―1―
早朝。
蔀戸の外にはまだ夜の名残が貼りついていて、東の空だけが薄く藍にほどけはじめていた。
北の対のあたりには、どこかの竈で焚いた煙の残り香が、ふわりと漂っている。
「起きて、紅葉」
枕元を容赦なく叩かれて、呉葉はうっすらと目を開けた。冷えた朝の空気が、肌にまとわりつく。
「……まだ暗いじゃないか」
「急いで」
藤の声が切羽詰まっている。すでに袿まで羽織っていて、髪もきちんとまとめてある。
あくびを噛み殺しながら、呉葉はむくりと起き上がった。
「え、なんで頭に布巻いているの?」
「あ……や、これは」
胸がひゅっと縮んで、とっさに布を押さえる。ずれたら困る――それだけで、喉がきゅっとなる。
「髪が、その、傷まないようにって……」
胸の鼓動が、とくん、耳に響く。
誤魔化すような言い方に聞こえてないだろうか。ちらっと藤の様子をうかがう。
「そうなんだ。……でも、本当に時間がないの」
藤は特に気にした様子もない。呉葉は胸のつかえがほどけて、ふうっ、と息をこぼす。
大きく伸びをしながら立ち上がる。袖口を整え、崩れた小袖と袴を直す。
「ちょ、衝立の裏で」
「あ、うん」
もそもそと衝立の裏に移動する。
「手伝う?」
「いい」
短く答えて、帯をきゅっと締め、袿に袖を通す。
頭布に指をかけたところで、呉葉は耳をそばだてた。
衝立の向こう。藤はばたばたと、棚を開け閉めしている。急いでいるのか、音が荒っぽい。
さっと頭布をはずし、手早く髪をまとめる。
まとめた髪で輪を作るようにして、左右の耳の上で丸く結わえる。
母に教えてもらった結び方。上手にできた、と思う。
輪にした髪の余った部分を、後ろで縛ろうとしていたとき。
「あ、待って」
急に藤が衝立から顔をのぞかせた。呉葉はぎょっとして固まる。
心臓がひゅんと跳ねて、背中が冷える。
「な、なに?」
髪を両手で押さえたまま、藤に声を返す。
「その紅い紐、綺麗だけど目立ちすぎるから」
藤は白い紐を差し出した。
「結んであげる」
藤が呉葉の後ろに回った。
呉葉は輪っかの根元を抑えたまま、ぼやいた。
「そんなことまで、気にしないといけないのか」
「うん。身分によって使える色も決まっているから」
藤の手つきはやわらかいのに、迷いがない。髪をすくい、きゅっと結い、ほどけないように留めていく。
とても優しい手つき。
「その束ね方、変わってるけどかわいいね」
「ありがとう」
後ろ髪に触れる。乱れもなく、丁寧にまとめられているのがわかる。
「あれ、紅葉の厨子棚は?」
紅い紐を手にしたまま、藤の目が床の上をさっとなぞった。
呉葉は首を振る。葛籠はひとつだけ持ってきたが、それだけだ。
「あとで買ってくれるって、経基……じゃない、殿が言ってた」
「……そっか。じゃあこれは一旦、私のに入れておくね」
藤は呉葉の紅い紐を自分の厨子棚へしまう。
「さ、早く」
藤の声が、また張り詰めた調子に戻る。
◇◆◇◆◇◆◇
藤に連れられ、局の間へ入っていく。
「ここ、入っちゃダメな場所じゃないのか?」
昨日教えてもらったことを思い出して、小声で藤に尋ねる。藤は小さく首を振った。
「今日は局まわり整えの当番だから」
「局まわり整え?」
呉葉は小首をかしげた。また知らない言葉だ。
「うん。常陸の方さまがお越しになる前に、座や御香の支度をするの」
「なんか、雅っぽいな」
つい、顔がゆるむ。御香の支度だなんて、都の“雅"そのものだ。
しかし藤は眉をひそめる。
「それどころじゃないの。急いで」
縁側にはすでに下女が何人か控えていた。藤は抑えた声で指示を飛ばす。
「几帳をつけ替えて。それから文机まわりの品も」
下女がすぐに動き始める。几帳を隣の間へ。そして肘置きや硯箱を並べていく。
「わざわざ隣の間へ動かすのか?」
「今日の方角は、酉だから」
「……酉?」
「日によって吉とされる方角があるの。常陸の方さまはその方角の間でお仕事をなさるから、あらかじめ用意しておくのよ」
方角。
またよくわからない言葉が出てきた。
「いろいろ、細かい決まりがあるんだな」
呉葉は肩をすくめる。
(けど)
拳をぐっと握る。
一生懸命働いて成り上がる。こういうことは、働きながら覚えればいい。
(体を動かすのは、嫌いじゃない)
呉葉は、手近にあった大きな厨子棚を持ち上げた。
「……え?」
藤が目をぱちぱちさせる。下女たちの手も止まった。
「このあたりでいいか?」
棚を隣の間へ運び、床に置く。
どすん、と低い音。そばにあった香炉の灰がふわっと舞い上がった。
「っ、静かに……って、そうじゃなくて」
藤が慌てた声を出して走り寄ってくる。
「私たちはどこに置くかをわかっていればいいの」
「でも急ぐんだろ?」
呉葉はきょとんとした。
藤の目が困ったように揺れる。
「そう、だけど……」
話しているそばから、呉葉はどんどん荷物を運んでいく。藤は息をもらし、頭を抱えそうな顔になった。
「女房が自ら力仕事なんて……聞いたこともない」
見ていた下女たちは、ひそひそとささやきあう。
「あれが新しい女房?」
「品のない……」
「男より力があるんじゃ……」
藤がきっ、と睨みつけると、下女たちはおしゃべりをぱたっと止めた。
「これで最後?」
文机をそうっと床において、藤を振り返る。藤は眉根を寄せたまま、肩を落とした。
「うん。助かった……けど──」
そのとき。
庭の方でごごん、と鈍い音が響いた。続いて牛の鳴き声。
藤も呉葉も同時に顔を向ける。
庭には、牛車。その車輪が庭石のくぼみに落ち込んでしまっていた。
下男たちが必死で牛車を押しているが、動く気配はない。
「大変……殿の出仕に間に合うと良いけど……」
藤が眉をひそめてつぶやく。
牛が暴れ、牛車が倒れそうになる。御者が下敷きになりかけて悲鳴をあげた。
見ていた下女たちも悲鳴を上げる。
「……っ!」
考えるより先に、体が動いていた。呉葉は縁側を飛び降り、庭へ走り出す。
「え、ちょっと」
藤の制止の声。──今は、それは後回しだ。
倒れかけた牛車を手で支え、ぐいっと持ち上げる。車輪が軋む。
「大丈夫か?」
呉葉が声をかけると、御者が転がるように這い出してきた。
後ろで見ていた下男たちのつぶやきが耳に入る。
「なんという怪力」
「本当に人か……?」
胸の底が、ぎゅっと締まる感覚。
聞き慣れた単語。恐れの混じったざわめき。
……しまった、と思った。
でも、もう遅い。
(それに)
怖がられても、見捨てるよりはずっといい。後悔は、ない。
「よっ、と」
車輪をくぼみから外し、平らな場所へ下ろす。牛がようやく落ち着いてくれた。
下男たちはお礼も早々に、逃げるように去っていく。
縁側から上がり、几帳の内側へ戻る。
下女たちが怯えたように後ずさる。その中のひとり、赤い腰紐をつけた下女が奥へ走っていくのが見えた。
ちくりと肺が痛む。
けど、いつものことだ。
里にいたときも、そうだった。感謝の言葉より、恐れの言葉のほうが先に出てくる。
(こんなの、慣れてる)
そう思っていても、胸の砂はきしきし鳴る。
「なに……今の」
藤が呆然とした顔をした。
しかしすぐに気を取り直して、呉葉のそばに足早にやってくる。
「っていうか」
藤はさっと呉葉の袖を掴む。
「下男たちがいるのに女房が自分から出ていくなんて……!」
「あー……」
忘れてた。
そういえば、顔を見せたらダメ、って言われてたっけ。
呉葉は自分の鼻を指でかいた。
「でも、あのままだと大怪我してた」
「それは……そう、だけども」
藤は言葉を飲み込み、目線を落とす。
そしてすぐに、呉葉の目を見た。
「でも、次からはやらないで。……局の中は下女の仕事、外の牛車は下男たちの仕事だから」
藤は呉葉の袖を掴んだまま、強い口調で言った。
「藤は怖がらないんだな」
「え?」
呉葉は口をぽかんと開けたまま藤を見た。
藤は目を瞬かせる。
もっと怖がられるかと思った。あるいは遠ざかっていくんじゃないか、と。
でも、どちらでもない。
藤は少し眉を寄せた。
「怖い、っていうか……驚きはしたけど」
そして、まっすぐ呉葉の顔を見る。
「でも、今はそれどころじゃないから」
真剣な表情。
(……アタシより、怖いものがあるんだ)
それは、不思議な感覚だった。
自分が、特別じゃない扱いをされた気がして、胸が軽くなった。
「わかった」
呉葉は、うなずいた。




