第1話 灰色の澱み
法廷の空気は、いつも乾いている。
吸音壁に囲まれた地方裁判所の大法廷には、空調の低い唸りと、書記官がキーボードを叩く音だけが沈んでいた。
午後二時十五分。尋問開始から一時間を過ぎ、窓のない室内には、人いきれと、法服の黒い布に染みついた古い埃の匂いが立ち込めている。
法壇の中央に座るのは、裁判長の鷹見。眼鏡の奥の目は、瞬きすら惜しむように証言台へ据えられたままだ。その右に右陪席の小木曽、左に、合議体でいちばん若い判事補五年目の桐野准。
「……ですから、私は突き飛ばしてなどいません。あの人が、自分で足をもつれさせて、階段から落ちたんです」
傷害致死で起訴された、三十代半ばの男。深夜の雑居ビルの階段で口論になり、被害者の胸を突いて転落死させた――検察官はそう主張している。
弁護人の被告人質問に、男は膝の上で両手を握りしめ、ときおり涙声になりながら応じている。傍聴席の最前列では、母親らしい老女がハンカチを口に当てている。検察官席の隣、柵の内側には、黒い服の女性が一人、じっと男の背中を見ていた。亡くなった被害者の姉だった。
桐野は手元の書面から目を上げ、男の顔を正面から見た。
焦点が合った瞬間、男の唇の端から、それが零れた。
煙でも光でもない。筆を洗った水に広がる絵具のような、濁った灰色の微粒子。
言葉が紡がれるのと同時に、喉元から口元にかけて薄い幕のような靄が立ちのぼり、男の横顔の輪郭を滲ませる。
(――嘘か)
桐野は黒い表紙の私物のノートの隅に、小さく「×」を書いた。
いつから見えるようになったのか、もう覚えていない。人が自己保身のために偽りを口にするとき、声の周りに灰色の澱みが像を結ぶ。街では、視線の焦点を遠くへ逃がし、顔を風景の凹凸に変えてしまえば煩わされずに済む。だが法廷は違う。一人の人間を正面から凝視し、一言一句を聞き取らねばならない。こういうとき、灰色がよく見えるのだ。
「もう一度伺います。あなたは、被害者に向かって、両手を前に出しましたか」
弁護人が、刑を軽くせんと必死に質問を重ねる。
しかし桐野は誰にも気づかれない程度に息を吐いて、桐野は手元の記録に目を戻した。
閉廷後、四階の裁判官室。事件記録が積まれた机の向こうから、鷹見が声をかけた。机の端には、胃薬の白い小瓶が転がっている。
「桐野君。今日の被告人質問、どう見た」
湯呑みの湯気を眺めたまま、背中を向けている。
「足をもつれさせたという弁解は、排斥でいいと思います」
桐野は即答した。
「階段の傾斜と被害者の体格からすれば、払われた程度で踊り場まで落下するとは考えにくいです。」
「……そうだな」
鷹見は眼鏡を外し、眉間を指で揉んだ。長い沈黙が流れる。
「筋は通っている。君の理屈は、いつも通っているよ。……だがね、桐野君。君の理屈は、ときどき、結論が先にあって、そこへ向かって並べられているように聞こえる」
桐野の指が、ノートの上でわずかに止まった。桐野は自分の能力を誰かに話したことはない。
「普通の裁判官は、理屈を一つ積むたびに怖くなる。三年以上の有期懲役。その数字の向こうに、人間が一人ぶら下がっているからだ。それで胃を痛める。……君にはその怖さがない。現場を上空から見てきた神様みたいな顔で、躊躇なく人を刑務所の側へ押しやる。どうもそうみえてならない」
「私は、証拠から論理的に導かれる結論を述べているだけです」
「事実を定め、法を当てはめる。それが我々の仕事です」
鷹見は頷いた。
「それだけだったら、どれほど楽か」
彼は肩をすくめ、背広の内ポケットから一通の封筒を取り出して、桐野のデスクの上に置いた。
「内示だ。君の次の任地が決まった」
桐野の視線が封筒に落ちる。
「四月から、北関東の地裁の支部だ。特例判事補の指定が付く」
桐野は、封筒を手に取った。
特例判事補。判事補になって五年を経て、最高裁に指定された者だけが、一人で法廷を開き、単独事件を審理し、判決を言い渡す。
「向こうに行けば、もう左の席で記録を読んでいるわけにはいかない。法壇に座るのは、君一人だ。」
「まったく構いません」
桐野は、淡々と答えた。
「単独事件の大半は、自白事件か、筋の通らない否認事件です。証拠を見て、嘘を弾けば、主文は自ずと決まります」
「……そうか」
鷹見は、否定も肯定もしなかった。
窓の外では、春の空が夕闇に溶けかけていた。机の端で、胃薬の小瓶が最後の光を弾いていた。




