ep.6
「聞いた? 昨日の庭園のこと」
「黒い粉が突然降ってきたって」
「魔術の事故じゃないの?」
そんな話だ。
俺は廊下の窓際に立ち、外の中庭を眺めていた。
生徒たちは朝の時間を思い思いに過ごしている。友人と話す者、授業の準備をする者、慌てて走っている者。若い連中は忙しそうだ。
……まあ、昨日の件については心当たりがある。
黒い粉が空から降った理由もな。
だが、俺が何かしたなどと誰も思っていない。
学園ではただの「妙な出来事」として処理されているようだ。
「それでよい」
俺は小さく呟いた。
目立つ必要はない。
むしろ、目立たない方がいい。
この世界には、この世界の流れがある。若い者たちが悩み、ぶつかり、乗り越えていく。それが成長というものだ。
老いぼれが先回りして全部片付けてしまっては、意味がない。
俺は杖を軽くつき、廊下を歩き始めた。
歩く速度は遅い。どうしてもそうなる。七十二の身体は、三十歳の頃のようには動かない。
……本当に、動かない。
「女神め」
思わず呟いた。
もう少し若い体でも良かったのではないか。
せめて五十くらいなら。
そんな愚痴を心の中で吐きながら歩いていると、階段の下から声が聞こえた。
女子生徒たちの声だ。
「ほら、あの子」
「また来てる」
「平民なのに」
俺は足を止めた。
視線を下に向ける。
階段の下には、リリアがいた。
栗色の髪の少女は、腕に本を抱えて立っている。少し困ったような顔だ。その前に、三人の令嬢が立っている。
見覚えのある顔だ。
クロエの取り巻きたち。
昨日、庭園で粉を浴びて慌てていた連中である。
三人のうち一人が言った。
「その席、私たちが使うの」
リリアは戸惑ったように答えた。
「でも……ここ、空いていたので」
「だから何?」
もう一人が腕を組む。
「平民は平民らしく、後ろの席に座ればいいでしょう」
リリアは黙った。
周囲の生徒たちは、遠巻きに様子を見ている。
誰も口を挟まない。
貴族同士の空気というやつだろう。
俺は階段の上から、その様子を見ていた。
杖に体重をかけながら。
「……さて」
どうするか。
昨日のように、さっと魔法で片付けることもできる。
だが、それでは意味がない。
あの少女は強い。
昨日、魔物に怯えながらも逃げなかった。あれはただの臆病者ではできないことだ。
少し、見守ってみるか。
俺は階段の手すりにもたれた。
取り巻きの一人が机を指差した。
「そこ、どいて」
リリアは少し俯いた。
だが、次の瞬間、顔を上げる。
「……嫌です」
小さな声だった。
だが、はっきりしていた。
取り巻きの三人は一瞬だけ驚いた顔をした。
「なに?」
リリアは本を抱え直す。
「ここは、空いている席です。先生にも確認しました」
「だから?」
「だから……私はここに座ります」
静かな声だった。
だが、逃げていない。
俺は階段の上で小さく頷いた。
「ほう」
取り巻きの一人が顔をしかめた。
「生意気ね」
彼女は机の上に手を置いた。
押しのけるつもりらしい。
周囲の空気が少し張り詰める。
……さて。
ここまでは見守るつもりだったが、机を倒したりすれば怪我をするかもしれん。
そこまで行くなら、少しだけ手を出す必要がある。
俺は杖を握り直した。
魔力をほんの少しだけ流す。
ほんの少し。
本当に少しだけだ。
取り巻きの少女が机を押そうとした瞬間――
床が、きゅっと鳴った。
「きゃっ」
少女は足を滑らせ、バランスを崩した。
机ではなく、自分が後ろによろめく。
仲間の二人が慌てて支えた。
「ちょっと、何してるのよ」
「床が滑ったの!」
石の床は、もちろん滑るような場所ではない。
だが、ほんのわずかに風を流せば、人の足元くらい簡単に乱れる。
三人は顔を見合わせた。
そして、周囲の視線に気づく。
生徒たちがこちらを見ている。
居心地が悪くなったのだろう。
一人が舌打ちした。
「……もういいわ」
三人はそのまま立ち去った。
廊下の空気がゆるむ。
リリアはしばらくその場に立っていた。
やがて小さく息を吐く。
「……よかった」
その声は本当に小さかった。
俺は階段の上で杖をついた。
「十分じゃ」
あの少女は、自分で立った。
それでいい。
老いぼれが出しゃばる場面ではない。
俺はゆっくり階段を降り始めた。
一段ずつ。
ゆっくりと。
膝が少しきしむ。
本当に、体だけはどうにかならんものか。
階段を降りきった頃、リリアがこちらに気づいた。
「あ、法皇様」
俺は軽く頷いた。
「朝から元気そうじゃの」
リリアは少し照れたように笑った。
「いえ、その……ちょっとだけ、緊張しました」
「そうか」
彼女は机に本を置いた。
「でも、大丈夫です」
その顔は、少しだけ自信がついたように見えた。
◇
王立学園の校長室は、落ち着いた空気に満ちていた。
大きな机と本棚。壁には王国の紋章。窓からは学園の中庭がよく見える。古い家具ばかりだが、よく手入れされている。長年この部屋で学園を見守ってきたのだろう。
俺は応接用の椅子に腰掛けていた。
向かいには、この学園の校長が座っている。
白髪交じりの老人だ。年齢は俺とそう変わらないだろう。丸眼鏡の奥の目が穏やかに細められている。
机の上には湯気の立つ茶が二つ。
校長は微笑んだ。
「本日で滞在も最後になりますな」
「そうなるの」
俺は茶を一口飲んだ。
落ち着いた香りの茶だ。王立学園というだけあって、来客用の品も悪くない。
校長はゆっくり頷く。
「この数日、学園としても大変助かりました」
「大げさじゃ」
俺は茶碗を置いた。
校長は苦笑する。
「地下の封印の件がありましたからな」
「あれか」
地下に潜んでいた魔物の騒ぎ。
封印が乱れたせいで目覚めかけていたが、問題はもうない。
校長はため息をついた。
「もしあのまま魔物が暴れていたら、生徒に被害が出ていたかもしれません」
「もう大丈夫じゃ」
「ええ。法皇様が処理してくださったと聞いております」
校長は深く頭を下げた。
「本当にありがとうございました」
「礼を言われるほどではない」
俺は軽く手を振った。
古い封印の調整など、大した仕事ではない。むしろ長年放置していた方が問題だ。
校長は姿勢を戻すと、窓の外を見た。
中庭では生徒たちが歩いている。
笑い声も聞こえる。
「生徒たちも安心したようです」
「そうか」
「『賢老の奇跡』などという噂まで立っております」
俺は眉をひそめた。
「奇跡とはまた大げさじゃ」
「若い者は話を盛るものです」
校長は楽しそうに笑った。
まあ、好きにすればいい。
俺が何をしたかなど、細かく知る者はいない。
しばらく二人で茶を飲んでいた。
静かな時間だ。
やがて校長が少し声を落とした。
「ところで」
「なんじゃ」
「最近、王都の空気が少し騒がしいのです」
俺は視線を上げた。
「騒がしい?」
校長は少し言葉を選ぶようにしてから言った。
「失踪事件です」
「ほう」
「王都の周辺で、若い娘が消えている」
俺は茶碗を持つ手を止めた。
校長は続ける。
「学園の生徒ではありません。しかし、年齢が近い者が多い」
それは確かに気になる話だ。
「騎士団が動いていると聞きますが……」
校長がそこまで言ったとき。
扉が叩かれた。
コン、コン。
校長が顔を上げる。
「どうぞ」
扉が開いた。
入ってきたのは、背の高い男だった。
銀の鎧。
短く刈った黒髪。
鋭い目。
王国騎士団の装備だ。
男は室内に入ると、まず俺に気づいた。
一瞬だけ目を見開く。
そしてすぐに膝をついた。
「法皇様」
低い声だ。
俺は頷いた。
「騎士団か」
校長が言う。
「ちょうど良いところに来ましたな。こちらは王国騎士団長、ガイル殿です」
やはりか。
俺は内心で頷いた。
ガイル。
王国騎士団を率いる男。王国でも屈指の剣の使い手として知られている。
ガイルは姿勢を正した。
「突然の訪問、失礼します」
「構わん」
校長が言う。
「今、失踪事件の話をしていたところです」
ガイルの表情がわずかに引き締まった。
「……その件で参りました」
校長は椅子に座り直した。
「やはりそうでしたか」
ガイルは俺の方を見た。
「法皇様もお聞きになりましたか」
「少しな」
俺は答えた。
「王都で若い娘が消えている、と」
ガイルは頷く。
「現在、三件確認されています」
「三件か」
「いずれも十代の少女です」
校長の顔が曇る。
ガイルは続けた。
「場所は王都の外れ。夜に帰宅する途中で姿を消している」
「目撃者は」
「いません」
ガイルは首を振った。
「争った跡もない」
俺は杖の先を軽く床につけた。
静かな音が響く。
「攫われた可能性が高いの」
「はい」
ガイルは迷いなく答えた。
「ですが、犯人の目的がわからない」
校長が小さく言う。
「身代金の要求は」
「ありません」
部屋の空気が重くなった。
ただの誘拐ではない。
そんな気配がある。
ガイルはゆっくり立ち上がった。
「本日は学園にも警戒をお願いしに来ました」
校長が頷く。
「もちろんです」
ガイルは一礼した。
「それでは私はこれで」
俺はその背中を見ていた。
そして言った。
「騎士団長」
ガイルが足を止める。
振り向いた。
「何でしょう」
俺は杖を手に立ち上がった。
「少し話を聞いてもよいか」
ガイルの目が細くなる。
「失踪事件のことですか」
「そうじゃ」
俺はゆっくり歩いた。
老いた足取りで。
「教会へ戻る途中じゃ。歩きながら聞こう」
ガイルは一瞬だけ考えた。
それから静かに頷く。
「……承知しました」
校長が立ち上がる。
俺は扉へ向かった。
校長が穏やかに言う。
「またいつでもおいで下さい」
俺は軽く手を振った。
「世話になった」
校長室を出る。
廊下には夕方の光が差し込んでいた。
ゆっくり歩く。
杖をつきながら。
ガイルが隣に並ぶ。
鎧が静かに鳴る。
校舎を出ると、学園の門が見えた。
門の向こうには王都の通り。
そして、その先には教会がある。
俺は歩きながら言った。
「それで、騎士団長」
「はい」
「詳しく聞かせてもらおうか」
ガイルは頷いた。
「では、事件の最初からお話しします」
夕方の風が通りを抜けた。
俺は杖をつきながら、ゆっくり教会へ向かう。
散歩の途中で聞くには、少し重い話かもしれない。
だが、耳に入った以上は無視もできん。
老いぼれの帰り道は、少しだけ長くなりそうだった。




