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ep.2

 王立学園の入学式――それは乙女ゲーム『聖なる乙女と七つの聖約』の物語が本格的に始まる、いわばスタート地点のイベントだ。ヒロインのリリアが初めて王立学園の門をくぐり、攻略対象たちと出会い、そして悪役令嬢クロエに目をつけられる。プレイヤーとして何度も見てきた場面だ。三百時間のプレイ歴を持つ俺にとっては、もはや自宅の玄関くらい見慣れたイベントと言ってもいい。


 だが今、その場所に――


「魔物が出た?」


 俺は教会の長椅子に腰を下ろしたまま、報告してきた神官を見下ろした。いや、見下ろしたというより、老眼気味の目を細めて頑張って見ているというのが正確だが。


「はい、法皇様! 王立学園の入学式の最中、突然魔物が出現したとのことです!」


 神官は汗だくだ。そりゃそうだろう。王立学園は王都のど真ん中にある。しかも今日は入学式。貴族の子弟が集まる大イベントだ。そこに魔物が出たとなれば、国中が大騒ぎになる。


 だが俺の頭の中には、別の疑問が浮かんでいた。


「……そんなイベント、ゲームには無かったぞ」


 俺はぽつりと呟いた。


 乙女ゲーム『聖なる乙女と七つの聖約』の入学式イベントは、もっと穏やかなものだ。リリアが緊張しながら校門をくぐり、そこで第一王子レオンとぶつかりそうになり、ツンデレ気味の第一印象イベントが発生する。そのあと騎士団長ガイルと出会い、さらに魔導師エリオと図書館イベントに繋がっていく。要するに、攻略対象の顔見せ回だ。


 そこに魔物など出ない。


 出るわけがない。


 ……普通なら。


 俺は遠い目をした。


「女神のやらかしか」


 間違いない。あの天然女神が、また何か変なことをしたのだろう。TSをTough Saintと勘違いするような奴だ。ゲームイベントを一つや二つ壊していてもおかしくない。


「法皇様! どうされますか!」


 神官が焦った声で言った。


 俺はゆっくり立ち上がる。


「よっこいしょ」


 その瞬間、膝がバキッと鳴った。


 神官たちが悲鳴を上げる。


「法皇様!? 大丈夫ですか!?」


「うむ……年寄りには少々つらいのう」


 魔力は無限だが、体は七十二歳。これが現実である。俺は膝をさすりながら、内心でぼやいた。


(女神め……TSじゃなくてジジイにするなら、せめて膝くらい新品にしてくれ)


 とはいえ、状況は放っておけない。王立学園の入学式で魔物が暴れれば、ヒロインどころか攻略対象たちまで危険にさらされる可能性がある。それに、ここで俺が動けば――


「ちょうどいい」


 俺は小さく笑った。


 陰からイベントを調整する。ゲームを観戦するつもりだったが、舞台装置の一つとして少し手を入れるくらいなら問題ないだろう。


「王立学園の様子は見えるかの?」


「は、はい! 聖視の水晶があります!」


 神官が慌てて水晶玉を持ってきた。教会に設置されている監視用の魔道具だ。俺がそれに軽く魔力を流すと、水晶の中に映像が浮かび上がった。


 そこには王立学園の中庭が映っていた。


 大勢の生徒が悲鳴を上げながら逃げている。その中央には、黒い霧のような魔物がうごめいていた。


「ほう」


 俺は眉を上げた。


 見覚えのない魔物だ。スライムでもゴブリンでもない。むしろ、形が不安定で、霧の塊のように揺らいでいる。


(……これ、ゲームの魔物じゃないな)


 俺は少し真面目な顔になった。


 そのとき、水晶の端に一人の少女が映った。


 栗色の髪。素朴なワンピース。怯えながらも、必死に周囲を見回している。


 ――リリア。


 ヒロインだ。


 俺は思わず身を乗り出した。


「おお、本物だ」


 三百時間プレイしてきたヒロインが、今まさに目の前にいる。いや、水晶越しだが。なんというか、感動する。


(うん、可愛いな)


 ゲームの立ち絵より可愛い気がする。いや、たぶん俺の補正だろう。だがそんなことを言っている場合ではない。


 魔物がゆっくりとリリアの方へ漂っていく。


「まずいのう」


 俺は杖を握った。


 魔力が体の中でうねる。無限と表示されていたが、実際に感じるととんでもない量だ。例えるなら、ダムを体の中に抱えているような感覚だろうか。


(しかし、派手にやるのはまずい)


 俺の目的はヒーローになることではない。あくまで陰からイベントを守ることだ。だからやることは一つ。


「ちょいと消えてもらおうかの」


 俺は小さく呟いた。


 魔法陣も詠唱も必要ない。神代魔導大全とかいう物騒なスキルのおかげか、魔法の知識が頭の中に直接流れ込んでくる。


 俺はその中から、一番シンプルな魔法を選んだ。


 そして杖を軽く振る。


「浄化」


 その瞬間。


 王立学園の上空に、目に見えない光が降り注いだ。


 黒い霧の魔物が、一瞬ぴたりと動きを止める。


 次の瞬間――


 シュウウウウ……


 煙のように消えた。


 それだけだった。


 爆発も雷もない。静かに、ただ消えただけだ。


 俺は椅子に座り直した。


「終わりじゃな」


 神官たちはぽかんとしている。


「え?」


「今の……」


 そのとき、水晶の映像が騒がしくなった。


 学園の生徒たちがざわついている。


「消えた……?」


「魔物が……消えたぞ!」


「奇跡だ!」


 俺は遠い目をした。


(いや、ただの浄化魔法なんだが)


 だが周囲の反応は完全に違った。


 王立学園の教師たちが慌てて空を見上げる。


「今の光は……」


「まさか……」


 一人の教師が震える声で言った。


「法皇の加護……?」


 その言葉を聞いて、周囲がざわめく。


「法皇様が守ってくださったんだ!」


「賢老の奇跡だ!」


「ありがたや!」


 俺は頭を抱えたくなった。


(いや、ちょっと魔法撃っただけなんだが)


 だが、まぁいいだろう。むしろ好都合だ。俺が陰から動いたことは誰にも知られていない。奇跡扱いならそれでいい。


 水晶の中では、リリアが胸に手を当てて空を見上げていた。


「……神様、ありがとうございます」


 俺は思わず苦笑した。


(いや、それ俺)


 ……まぁ、神の代理人みたいなものだから、あながち間違いでもないのかもしれない。


 そのとき、水晶の中にもう一人の人物が映った。


 金髪の少年。整った顔立ち。少し不機嫌そうな表情。


 第一王子レオンだ。


 レオンは空を見上げながら、低い声で言った。


「今の魔力……」


 隣にいた教師が言う。


「やはり法皇様の奇跡でしょうか」


 レオンは少し黙り、それから小さく呟いた。


「……なるほど」


 俺はその様子を見ながら、にやりと笑った。


 ゲーム知識がある俺にはわかる。レオンはこういう不可解な出来事を妙に気にするタイプだ。


(ほう、気づいたか)


 とはいえ、まさか俺の仕業だとは思わないだろう。


 俺は椅子に深く座り直した。


「さて」


 乙女ゲームの舞台は整った。ヒロインも無事。攻略対象も健在。入学式イベントも、多少のトラブルはあったが無事に終わるだろう。


 そして俺は、教会のジジイ法皇。


 陰からそれを眺めるだけの観客。


 ……のはずだった。


 そのとき、神官がまた慌てて駆け込んできた。


「法皇様!」


「なんじゃ、また魔物か?」


「い、いえ!」


 神官は息を切らしながら言った。


「王立学園から使者が来ております!」


 俺は首を傾げた。


「使者?」


「はい! 入学式を救った奇跡について、ぜひ法皇様にお礼を申し上げたいと!」


 ……あ。


 俺は天井を見上げた。


(やっぱりそうなるか)


 どうやら、陰からこっそり無双するのは、そう簡単ではないらしい。


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