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「これは、アタシが会津から来たときにつけていた紐だ」
呉葉は匂い袋の紐を指先でつまみあげ、高くかざした。
手触り。
初めてつけてくれたときの、母の指先。
それを思い出す。
「目立つといけないからって、藤が白い紐に取り替えてくれたんだ」
「……それが、なにか?」
低く冷たい声。
藤の表情は扇の影で見えない。
それなのに空気はぴりっ、と張っている。
呉葉の喉が鳴る。
「藤に預けたまま、忘れていた。それが、どうして匂い袋の紐とすり替わっているんだ?」
「わたしが知るわけがないでしょう」
藤が睨みつけた。
白砂の庭はやけに明るい。なのに呉葉の胸の中には、暗い火が燃えている。
呉葉はまっすぐに藤を見上げた。
「いいや。あんたは知っている」
維茂が間を切った。その視線は、まっすぐに藤を刺している。
維茂は、経基、御母堂、そして背後の女房たちの顔を順番に眺めた。
維茂はさらに続けた。
「木の呪詛人形に書かれていた『常陸』の文字。
もし、呉葉が藤の文字の癖を真似たんだとしたら、自分の匂い袋の紐を呪詛人形に使う意味がわからない。
沈香の匂いから秩父を疑わせるなら秩父の字を真似るはずだ」
誰かがごくり、とつばを飲み込む。
「ところが、あんたは紅葉から預かった紐のありかを知っていた。匂い袋がどこにあるかも知っていた。紅葉が練習した文字の紙も、手にできた。
そして──」
庭が静まり返っている。
誰ひとり、言葉も、音も、発しようとしない。
維茂は、はっきりと告げた。
「紅葉の紐と匂い袋の紐をすり替え、紅葉の書いた紙を、紅葉の葛籠に仕込むことが出来た人物。
それは、あんただけだ」
「…………っ」
藤は口をひらきかけて、言葉を失った。
扇の骨がきしむ音が、呉葉には聞こえた気がした。
「お、同じ色なだけで、紅葉の紐とは限らないでしょう?」
藤が声を絞り出す。
すかさず呉葉は返した。
「いや、アタシのだ」
「どうしてそう言えるの!」
藤が叫ぶように声を荒げた。
呉葉はすうっと息を整えた。
そして大きく目を開き、藤を見据えた。
「この紐、端っこのほうがちょっとだけ青いだろ?
……見えなかったら、家司に確認してもらってくれ」
指で端をひねって見せる。光が当たったところだけ、青が滲む。
「母が染めるのに失敗したんだ。だから、わかる。……これは、アタシの紐だ」
藤の顔から色が抜けたように見えた。
次の瞬間庭の砂のように、真っ白になる。
女房たちの肩が揺れ動き、ざわめきが波を打つ。
「まさか……」
「藤の方さまが?」
ひそむ声。藤の扇を持つ手が震える。
藤は後ろへ威圧するような視線を向けた。しかし、ざわめきは収まる気配がない。
藤はじっと呉葉を見た。続いて、ぱっと経基へ向き直る。
「濡れ衣です!」
経基の目が藤のほうを向いた。
冷たい、乾いた目。感情の入る隙間がない視線。
藤の喉が、ひゅっ、と鳴ったのがわかった。
「わ、わたしはただ……家を守るために──」
すがるように藤は声を上げた。
「お前の実家のある下総は、今年はひどい不作だそうだな」
維茂が横から差し込む。
刃のように静かで冷たい声。
藤の目が大きく見開かれた。
「オレも同じ坂東の生まれだ。あのあたりのことは、よく知ってる。……あんたの家は、先の戦乱で敗北した側にいたよな?」
藤の目が必死に言葉を探してさまよう。
「だが、その家は持ちこたえている、と聞いた。あんたが局の要になったことで仕送りが増えたんだろう」
維茂は静かに目を伏せた。
藤の目は大きく見開かれたまま、止まる。
「常陸がいなくなったあと。
次の局の要候補である秩父と、経基のお気に入りである紅葉の両方を追い出す。
そうなれば、自分が追い出される不安もなく、それどころか局の要にもなれる。
──それが、藤の狙いだったんだ」
「違い、ます……」
藤はかすれた声を落とした。
「そんな恐ろしい真似、わたしにできるはずがありません」
そして顔を伏せ首を横に振る。
かと思うと顔をばっと上げた。
経基に向かって必死に叫ぶ。
「殿、今すぐ維茂さまを命令違反で処罰してください! これは明らかな朝廷の討伐令違反です!」
「藤」
経基が目も合わせずに、低く落とした。
その一言だけで、藤がびくっと黙る。
「維茂の言い分を、返せるなら返して見せよ」
藤は呼吸の仕方を忘れたように黙り込んだ。
扇を持つ腕がだらりと下がり、うなだれたまま動けない。
女房たちも、御母堂も、ただじっと、藤を見つめるだけだった。
やがて経基が静かに告げた。
「藤に尋ねる。
秩父の方に呪詛の冤罪を仕かけ、紅葉の方にその罪をなすりつけたと考えていいのだな?」
藤の指先がかすかに震えた。
扇がぽとり、と床に落ちる。
「……お待ち、ください」
か細い声。
「わたしは、そのようなことは……」
「していない、というのか?」
淡々と経基は重ねる。
「では誰がやったというのか。説明してみせよ」
藤の喉が詰まる。
目はうつろに下に落ちたまま、言葉が出てこない。
「わたし、は……」
藤は喉から声を絞り出した。
「しんじて……ください。わたしは、本当に、家のために──」
「あなたの言う家とは、当家のことですか。それとも、あなたのご実家のことですか?」
穏やかな声で、御母堂が刺した。
藤は体をぴくっとさせて、口を止めた。
「……答えられないということは、そういうことなのだな」
経基の声が、冷たく突き刺さった。
女房たちは、しん、と静まり返っている。
御母堂も目を伏せたまま、下を向いて黙り込んだ。
「藤」
呉葉は声を出した。
ただまっすぐに藤を見る。
「どうしてこんなことをしたんだ」
藤はうなだれたまま、肩を小さく震わせていた。
呉葉の喉の奥が熱くなる。
怒り。寂しさ。痛み。
いろんな感情が一気に押し寄せてくる。
藤がようやく視線を上げる。
泣きそうな、弱々しい目。
その目の奥を呉葉は探る。
優しかった藤を。仕事を教えてくれた藤を。
厳しいけれどずっと見てくれた藤を。
胸の奥底が、爆発しそうに熱い。
「都に来てなにもわからなかったアタシに、藤はいろんなことを教えてくれた。
藤がいてくれたから、アタシは都でがんばろうって思えたんだ。
なのにどうして──」
「……あなたに」
ぽつりと藤がこぼす。
その目に光が宿っている。
……とても、暗い光が。
藤のやさしさの奥。ずっと隠してきた、濁り。弱さ。あがき。
その中身が、割れて飛び出している。
「あなたに、滅びかけた家の辛さなんかわからない」
藤は呉葉をにらみつけた。
「戦で負けた側についてしまった家の、荒れた領地に手もつけられない貧しさも、泥の中に踏みつけられる悔しさも!」
「わからない」
呉葉は即答した。
それでも目はそらさない。
「けど、アタシならそんなことを理由にしない」
藤の瞳が揺れる。
「アタシなら、つらい過去も、しんどい思い出も、間違ったことをする言い訳に使ったりしない」
胸が痛い。
それでも呉葉は言葉を止めなかった。
「自分に言い訳なんかしてたら、間違ってるのがわかってたら、戦えない。
アタシは、自分が正しいと思えることをしたいから」
呉葉の言葉が、庭の白砂の上に、静かに落ちた。
藤は固まった。
そして床に倒れ伏した。




