ep.9
夜明け前の教会は、まだ薄暗かった。
高い窓から差し込む光も弱く、大聖堂の中には燭台の明かりがいくつか灯っているだけである。祈りの時間にはまだ早く、信者の姿もない。石床の冷たい空気の中で、俺は祭壇の横の椅子に腰を下ろしていた。
膝の上には、昨夜教会に駆け込んできた少女がいる。
エマ。
ラグナ村から逃げてきた娘だ。
さすがに床に寝かせるわけにもいかず、奥の部屋の簡易寝台へ運んで休ませてある。今は少し落ち着いたようで、呼吸も穏やかだった。
俺は杖を横に立てかけ、ゆっくり息を吐く。
……やれやれ。
老いぼれの夜更かしは体に堪える。
もっとも、この体は見た目ほど弱くはない。女神の勘違いで押し付けられた力のおかげで、魔力だけならいくらでも余っているのだが、身体の動きだけはどうにも老人のままだ。椅子から立ち上がるだけでも少し時間がかかる。
俺は静かに立ち上がり、寝台のある小部屋へ歩いた。
エマは毛布にくるまって眠っている。裸足で走ってきた足には、神官が塗った薬が塗られていた。擦り傷だらけだったが、命に別状はない。
少しすると、少女のまぶたが動いた。
ゆっくり目を開く。
見慣れない天井に気づき、驚いたように体を起こした。
「……ここ」
「教会じゃ」
俺は静かに言った。
少女は俺を見て、昨夜のことを思い出したのだろう。慌てて毛布を握りしめた。
「わ、私……」
「落ち着け」
俺は椅子を引き寄せて座る。
「もう追ってくる者はおらん」
少女は少しだけ安心したようだったが、まだ顔色は青い。しばらく黙っていたあと、小さく口を開いた。
「……あの」
「なんじゃ」
「ここ、本当に教会?」
「そうじゃ」
少女はほっと息をついた。
「よかった……」
俺は少女の様子を観察する。
まだ十代半ば。農村の娘らしい素朴な服だ。だが袖の布は破れており、腕には縄で縛られていたような跡がうっすら残っている。
「名前はエマじゃったな」
「うん」
「ラグナ村の娘か」
少女は頷いた。
「……うちの村、小さい村で……畑ばかりで」
「それで」
少女の顔が曇る。
「三日前、商人の人たちが来たの」
「商人?」
「うん。馬車で」
俺は黙って聞く。
少女は言葉を選びながら続けた。
「最初は普通だった。村長さんとも話してて……商品も売ってた」
「何を売っておった」
「布とか、道具とか……あとお酒」
普通の行商人のようだ。
だが。
「夜になると様子が変わった」
少女の声が小さくなる。
「村の女の子が一人いなくなったの」
「どこへ」
「わからない」
少女は首を振る。
「でも……次の日も、その次の日も」
「……」
「また一人、また一人って」
俺は静かに目を閉じる。
やはりそうか。
「村人は気づかなかったのか」
「最初は気のせいだと思ってた。でも……」
少女は震える手で毛布を握る。
「私も、捕まったの」
「商人にか」
少女は頷いた。
「夜、家にいたら……急に男の人が来て……」
そこで言葉が詰まる。
思い出すのも辛いのだろう。
俺は無理に急がせない。
しばらくしてから、少女はゆっくり言った。
「縛られて、馬車に入れられた」
「他にもおったか」
「うん……」
少女の目に涙が浮かぶ。
「知らない女の子もいた」
「何人」
「三人……だったと思う」
三人。
王都の失踪事件と数が合う。
俺は小さく息を吐いた。
「それで、どうやって逃げた」
少女は涙を拭った。
「夜、馬車が止まってる時……縄が少し緩んでて」
「外へ出たのか」
「うん」
少女は頷く。
「森に逃げた」
「追われたか」
「追ってきた」
少女は震えながら言う。
「でも、森の中で見失ったみたいで……」
そこから王都まで走ってきたのだろう。
裸足の足を見ればわかる。
俺はゆっくり立ち上がった。
話は十分だ。
ラグナ村にいるのは、ほぼ間違いなく人攫いだ。
そしてその手口。
娘を集める理由。
間違いなく黒月教団の連中だろう。
問題は。
ルイスたちが今まさに、その村へ向かっているということだ。
俺は窓の外を見る。
夜明けの光が少しずつ広がっていた。
「エマ」
「なに」
「しばらくここで休め」
少女は不安そうな顔をした。
「でも……村のみんな」
「今は無理じゃ」
俺は静かに言う。
「お前一人で戻れば、また捕まる」
少女は唇を噛んだ。
やがて小さく頷く。
俺は再び椅子に座る。
……さて。
どうしたものか。
本来なら、この事件は若い連中が解決する話だ。王子だの騎士団長だの、未来の英雄たちが活躍する舞台である。
老いぼれの出る幕ではない。
だが。
今回ばかりは、少し状況が違う。
ルイス、シリル、ティム。
あの三人は腕が立つが、黒月教団の連中を相手にするには少し荷が重い。
俺は杖を軽く握った。
……様子くらいは見ておくか。
その頃。
ラグナ村へ続く街道を、三人の男が歩いていた。
ルイス、シリル、ティム。
夜通し歩き、空はすでに明るくなり始めている。
ティムが伸びをした。
「もうすぐですね」
丘の上から、小さな村が見える。
畑と数十軒の家。
煙突から薄く煙が上がっていた。
シリルが目を細める。
「静かすぎますね」
ルイスも頷いた。
「村にしては人の気配が少ない」
三人は足を止める。
遠くの村の端に、数台の馬車が見えた。
黒い幌のついた荷馬車。
ティムが小声で言う。
「……あれですね」
ルイスは頷いた。
「まずは様子を見る」
三人は丘の影に身を隠し、村を観察し始めた。
まだ朝だというのに、村人の姿はほとんど見えない。
そして。
荷馬車の周囲には、武装した男たちが立っていた。
商人にしては、少々物騒すぎる。
シリルが静かに言う。
「ただの行商人ではありませんね」
ルイスは目を細めた。
「慎重に行こう」
その言葉の裏に、同じ考えがあった。
この村には、何かが潜んでいる。
◇
エマの話が本当なら、今まさにルイスたちが調査している場所だ。三人とも腕は立つが、奴隷商人に雇われた荒くれ者が相手となると、数次第では厄介になる。
俺は祭壇の前で目を閉じた。
祈りの形を取るが、実際にやることは少し違う。
ゆっくりと魔力を巡らせる。
この身体には、女神の余計な贈り物がある。魔力量だけなら王国一どころか、この世界でも上位に入るだろう。使う気はなかったが、こういう時には便利だ。
空間に薄く魔力を広げる。
それは波のように広がり、王都を越え、街道を越え、森を越えていく。普通の魔術師なら視界の共有など難しい距離だが、俺の場合は少し事情が違う。
やがて、視界が切り替わる。
薄い霧を通して景色を見るような感覚の中で、ラグナ村が浮かび上がった。
小さな農村だ。
畑と家が並び、朝の煙がいくつか上がっている。だが、妙に静かだった。村人の動きが少ない。代わりに目につくのは、村の端に並んだ数台の荷馬車。
黒い幌付きの馬車。
そして、その周囲に立つ男たち。
俺は視線を動かす。
村の外れの丘の影に、三つの人影があった。
ルイス、シリル、ティム。
三人とも姿勢を低くして村の様子を観察している。どうやらまだ見つかってはいないらしい。
俺は小さく息を吐いた。
まずは無事か。
だが、次の瞬間、視界の奥で動きがあった。
馬車の近くで男たちが何かを引きずっている。縄で縛られた少女だ。抵抗する力もないのか、ほとんど引きずられるようにして運ばれている。
……なるほど。
奴隷商人というより、ほとんど人攫いだな。
さらに注意して見ると、武装した男が十人以上いる。鎧はばらばら、剣や斧など装備も統一されていない。正規の兵ではない。傭兵崩れか、盗賊上がりの連中だろう。
ルイスたちが相手にするには、少々数が多い。
丘の影で、ティムが何か言っている。口の動きからして、おそらく突入を提案しているのだろう。ルイスがそれを止め、シリルが何か説明している。遠目でも三人の性格がよく出ている。
だが、そのやり取りの最中だった。
村の中央の家から、一人の男が出てきた。
黒い外套。
胸元に月を模した銀の装飾。
俺は目を細める。
……やはりか。
黒月教団。
村の端にいた男の一人が丘の方をちらりと見た。その瞬間、嫌な予感が走る。
視界の中で、男の口元が歪んだ。
次の瞬間、叫び声が上がった。
ルイスたちが潜んでいた場所へ、矢が飛んだ。
見つかった。
丘の影から三人が飛び出す。ルイスが剣を抜き、ティムが短剣を構え、シリルが詠唱に入る。
馬車の周囲にいた男たちが一斉に動き出した。
剣、斧、槍。
十人以上の荒くれ者が三人へ向かって走る。
俺は眉をひそめた。
……これは、少しまずい。
三人は強い。だが数が違いすぎる。
シリルが放った魔術で前列の男が二人吹き飛ぶ。ティムが素早く間合いに入り、一人の足を斬り払う。ルイスは正面から突っ込んできた大男の斧を受け止め、そのまま剣で肩を斬り裂いた。
だが敵はまだ多い。
四人、五人と囲むように近づく。
村の奥からさらに男が出てくる。どうやら見張りがいたらしい。
俺は目を閉じた。
……仕方あるまい。
椅子からゆっくり立ち上がる。
杖を握り、祭壇の前に立つ。
魔力を集中させる。
普通なら、ここから村まで行くには半日かかる。だが距離というものは、少しだけ解釈を変えればいい。
床に小さく魔法陣が浮かび上がる。
古い転移術式だ。長距離のものは普通使われないが、俺の魔力量なら問題ない。
「……やれやれ」
老体で戦場に出る羽目になるとは。
本当に、静かな老後とは縁がない。
魔法陣が光る。
次の瞬間、景色が変わった。
ラグナ村の外れ。
丘の下の森の影に、俺は立っていた。
遠くから金属のぶつかる音が聞こえる。怒号も混じっている。
俺は杖をつきながらゆっくり歩き出した。
丘の上に上がると、戦いの様子が見えた。
ルイスたちはまだ持ちこたえている。だが、さすがに疲れが見え始めていた。ティムの肩から血が流れている。シリルの詠唱も短くなっている。
男たちはそれを見て勢いづいていた。
「囲め!」
「逃がすな!」
怒鳴り声と共に、剣が振り下ろされる。
その瞬間だった。
俺は杖を軽く振る。
風が走った。
目に見えない衝撃が広がり、男たちの体をまとめて吹き飛ばす。数人が地面を転がり、剣を落とした。
全員の動きが止まる。
ルイスたちも驚いた顔で周囲を見た。
俺は丘の上からゆっくり降りていく。
杖をつき、背を少し丸めた老人の姿で。
男たちの一人が叫んだ。
「なんだ、あのジジイ」
俺は何も言わず、ゆっくり歩く。
男の一人が斧を振り上げた。
「ぶっ殺せ!」
斧が振り下ろされる。
俺は杖を軽く横に振った。
男の体が宙に浮き、そのまま後ろの馬車へ叩きつけられた。
周囲が静まり返る。
俺はルイスたちの前まで歩き、足を止めた。
ルイスが驚いた顔で言う。
「……法皇様」
「少し騒がしいのでな」
俺は男たちの方を見る。
傭兵崩れの連中が、さすがに警戒した顔で距離を取っていた。
「手荒なことをする連中じゃ」
俺は杖を軽く地面についた。
「少し静かにしてもらおう」
次の瞬間、空気が震えた。
男たちの足元から衝撃が走り、数人がまとめて地面に叩き伏せられる。
戦いは、ほぼ終わった。




