―3―
夕餉の時間になった。
主の帰還を寿ぐ宴、ということで、寝殿には白い几帳が並べられている。
庭を下女たちが膳や瓶子を持ってせわしなく行き交う。
煮物や焼き魚の匂い。木の器の乾いた音。昼間に比べればずっとにぎやかだ。
呉葉は藤と一緒に配膳の手伝いに追われていた。
下女たちが厨から運んできた膳を、渡殿の端から寝殿へと運んでいく。
家でも膳を運ぶのはやっていた。
でも、ゆったりした袖だと膳に引っかけそうになるし、長い裾は気をつけないと踏んで転びそうになる。
しかもやたらと渡殿が長い。
せめて袖と裾を紐で括りたい。でも、ほかの女房はそんなことをしていない。
呉葉が歩くとばたばたと音がするのに、みんなはするすると袴をすべらせるように、音を立てずに進んでいく。
(これが、都──)
こういうのが雅っていうことなのか、と呉葉は思った。
でも、やってみるのはすごく難しい。
一通り宴の支度が済んだ頃。
誰かが合図をしたようにも見えなかったのに、女房たちはさっと列を整えた。
藤に袖を引かれるまま、呉葉もその端に並んだ。
そして。
奥の間から、経基が入ってきた。
明るい藍色の直衣。扇で口元を隠し、優しい目元だけをのぞかせている。
呉葉が声をかけようとしたとき、女房たちが一斉に頭を下げた。手を膝に添えて下を向く。波が来るような同じ動きだ。
藤も同じようにしているのを見て、呉葉もあたふたと真似をする。
経基が近づいてくる。
声をかけようか。でも、いいんだろうか。
だれも声を出していない。しゃべったらいけないんだろうか。
頭の中がこんがらがってくる。
目の前で経基の足が止まった。
「紅葉。どうだ、都は」
ふいに声をかけられる。
(なんだ、しゃべってよかったのか)
呉葉はほっとして、顔を上げた。
「あー……うん。なんだか息苦しい。変わってるな、ここ」
その瞬間、横にいる藤が息をのんだ。他の女房たちもざわついている。
「そうか。お前らしいな」
笑いを含んだ声。経基は目尻を上げる。
「苦労はするだろうが、はげめよ」
「わかった」
そのまま経基は歩み去っていく。
呉葉はその背中をぼんやり見送った。
(忘れられてたわけじゃなかったんだ)
胸につかえていたものが、少しだけ軽くなる。
ほっ、と息を吐いて、気づく。
……他の女房たちから、まるで刺すような視線を向けられている。
扇の陰で交わされるひそひそ声が、無数の虫の羽音のように呉葉の耳にまとわりついた。
えっ、と戸惑っていると、ぐいっと袖が引かれた。
「なななんで顔上げたの」
藤の声が震えている。顔色が真っ青だ。
「え? ダメだった?」
「いいって言われるまで上げたらダメなんだよ」
「そうなのか」
これも都のしきたりなんだろうか。
この視線はそれでか、と納得する。
でも知らないんだから仕方ないじゃないか、と心のなかでぼやく。
「言葉遣いもダメだし、それに息苦しい、だなんて……」
「だって本当のことだし」
「本当でも、そんなこと言ったらダメなんだよ」
藤は、今にも泣きそうな顔。
「都はダメなこと多いんだな」
呉葉はため息をついた。
なにもかも禁止されているような気がして、息が詰まる。
けど。
まわりからどう見られようが、関係ない。少しずつ覚えていけばいい。それだけだ。
(アタシはアタシのできることをやるだけだ)
呉葉は顔を前に向けた。
藤はかすかに肩を震わせたあと、細く息を吐いた。
「殿に声をかけていただけるなんて……それだけで畏れ多いことなのに」
◇◆◇◆◇◆◇
やがて宴が始まった。
寝殿の北側にある広間には経基たち。
そこから続く渡殿に、女房たち用の膳が用意されている。
藤と呉葉はその隅っこに座る。
呉葉は遠慮なく焼き魚にかぶりついた。
都についてからなにも食べていなかった。おかげで、お腹がさっきから鳴りっぱなしだった。
「なんか味付け薄いし、量も少ないな」
強飯をほおばりながらつぶやく。
ふと隣を見ると、藤の手は箸を持ったまま止まっていた。
「藤、食べないのか?」
「う、うん……」
そのまま箸をおいてしまう。
「……あんなに注目されて、紅葉は怖くないの?」
「べつに」
呉葉は、小魚を頭からかじりながら答えた。
「言いたいヤツは好きに言わしておけばいい。そんなの昔から慣れっこだ」
藤が信じられないものを見るように目を瞬いた。
「……そう、なんだ」
その声がやけにか細い。
隣の広間から笑い声が聞こえてくる。
呉葉はそっちに頭を向けた。
経基のかたわらには、左側に常陸が座っているのが見えた。右側には、華やかな装束の見知らぬ女房。
若く、笑う声に華がある雰囲気だ。
「あれは?」
囁くように藤に尋ねる。藤はさらに小声になって答えた。
「秩父の方さま。殿のお気に入りの方なんだけど……常陸さまとは、あまり……」
そのまま声が消え入る。
「この度は無事のご帰還、まこと喜ばしいことでございます」
袖で顔を半分隠し、秩父が声を弾ませる。
経基にそっと寄り添うように、体を傾けている。
「長旅ではあったが、収穫はあった」
経基が盃を飲み干す。
「それはよいことでございましたな」
常陸が盃に酒を注ぐ。所作の一つ一つがなめらかで、無駄がない。
「聞けば、会津には鬼の住む山があるとか」
甘えるような秩父の声。
その単語が耳に入って、呉葉の体が一瞬こわばった。
秩父に目を向ける。
秩父は経基に笑顔を向けているだけだ。こっちを気にかけている素振りすらない。
それを確かめて、呉葉はほっと肩の力を抜いた。
「鬼かはわからないが、面白いものは見れた」
経基は笑った。
袖で顔を半分覆いながら、秩父は怯えた顔をしてみせる。
「まあ、恐ろしいものでございますか」
「いや」
経基が軽く笑う。
「会津では気の早い紅葉が見られた。それだけでも収穫だったよ」
「それで、あのような娘を」
常陸と目が合う。
針で刺すような鋭さ。こんなに離れているのに、体が縮こまる。
隣の藤が呼吸を止めたのがわかった。
「少々物好きが過ぎませんか」
常陸が低い声でたしなめる。
経基は苦笑する。
「なに、お前なら作法や教養を身につけさせることもできるだろう、と思ってな」
「まあ、お上手な」
口元を隠して、常陸が笑う。
次の一瞬、常陸がちらっと秩父を見る。秩父はきっ、と眉を寄せて視線をそらす。
「ともあれ、よろしく頼む」
「お任せください」
常陸は軽く笑みを浮かべた。
「ああもう……こんなに目立っちゃって……」
藤が小さくつぶやく。
「気にしすぎじゃないか」
呉葉は食べ終えてから言った。
魚の骨も米粒一つ残していない。
しかし藤は、まったく手をつけていない。
「わたしは、すごく怖い……」
藤はうかがうように広間に顔を向ける。それを追って、呉葉もそっちに視線を向けた。
一瞬、秩父と目が合う。
探るような、試すような、そんな目つき。しかし、それはすぐに経基に向けた笑顔に紛れて消える。
藤が、ぽつりとこぼした。
「ここは……言葉だけでも、人が死んでしまう場所だから……」




