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ep.5

 王立学園の朝は早い。


 鐘の音が校舎中に響き、生徒たちは一斉に教室へ向かう。貴族の子弟が多い学園だが、規律は厳しい。授業に遅れれば容赦なく評価が下がるし、寮生活の者は朝の点呼もある。


 そんな忙しい朝の空気の中、俺は校舎の廊下をゆっくり歩いていた。


 もちろん学生ではない。法皇である。


 普通なら教会の奥で祈りを捧げている立場だが、王立学園の校長に頼まれてしばらく学園を見守ることになった。名目は「奇跡の御礼を兼ねた祝福滞在」。つまり客人扱いだ。


 もっとも、俺の本音は別にある。


 三百時間プレイした乙女ゲームの舞台を、リアルで観察できる機会など二度とない。


 見逃すわけがない。


 廊下の窓から中庭を眺めると、生徒たちが登校してくるのが見えた。色とりどりの制服、貴族らしい豪華な装飾、平民用の質素な服。その中に、一人だけ見覚えのある少女がいる。


 栗色の髪。


 少し古い制服。


 ヒロインのリリアだ。


 リリアは校門をくぐると、少し周囲を見回し、深呼吸してから歩き始めた。昨日の魔物騒ぎで相当驚いただろうが、それでも今日きちんと登校している。性格の真面目さがよく出ている。


 俺は頷いた。


「良い心がけじゃ」


 背後にいた学園教師が慌てて頭を下げる。


「法皇様、何か?」


「いや、生徒が元気そうで何よりじゃ」


 教師は安心したように笑った。


 俺は杖をつきながら廊下を進む。魔力感知を広げると、学園全体の空気が静かに流れているのがわかる。地下の封印は完全に修復したため、魔物の気配はもうない。


 だが別の意味で、少し気になる流れがあった。


 女子寮の方角。


 小さな悪意の気配だ。


 俺は足を止めた。


(始まるか)


 ゲームの記憶が蘇る。


 乙女ゲーム『聖なる乙女と七つの聖約』には、序盤の小さなイベントがある。ヒロインのリリアが学園生活に慣れていく過程で、貴族の生徒たちから嫌がらせを受けるのだ。


 そしてその中心にいるのが――


 クロエ・ヴァルモンド。


 公爵家の令嬢であり、典型的な悪役令嬢である。


 クロエは学園の中でも影響力が強い。本人が直接手を下さなくても、取り巻きの貴族令嬢たちが動く。その結果、リリアの教科書が隠されたり、備品が壊されたりといった小さな事件が起きる。


 ゲームでは、これがヒロインの成長イベントになる。


 攻略対象の誰かが助けに入ったり、リリア自身が乗り越えたりすることで好感度が上がる仕組みだ。


 だが現実の世界でそれを放置するのは、あまり気持ちの良いものではない。


 俺は少し考えた。


 ゲームの流れを壊すほどの介入は避けたい。だが、あまりに露骨な嫌がらせは調整した方が良い。


 老体の杖を軽くつき、廊下を曲がる。


 その先に、女子寮へ向かう裏庭があった。


 花壇と石畳が整えられた静かな場所だ。朝のこの時間は人が少ない。だが今日は、そこに三人の少女がいた。


 豪華な制服。


 巻いた髪。


 高そうなアクセサリー。


 クロエの取り巻きだ。


 三人はこそこそと話している。


「本当にやるの?」


「クロエ様の命令よ」


「でも平民の教科書を隠すくらいでいいんじゃ……」


「それだけじゃつまらないでしょう?」


 俺は柱の影からその様子を見た。


 取り巻きの一人が、小さな袋を取り出した。


 中から黒い粉が見える。


 俺は目を細めた。


 魔術粉末だ。


 触れると一時的に強い痒みが出る低級魔法の材料。大した危険はないが、制服に振りかけられれば相当困る。


 どうやらリリアの制服に使うつもりらしい。


 俺は小さく息を吐いた。


「ほどほどにしておくか」


 杖を軽く持ち上げる。


 魔力をほんの少しだけ流す。


 魔法陣も詠唱も必要ない。神代魔導大全の知識が自然に動く。


 袋の中の粉が、ふわりと浮いた。


 三人の令嬢は気づかない。


 粉は静かに空中で回転し、そのまま――


 取り巻き三人の頭上へ落ちた。


「きゃっ!?」


「な、なにこれ!?」


「かゆい!?」


 三人は突然頭をかき始めた。


 黒い粉が髪や制服に広がり、顔まで痒くなる。本人たちは何が起きたのか理解できない。


「なんで私たちが!?」


「袋はちゃんと持ってたのに!」


「いやぁぁぁかゆい!」


 三人は完全に混乱し、慌てて寮の方へ走っていった。


 裏庭に静けさが戻る。


 俺は杖を下ろした。


「これでよい」


 嫌がらせの材料は消えた。本人たちはしばらく頭を洗うことになるだろう。大した怪我もないし、ほどよい戒めだ。


 そのとき、足音が聞こえた。


 裏庭の入り口に、少女が立っていた。


 リリアだった。


 彼女は少し驚いた顔でこちらを見る。


「法皇様?」


 どうやら登校途中でこの庭を通ったらしい。


 俺は軽く頷いた。


「朝の散歩じゃ」


 リリアは少し笑った。


「素敵ですね」


 彼女は花壇の方を見た。


「この庭、好きなんです。人が少なくて落ち着くから」


 俺は花壇を見た。


 色とりどりの花が咲いている。学園の庭師が手入れしているのだろう。


 リリアは少し遠慮がちに言った。


「昨日は……ありがとうございました」


 俺は杖をついた。


「学園は安全であるべきじゃ」


「はい」


 リリアは真剣に頷いた。


 その表情を見て、俺は静かに息を吐いた。


 ヒロインはヒロインらしく、まっすぐに育っている。


 これなら物語もきっと面白くなるだろう。


 遠くで授業開始の鐘が鳴った。


 リリアが慌てて振り向く。


「大変、遅れちゃう」


 彼女はぺこりと頭を下げた。


「失礼します、法皇様!」


 ◇


 王立学園の夕方は静かだ。


 授業が終わり、生徒たちは寮や街へ散っていく。昼間の喧騒が嘘のように落ち着き、校舎の廊下には柔らかな夕陽が差し込んでいた。


 俺は校舎裏の庭園をゆっくり歩いていた。


 杖をつきながらの散歩である。


 王立学園にはいくつか庭があるが、この裏庭は特に静かだ。花壇が整えられ、小さな池があり、木陰のベンチが並んでいる。昼間は生徒たちの憩いの場所だが、この時間になると人が少なくなる。


 老体にはちょうどいい。


「ふむ」


 俺は池のほとりで足を止めた。


 水面には夕焼けが映り、風が吹くと小さく揺れる。穏やかな景色だ。こうしていると、自分が異世界にいることを忘れそうになる。


 いや、忘れるわけはない。


 そんなことを考えていると、後ろから足音が聞こえた。


 ヒールの音だ。


 ゆっくり振り向く。


 そこにいたのは、金髪の少女だった。


 クロエ・ヴァルモンド。


 公爵家の娘であり、学園でもひときわ目立つ存在だ。


 クロエは少し驚いたように目を瞬かせた。


「……法皇様?」


 どうやらここに俺がいるとは思っていなかったらしい。


 俺は杖をついたまま頷いた。


「散歩じゃ」


 クロエは一瞬だけ言葉を失い、それから優雅に頭を下げた。


「失礼いたしました。こんな時間にお一人で」


「庭は静かで良い」


 俺は池の方を見た。


 クロエは少しだけ距離を保ったまま立っている。


 いつもの堂々とした雰囲気は薄く、どこか考え事をしているような顔だった。


 俺はその様子を見ながら言った。


「そなたも散歩かの」


 クロエは小さく肩をすくめた。


「……似たようなものですわ」


 言葉は丁寧だが、声には少し疲れが混じっている。


 昼間のクロエは、常に堂々としている。取り巻きに囲まれ、貴族の娘として振る舞い、誰に対しても強い態度を崩さない。


 だが今のクロエは、少し違った。


 俺はベンチを指した。


「座るかの」


 クロエは一瞬ためらったが、やがて静かにベンチに腰掛けた。俺もその隣に座る。池の水面が夕焼け色に染まっている。


 しばらく、二人とも黙っていた。


 沈黙を破ったのはクロエだった。


「……法皇様」


「なんじゃ」


 クロエは水面を見つめたまま言った。


「平民の少女のことですけれど、あなたはあの子を庇いましたわね」


「庇ったつもりはない」


「でも、あの言葉で皆の目が変わりました。平民も貴族も同じ学び舎の仲間……でしたか。綺麗な言葉ですわ」


 その声には皮肉が混じっていた。


 俺は杖の先で地面を軽く叩いた。


「気に入らぬか」


 クロエはすぐに答えなかった。


 池の水面を見つめながら、ゆっくり言う。


「この学園は、そんなに単純ではありません。貴族には貴族の立場があります。家の名誉、家同士の関係、王都の政治」


 それは確かにそうだろう。


 王立学園はただの学校ではない。貴族社会の縮図でもある。生徒たちは将来の政略や家同士の関係を背負っている。


 クロエは続けた。


「平民の子が一人入ってきただけで、周囲はざわつく。当然ですわ」


 俺はクロエを見た。


 彼女の横顔は、昼間の強気な表情とは違っていた。


「そなたはそれを止めたいのか」


 クロエは首を振った。


「いいえ。私はそういう役目ですから」


 役目。


 その言葉が妙に重く響いた。


 クロエは池の水を見つめたまま話す。


「公爵家の娘として、弱く見られるわけにはいきません。取り巻きもいます。皆、私が強くあることを望んでいる。だから私は強く振る舞うしかない。もし優しくすれば弱いと思われる。もし譲れば侮られる。だから、誰よりも高く立つしかない」


 夕風が吹いた。


 クロエの金髪が揺れる。


 その姿は確かに堂々としている。だが、どこか孤独な雰囲気もあった。


 俺は静かに言った。


「友人はおるか」


 クロエは少し驚いた顔をした。


「……いますわ。取り巻きの子たちが」


 少し間が空く。


「でも、皆私を見ています。公爵家の娘として、クロエ・ヴァルモンドとして」


 その声は、ほんの少しだけ弱かった。


「私自身を見てくれる人は……あまりいません」


 俺は池を見つめた。


 夕焼けが水面に広がっている。


「寂しいのう」


 クロエは目を細めた。


「……そう聞こえますか」


「聞こえる」


 クロエはしばらく黙っていた。


 やがて小さく笑う。


「法皇様は不思議な方です。普通なら、私のような者の愚痴など聞きませんわ」


 俺は肩をすくめた。


「老人は話を聞くのが仕事じゃ」


 クロエはくすりと笑った。


 それは今日初めて見る、少し柔らかい笑顔だった。


「……ありがとうございます」


 その言葉は小さかったが、確かに本音だった。


 夕陽が沈み始める。


 庭園の影が長く伸びていく。


 クロエは立ち上がった。


「そろそろ戻りますわ」


「うむ」


 クロエは一度だけ振り返った。


「法皇様。今日のことは……秘密にしてくださいませ」


「そなたが寂しい娘だという話か」


 クロエは一瞬だけ目を見開き、それから小さく笑った。


「ええ」


 そして優雅に頭を下げ、庭園を去っていった。


 俺はベンチに座ったまま、池の水面を見ていた。


 クロエ・ヴァルモンド。


 気位が高く、誰よりも強くあろうとする少女。


 だがその背中には、公爵家の娘としての責任と、周囲の期待と、そして孤独が乗っている。


 俺は小さく息を吐いた。


「なるほど」


 人の心というのは単純ではない。


 あの少女もまた、自分の役目を背負って生きている。


 そして俺は、その姿を少し離れた場所から見ている。


 老いた法皇として。


 夕焼けは完全に沈み、庭園に夜の気配が降り始めていた。


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