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ep.8

 朝の祈りが終わると、教会の中は少しだけ静かになる。


 大聖堂の長椅子にはまだ数人の信者が残っていた。祈りを終えた者、神官に相談をする者、ただ静かに座っている者。朝の光が高い窓から差し込み、床に色のついた影を落としている。


 俺は祭壇の脇の椅子に腰を下ろし、杖を膝に置いた。


 ここ数日、学園に滞在していたせいで教会の空気が少し懐かしい。


 老体というのは、慣れた場所に戻ると妙に落ち着くものだ。


「法皇様」


 声をかけられ、顔を上げる。


 中年の男だった。よく見かける信者だ。確か市場で魚屋をやっていたはずだ。


「お祈り、ありがとうございました」


「気にすることはない」


 俺は軽く手を振った。


 男は少し言いにくそうな顔をしている。


「今日は、ちょっと気になる話がありまして」


「ほう」


 こういう話は大抵、町の噂だ。


 だが今は、それが馬鹿にできない。


 俺は椅子に背を預けた。


「聞こう」


 男は少し声を落とした。


「最近の失踪事件、やっぱり物騒ですよね」


「そうらしいの」


「市場でも皆その話ばかりでして」


 男は周囲を気にするように見回す。


「それで、変な噂を聞いたんです」


「変な噂?」


「町外れの村に、奴隷商人が来ているって話です」


 俺は眉を動かした。


 奴隷商人。


 この国では完全に違法というわけではないが、王都の近くに来ることはほとんどない。ましてや若い娘が消えているこの時期に現れるとなれば、偶然とは思いにくい。


「どこの村じゃ」


「北の丘を越えた先です。小さな村で、名前は……確かラグナ村」


 男は頭をかいた。


「村の若い娘が何人か見かけたって言うんです。鎖まではついてなかったらしいんですが」


「なるほど」


 俺は頷いた。


 男は少し安心したように言った。


「いや、ただの噂かもしれません。でも最近は怖い話が多いですから」


「噂でも構わん。話してくれて助かる」


 男は深く頭を下げた。


「それでは、失礼します」


 男が去ると、今度は年配の女性が近づいてきた。


 この教会には、毎朝顔を出す者が多い。自然と町の情報が集まる場所でもある。


 女性は小さく声を落とした。


「法皇様、あの話聞きましたか」


「奴隷商人のことか」


「やっぱり本当なんですかね」


「まだわからん」


 女性は腕を組んだ。


「でも、最近若い子が消えてるでしょう。皆怖がってますよ」


「そうじゃろうな」


 女性はため息をついた。


「騎士団も忙しそうですし」


「騎士団も動いておる」


 俺は静かに答えた。


 女性はそれでも不安そうだったが、やがて祈りの席へ戻っていった。


 教会は再び静かになる。


 俺はゆっくりと立ち上がった。


 杖をつく。


 石床に軽い音が響く。


 ……奴隷商人。


 表の商人なら、騎士団の監視を避けて王都近くに来る理由がない。


 だが裏の連中なら話は別だ。


 そしてもし、あの事件と関係があるなら。


 俺は小さく息を吐いた。


 黒月教団。


 乙女ゲームの中盤に出てくる厄介な連中だ。


 若い娘の魔力を集め、禁術の儀式を行う闇の結社。


 表向きは姿を見せず、裏で人攫いや密売人を使う。


 奴隷商人というのは、連中がよく使う手口だった。


 もっとも、まだ確定ではない。


 ただの噂の可能性もある。


 だからこそ。


 俺は祭壇の奥へ歩いた。


 奥の通路を抜けると、神官たちの控え室がある。


 扉を開くと、三人の男がいた。


 ルイス。


 シリル。


 ティム。


 この教会の中でも腕の立つ神官だ。


 ルイスは三十代半ばの男で、背が高く落ち着いた雰囲気をしている。元は騎士だったという噂もある。


 シリルは細身で、眼鏡をかけた青年。魔術理論に詳しい。


 ティムはまだ若いが、身体能力が高く神官としては珍しいほど動ける。


 三人とも机の上に書類を広げていた。


 俺を見ると、すぐに立ち上がる。


「法皇様」


「お帰りなさい」


「学園の件はもう落ち着いたのですか」


 俺は手を振った。


「大したことではない」


 椅子に腰を下ろす。


 三人も席についた。


 ルイスが口を開く。


「何かありましたか」


「少し気になる話を聞いた」


 俺は杖を机の横に立てかけた。


「町外れの村に奴隷商人が来ているらしい」


 三人の表情が変わる。


 ティムが眉をひそめた。


「この時期にですか」


「噂ではラグナ村らしい」


 シリルが腕を組む。


「北の丘の先ですね。小さな農村だったはずです」


 ルイスは静かに言った。


「失踪事件と関係がある可能性があります」


「その通りじゃ」


 俺は頷いた。


「確証はないが、気になる」


 三人は黙っている。


 俺は続けた。


「もし奴隷商人が本当に来ているなら、娘たちの失踪と関係しているかもしれん」


 ティムが拳を握る。


「調べましょう」


 ルイスも頷いた。


「私たちが行きます」


 シリルは少しだけ考えてから言った。


「黒月教団の可能性もありますね」


 俺は視線を上げた。


「やはり思うか」


「手口が似ています」


 シリルは静かに言う。


「若い娘、魔力、痕跡なし」


 ルイスが低い声で言った。


「もし本当に関係しているなら、放置はできません」


 俺は三人を見渡した。


 頼もしい連中だ。


「調査を頼む」


 三人は同時に頷いた。


「ラグナ村へ行き、奴隷商人の存在を確認する」


 俺は続ける。


「無理はするな。情報だけでよい」


 ティムが笑った。


「わかっています」


 ルイスが静かに言った。


「今夜出発します」


 シリルは地図を広げた。


「馬なら半日ほどですね」


 俺は椅子にもたれた。


 これでよい。若い連中には若い連中の仕事がある。老いぼれは、後ろで見ていればいい。


 ……もっとも、本当に黒月教団なら、話は少し変わるがな。


 ◇


 夜の教会は静まり返っていた。


 大聖堂の灯りはほとんど落とされ、残っているのは入口近くの燭台だけである。揺れる炎が石壁に長い影を映し、昼間とはまるで違う表情を見せていた。王都の中心にあるとはいえ、この時間になると訪れる者はほとんどいない。遠くで犬の鳴く声が聞こえるくらいで、街全体がゆっくりと眠りにつこうとしている。


 俺は入口の大きな扉の前に立ち、杖を軽く床についた。


 目の前には三人の神官がいる。


 ルイス、シリル、ティム。


 三人とも外套を羽織り、旅用の荷袋を背負っていた。腰には護身用の短剣。神官といっても祈りだけの者ではない。教会には、いざという時に動ける者が必要だ。


 ルイスが荷袋の紐を確かめながら言う。


「準備は整いました」


 落ち着いた声だ。三人の中では一番年長で、元騎士という噂もある男である。


 俺はゆっくり頷いた。


「ラグナ村まで半日ほどじゃったな」


 シリルが折り畳んだ地図を鞄にしまいながら答える。


「馬を使えば半日です。徒歩でも夜通し進めば明け方には着きます」


 眼鏡の奥の目が冷静に状況を計算している。魔術理論に詳しいが、現地調査にも慣れている男だ。


 ティムは肩を回しながら笑った。


「ただの調査ですよね。村の様子を見て、怪しい商人がいるか確かめる。それだけでいいんですよね」


「それだけでよい」


 俺は静かに答えた。


「深入りはするな。情報だけ持ち帰れば十分じゃ」


 ルイスが真剣な顔で頷く。


「承知しました」


 三人とも腕は立つが、今回の目的は戦いではない。あくまで様子見だ。奴隷商人の噂が本当かどうか、それを確かめるだけでよい。


 もし本当に奴隷商人がいるなら騎士団へ知らせればいい。


 もし、その裏に別のものが潜んでいるなら。


 その時はまた考える。


 ティムが軽く笑った。


「まあ、村を見てくるだけですしね。大事にはならないでしょう」


 シリルが小さく肩をすくめる。


「油断は禁物ですよ」


 ルイスは二人を見て苦笑したが、すぐにこちらへ向き直った。


「では、行ってきます」


 俺は扉に手をかける。


 重い木の扉を押し開くと、夜の空気が流れ込んできた。石段の先には静かな王都の通りが広がり、月明かりが石畳を淡く照らしている。


 ルイスが最初に外へ出る。シリル、ティムも続き、三人は石段の下で振り返った。


「報告はできるだけ早く持ち帰ります」


「うむ。無理はするな」


 俺がそう言うと、ティムが笑った。


「大丈夫ですよ。ルイスがいるし」


「私を盾にする気か」


 ルイスが呆れたように言い、シリルが静かに笑う。三人の空気はいつも通りだった。緊張しすぎるより、その方がいい。


 三人は軽く頭を下げ、そのまま夜の通りへ歩き出した。鎧も馬も使わないため足音は小さく、やがて闇の中に溶けるように消えていく。


 俺はしばらくその背中を見送った。


 王都の夜は静かだ。昼の喧騒が嘘のように、人影はまばらである。夜風が吹き、教会の旗が小さく揺れた。


 俺はゆっくり息を吐く。


 ……さて。


 老いぼれもそろそろ休むとするか。


 そう思い、扉を閉めようとした時だった。


 遠くから足音が聞こえた。


 石畳を叩く軽い音だ。最初は小さかったが、だんだん近づいてくる。夜中に教会へ駆けてくる者は珍しくない。病人、怪我人、あるいは助けを求める者。しかし、その足音には妙な切迫感があった。速く、そして乱れている。


 俺は扉に手をかけたまま動きを止めた。


 次の瞬間、暗い通りの奥から小さな影が飛び出してきた。


 少女だった。


 まだ十代半ばほど。髪は乱れ、服もところどころ破れている。そして何より目についたのは足だった。靴を履いていない。裸足のまま石畳を走ってきたらしく、足は赤く擦りむけていた。


 少女は石段を駆け上がると、そのまま教会の中へ転がり込むように入ってきた。


「た、助けて……」


 声はかすれている。息も荒い。


 俺は杖をつきながら一歩前へ出た。


「落ち着け。ここは教会じゃ」


 少女は扉の内側で膝をつき、肩で息をしている。今にも倒れそうだ。


「誰かに追われているのか」


 少女は何度も頷いた。


「うん……」


 声が震えている。


 俺は静かに扉を閉めた。重い木の扉がゆっくりと閉まり、外の闇が遮られる。教会の中に、燭台の明かりだけが残った。


「ここにおればすぐには害は及ばん」


 俺は少女の前にしゃがみ込む。近くで見ると顔色は青く、体も小刻みに震えていた。恐怖と疲労で限界なのだろう。


「名前は」


 少女は顔を上げた。涙で頬が濡れている。


「……エマ」


「どこから来た」


 少女は息を整えながら答えた。


「……村」


「村?」


「ラグナ村」


 俺の動きが一瞬止まる。


 ラグナ村。


 つい先ほど三人を送り出したばかりの場所だ。


 少女は震える声で続けた。


「村に……商人が来て……」


「それで」


「最初は普通の人だと思ってた。でも……夜になると……」


 少女の声が途切れる。唇が震え、言葉が出ない。


 俺は静かに言った。


「女の子を攫っておるのか」


 少女は小さく頷いた。


 胸の奥で何かが沈む。


 やはりか。


 奴隷商人。


 そして若い娘。


 嫌な符号が揃っている。


「お前はどうやって逃げた」


 少女は両手を強く握りしめた。


「森を抜けて……ずっと走って……」


 そこで言葉が止まる。


 体がふらつき、今にも倒れそうだ。


 俺はゆっくり腕を伸ばし、少女の肩を支えた。驚くほど軽い体だった。


「もうよい」


 俺は静かに言う。


「話は後で聞こう」


 少女はそれ以上言葉を続けることができず、そのまま意識を失うように俺の腕にもたれかかった。


 俺は小さく息を吐く。


 ……どうやら、思っていたより早く事が動き始めたらしい。


 教会の外では、夜風が静かに吹いていた。


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