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ep.4

 王立学園の中庭は、少し前まで魔物騒ぎで混乱していたとは思えないほど穏やかだった。噴水の水音が静かに響き、生徒たちは遠巻きにこちらを見ながらひそひそと話している。俺の前ではリリアがまだ緊張した顔で立っており、その少し後ろには悪役令嬢クロエが優雅な姿勢でこちらを見ていた。


 そして俺はというと、杖をつきながらゆっくりと立っている。


 老体であることに変わりはない。だが、体の奥でうねる魔力は静かな海のように満ちていた。使おうと思えば、どこまでも広がる力だ。神代魔導大全という名前の通り、頭の中には膨大な魔法の知識が自然と存在している。


 そのとき、ふと空気が揺れた。


 ほんのわずかな違和感だった。普通の人間ならまず気づかない程度の魔力の波。だが俺の感覚には、はっきりと伝わってくる。


 学園の奥。


 地面の下。


 そこから、ゆっくりと濁った魔力が滲み出している。


 俺は目を細めた。


 中庭ではまだ教師たちが生徒の誘導を続けている。リリアもクロエも、他の生徒たちも、この異変には気づいていない。


「ふむ」


 小さく呟く。


 魔物の気配だった。


 しかも、先ほど消えた霧の魔物と似た質の魔力だ。つまり偶然ではない。どこかに発生源がある。


 王立学園の地下。


 ゲームの記憶を思い出す。


 地下には古い礼拝堂と、封印された魔術庫があったはずだ。通常ルートではそこに入るイベントはかなり後半になる。ヒロインが魔導師エリオのルートに進んだときにだけ、地下の封印が関わってくる。


 だが今は、まだ入学式の日である。


 本来なら、こんな魔力が漏れてくるはずはない。


 女神の勘違い転生の影響か、それともこの世界そのものが微妙に変化しているのか。どちらにせよ、放置しておくと面倒なことになる。


 俺は杖を軽くついた。


「少し歩くとするかの」


 近くにいた教師が慌てて反応した。


「法皇様? どちらへ」


「学園を少し見て回りたい」


 それは嘘ではない。むしろ本音だ。三百時間プレイしたゲームの舞台である。見て回らない理由はない。


 教師は深く頭を下げた。


「もちろんです。ご案内いたします」


 案内役の教師が前を歩き、俺はゆっくりとその後ろを進む。周囲の生徒たちは道を開け、敬意の視線を向けてくる。リリアは少し迷った様子だったが、友人らしき女子生徒に引っ張られて教室の方へ向かっていった。


 クロエは最後までこちらを見ていたが、やがてくるりと踵を返して取り巻きたちと歩き去った。


 中庭を抜け、校舎の廊下に入る。


 高い天井。磨かれた石の床。壁には王国の歴史を描いた絵画が並んでいる。ゲームの背景で見慣れた景色だが、実際に歩くとやはり迫力が違う。


 俺は歩きながら、さりげなく魔力を広げた。


 広い。


 王立学園の敷地はかなりの広さがある。だが俺の魔力感知は、そのすべてを覆うように広がっていった。


 そしてすぐに、異常の中心を見つけた。


 地下。


 礼拝堂のさらに奥。


 そこから濁った魔力がゆっくりと漏れている。


 教師が振り返った。


「こちらが図書館でして――」


「地下へ降りる階段はどこかのう」


 教師が少し驚いた顔をする。


「地下、ですか?」


「古い礼拝堂があると聞いた」


 教師は納得したように頷いた。


「さすが法皇様。よくご存じで。はい、地下礼拝堂はこの先です」


 案内に従って歩いていくと、やがて廊下の奥に石の階段が見えた。地下へと続く階段だ。冷たい空気がゆっくりと流れてくる。


 魔力の濁りも、ここからはっきり感じ取れる。


「ここで結構じゃ」


 俺は教師に言った。


「少し祈りを捧げてくる」


 教師は深く頭を下げた。


「承知しました。外でお待ちしております」


 俺は階段をゆっくりと降りていく。


 石段は古く、ところどころがすり減っている。地下礼拝堂に到着すると、ひんやりとした空気が広がった。


 小さな祭壇。


 古いステンドグラス。


 そしてその奥に、重い扉がある。


 魔術庫の扉だ。


 そこから濁った魔力が滲み出している。


 俺は扉の前で立ち止まった。


「なるほど」


 封印が弱まっている。


 原因はすぐにわかった。扉の封印術式が古いのだ。百年以上前の魔術だろう。今の時代の魔力の流れには合っていない。


 本来なら数年に一度は補修する必要がある。


 だが学園側はそこまで気づいていなかったらしい。


 その隙間から、地下に眠っていた魔物が滲み出した。


 俺は杖を軽く上げた。


 封印を直すのは簡単だ。神代魔導大全の知識を使えば、ほんの数秒で終わる。


 だがそのときだった。


 上の階から足音が聞こえた。


 誰かが階段を降りてくる。


 俺は振り向いた。


 現れたのは、一人の少年だった。


 金髪。


 整った顔立ち。


 王族の制服。


 第一王子レオンである。


 レオンは俺を見ると、すぐに姿勢を正した。


「法皇様」


 俺は少し眉を上げた。


「王子か」


 レオンは真っ直ぐこちらを見ていた。その目は鋭い。王族として育てられた者の視線だ。


「先ほどの魔物の件」


 レオンが言った。


「妙だと思いまして」


 俺は黙って聞く。


「魔力の痕跡を追ったところ、この地下に繋がっていました」


 ほう、と心の中で感心する。


 ゲームでもレオンは観察力の高いキャラだったが、現実でもその通りらしい。


 レオンは扉を見た。


「封印が弱まっていますね」


「よくわかるのう」


「魔法の訓練は受けていますので」


 レオンは少し考え、それから言った。


「直しますか」


 俺は杖をついた。


「もう終わる」


 そして静かに魔力を流す。


 扉の封印術式が淡く光り、ゆっくりと組み替わっていく。古い魔法陣が新しい構造に書き換えられ、濁った魔力の流れが止まった。


 地下の空気が静かに落ち着く。


 数秒の出来事だった。


 レオンはしばらく無言でそれを見ていた。


「……見事です」


 短い言葉だったが、素直な感想だった。


 俺は杖を下ろす。


「古い封印じゃった」


「それを一瞬で直すのは普通ではありません」


 レオンは少し笑った。


「さすが法皇様です」


 地下の魔力は完全に止まっていた。これで今日の騒ぎは終わりだろう。


 俺は階段の方へ向かう。


 レオンも隣に並んだ。


 階段を上がりながら、レオンがぽつりと呟く。


「入学式で起きた奇跡」


 俺は黙って聞く。


「そして今の封印修復」


 レオンは少しだけ笑った。


「王都は守られているようですね」


 俺は杖をつきながら歩いた。


 学園の廊下には再び平穏な空気が戻っている。生徒たちの声が遠くから聞こえてきた。


 物語の舞台は動き始めたばかりだ。


 ヒロイン。


 攻略対象。


 悪役令嬢。


 そして俺は、そのすべてを眺める立場にいる。


 ゆっくりと息を吐く。


 この乙女ゲームは、まだ序章だ。


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