで削った鉛筆を3本と練り消しゴムを持ち、絵の具を用意しているポニーに話しかける。
「あいよ、ちょっとまってな」
ポニーは画板と画用紙数枚、それに絵の具セットを持ち、靴を履いた。
僕らはキャンパスの東側にある公園を目指し、歩き始めた。
いまだ行き交う学生は多いが、朝のように流されるほどではない。多くの学生の話し声は途切れることはなく、背景音楽として違和感なく存在している。
僕はそれら雑多な足音と話し声がまるでノイズのように感じられ、こっちはこんなに沈んでいるのに、どうしてこいつらはこんなに楽しそうなんだ、と恨めしく思えてくる。
僕は少し足を速める。
公園に着けば人は少ないはずだ。
「まっしー、おまえなにを書くつもりなんだ」
ポニーが長い髪をなびかせながら聞いてくる。
歩く速度を上げたことを気にしてはいないようだ。
「まだ未定、今から考える」
いまだ青い空を恨めしげに見上げる。
雲が見栄を張るように変化しながら流れていく。
暑いとは言えない太陽光線が、僕を責めるように照らし出す。
道路脇のベンチの下に居座る猫が、あくびをかみ殺す。
日が沈むまで大体三時間位か、今日中に展覧会用のテーマが決まると良いけど。
今日の作業時間を軽く計算し、僕は学内の雰囲気に押し出されるようにして、公園にたどり着いた。
本来学生の憩いの場として作られただろう公園。しかし、講義室や購買からも遠くにあるため、わざわざここに集まる学生はおらず、和みを演出する木々達だけが寂しげに集まっている。
僕らはそれぞれに画材を準備し、絵になる風景を探す。
「とりあえず今日は3時間位で戻ろう」
「了解」
僕らは時間を確認し合い、スケッチを始めた。
指を動かすたびにシュッという音がする。時にすばやく、時にゆっくりと腕を動かし目に映る空間を描写していく。生き生きとした春の草花を土台として描いたつもりなのだが、なぜか絵の中の草花はしおれているように見える。
鉛筆を置く、やはり思った線が描けない。今日は駄目だなと思い、道具をしまう。
「だめだ、やっぱり調子悪い。ぜんぜんうまく描けない」
被写体がいけないのだろうか、もう少し奥に行けば蓮華草が咲き乱れる雑多とした場所がある。次はそこで絵を描こう.
僕はそのまま仰向けに倒れる。
誰も来ないが整備だけはきちんとしているようで、やわらかい芝生が背中を受け止めてくれる。。
朱色の絵の具をそのまま垂らしたような空が、わざとらしく日暮れを告げてくる。
やはり今年もこのまま冴えない日々を過ごすのだろうか。そう考えているとだんだん愚痴っぽくなってくる。
「去年は散々だった、単位は二つも落とすし、バイト先の生徒も全然話を聞いてくれない。今年もそうなるのかと思うと気が重いよ」
隣で絵筆を走らせていたポニーは呆れたような顔をして、こちらに話しかけてくる。
「なに言ってんだ、単位落としたのも生徒が話を聞かないのも、お前ができないからだろ。調子のせいなんかじゃないさ」
僕は少しムッとした。そんなんじゃない、ほんとに調子が悪いだけだ。何かが起こればきっとうまくいく。
「ふん、調子が良くなればお前みたいに気楽に生きられるさ」
ポニーの呆れ顔に、哀れみとどうしようもなさが入り混じった気がした。
僕はその意味がわからず、顔を逸らした。
ふわりと、漂う何かが意識が引き止められる
あれ・・・
一瞬なにか白い物体が見えた気がする。
僕は慌てて視線を戻す。
「どうした」
「いや、なにか白いものが見えた気がして」
きょろきょろと辺りを見回すと、公園の端のベンチが連なっているところ、その一つのベンチの上に、白い綿毛のようなものがふわふわと転がっていた。
僕はそのベンチに近づき、綿毛のようなものを眺めた。
それはとても白く、絹のようなわずかな光沢を纏い、ふわふわとタンポポの綿毛のような不安定さで漂っていた。
大きさはソフトボールくらい、綿花や猫の毛玉にしては大きすぎるし、布団の綿にしては小さすぎる。
「なんだこれ」
思わず僕は呟き、振り返った。
するとポニーは怪訝そうな顔をしたあと、何かを考えるような顔になり、その後わざとらしく驚いたような顔になった。
「なに一人で二十面相やってんだよ、劇団にでも入る気か」
「いや、なんでもない。それは多分ケサランパサランじゃないか」
「ケサランパサラン?」
僕は記憶を辿る。たしかどこかで聞いたことがあるような気がする。
しばらく悩む僕を見かねてか、ポニーが説明を始めた。
「ケサランパサランってのは妖怪の一種で、飼い主に幸運を運ぶって言われてる。穴の開いた桐の箱で、おしろいを与えることで飼うことができるっていう」
「ああ、それ聞いたことあるな」
僕は子供の頃に読んだ漫画に、そのようなことが書いてあったことを思い出した。
ってことはこれを育てれば幸せになれるのか、この鬱屈した調子の出ない日常を脱出できるのか、いやでもそんな妖怪なんて実在するわけないし・・・。
すると、ポニーはおもむろに
「飼ってみればどうだ」
と言い出した。
僕はものすごくびっくりして、思わずポニーの正気を疑った。
ポニーはとても現実主義で、原理主義者だ。努力も苦労も結果を得るための過程と割り切り、最適な結果を得るためにもっとも効率的な方法を考える。と常日頃から豪語しているようなやつだ。
そんなやつが突然妖怪を飼えと言うのだから、驚くなというほうが無理だ。
「おいおい本気か、お前がそんな非科学的なものを信じるとは思わなかったぞ」
すると、ポニーはなんでもないことのように手をひらひらと振った。
「何言ってんだ、別に妖怪は非科学的じゃないだろ。ただ存在が確認されていないってだけで、存在しないとは誰も証明していないぞ。科学的に言えば存在するかもしれないが存在しないかもしれない、っていうのが正しい見解だ」
僕は納得したようなしないような、よく分からない心境で、相槌を打っていた。
存在を否定する証拠がないからといって、存在するとは言い切れない。また、逆も然り。
要するにまったく分かっていない、ということだ。
そう考えると、この白い物体がケサランパサランでも不思議はないように思えてくる。
あれ、なんか飛躍しているような。
僕が混乱していると。
「桐の箱なら多分、ホームセンターとかで売ってるんじゃないかな。今日の帰りにでも買っていけよ」
「あ、あぁ」
僕は頭の中の整理がつかないまま飼う事になってしまった。
とりあえずは手持ちのビニール袋に入れて持ち帰ることになった。
片付けた絵描き道具を運びながら、ネタにでもなるだろうと思い直し、この白い綿毛を飼うことに納得した。
部室への帰り道、あれだけ多かった人波は絶え、まばらな人通りに変わっていた。それら部活勧誘を終えた学生たちが、収穫高を自慢しながら部室や家への道を歩いている。
びゅうと少し強い風が吹き、道を覆う桜の花を散らしていた。
猫はすっかり減った人間に安心したのか、キャンパス内のいたるところで眠りについている。
僕とポニーは、おしろいと桐の箱が売っている店について話しあい、ケサランパサランの飼い方について確認しあった。
そうこうしているうちに、部室にたどり着いた。
落ちる夕日が部室と重なる。
部室がまぶしいくらいに光っている。
このとき、僕は内心結構興奮していた。
雨の降り続けるリゾート地のように鬱屈したこの世界に。
待ちに待った変化がやってきたと思ったからだ。