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―2―

 北の対。南側に向いた局の間。


 藤は扇を開いては閉じ、閉じては開いていた。

 畳の上に落ちる影が、落ち着かない。


(絶対、紅葉は戻ってきている)

 そうでなかったとしても、そう考えて備えておくしかない。

 違っていたのなら、それはそれでいい。


 だいたい、維茂が討伐から戻ってまっすぐ屋敷に来るのはおかしい。

 首を持ってくるだけなら近習に届けさせればいいはずだ。

 武門の作法? そんなもの本当かどうかわかったものではない。


(やっと……ここまで来たのに)

 藤は手をぎゅっと握りしめる。

 局の要に任じられてから、実家へ送れる金は増えた。

 この冬を越すだけならなんとかなる。

 ……でも、足りない。再興にはまだ遠すぎる。


 あとは私が室に選ばれれば。

 そうすればすべてが成る。

 あと一手。

 手が届くところまで、ようやくたどり着いたというのに。

(どうして、ここで戻ってくるの──)


 藤は苛立ちを噛み殺し、親指の爪を噛んで……はっとして止めた。

 近くに控えている下女が不安そうにこちらを見ている。


 さっと扇で口元を隠し、藤は静かに息を整えた。

(大丈夫)

 心の中で言葉にする。

(もし維茂さまが紅葉を匿っていても、朝廷の命に背いた、と追求できる)

 それに、呪術を見られた、という事実はひっくり返せない。

 紅葉が"恐ろしい鬼女"という噂は、もう止められない。

 藤は扇を握る手に力を込めた。

 骨がきしむほどに。


(それに打てる手はあらかじめ打ってある。抜かりはない)

 何度も胸の内で繰り返す。

(全部うまくいく)


 藤は目を閉じた。



◇◆◇◆◇◆◇



 翌朝。

 寝殿の大広間。

 藤はじっと前庭を眺めていた。

 秋の風が吹き、白砂の上を転がる落ち葉が乾いた音を立てる。

 朝の冷えた空気が、藤のほほを撫でていく。


 大広間の縁側には几帳が立てられ、そのすぐ内側に経基が座っている。

 後ろには女房たち。

 御簾の外、縁側には家司が控えている。


 ふと藤は顔を渡殿へ向けた。御簾の向こうから鈴の音と衣擦れが聞こえてくる。

 朽葉の落ち着いた色目の衣装。経基の御母堂が、ゆったりと姿を現した。


「……なぜ急に?」

 経基はゆるりと体を向けて、少しだけ驚いた表情をした。御母堂はにっこりとほほ笑んだ。

 藤は口元を隠したまま、経基に向かって穏やかに頭を下げた。

「わたしがお呼びいたしました」

 やわらかな調子で藤は言った。


「当家を騒がせた鬼女の話を申し上げましたところ、御母堂様が」

「そんな恐ろしい鬼女がいたとは知りませんでした」

 御母堂はにっこりとほほえみ、経基の横に来る。

 藤は御母堂に頭を下げて、続ける。

「鬼女が倒されたことをきちんと確かめていただければ、御母堂様もご安心くださるかと存じました」

「しかし母上」

 経基はわずかに眉をまげ、困惑したように御母堂を見る。

 御母堂はにっこりと微笑んだ。

「かまいません。世にも恐ろしい鬼女の首、一目見てみたいものです」

 目尻のしわまで穏やかだというのに、言葉は楽しそうだ。

 経基はわずかにため息をつき、視線を落とした。

 そして下女に合図をして座を用意させた。


 藤は御母堂の隣へ。その影に身を寄せるように座った。

 ……あくまで、表情は自然に。思惑などは一切見せずに。

(これで鬼女を退治していないなどと言えば──)

 維茂は討伐令にも背いたことになる。

 のみならず、御母堂の前で殿に恥をかかせたことにもなる。

(殿は外聞を捨ててでも動かざるを得ない)

 扇の骨を握る指先にじわりと力が入る。

 表情だけは消して崩せない。

 ……今日この場ですべて終わらせる。


 胸の内の石は転がるように落ち着かない。

(大丈夫。……きっと、うまくいく)

 そう言い聞かせるように胸の内で唱えた。



 前庭の中央には長櫃が置かれている。

 維茂と近習は、それを挟むように立っている。

 日当たりのよい庭には似つかわしくないほど、空気は張り詰めている。


「久しぶりね、余五よご。……今は維茂、だったわね」

 几帳の内側から御母堂が声をかけた。

「ご無沙汰しております」

 維茂は丁寧に頭を下げる。

「お父君に似てきましたね」

 御母堂は、ふふっ、と笑った。

 維茂は困ったように頭をかいた。

「近頃は会ってもおりません」

「親不孝なところも、そっくり」

 御母堂は穏やかに笑った。


 経基が扇を閉じた。

「さて維茂。さっそく鬼女の首実検を始めてもらおうか」

 その瞬間、空気がさっ、と引き締まった。

 藤は息を止めた。

 ざわついていた女房たちも静まり返る。


 御母堂の手が両方とも扇に添えられる。その視線は維茂に向けられている。

(無様な言い逃れなど)

 決して見逃さない。許さない。

 藤は突きさすような視線を維茂へ向けた。



「その前に聞きたいことがある」

 維茂がそう言った瞬間、御母堂の眉がかすかに動いた。

(……来た)

 心の奥がしん、と冷たくなっていく。

 藤は扇の裏で唇を引き結んだ。


 経基は、ふっ、と目を細め、視線を維茂に止めた。

「いいだろう」

 御母堂は訝し気に息子を見る。

 経基は扇の裏でゆるやかな笑みを作った。



「まず、この屋敷で起きた呪詛事件について確かめたい」

 維茂はまっすぐに立ち、前を向いた。


「恐れながら」

 藤は静かに言った。

 声は張り上げない。

「それは当家の問題。維茂さまには関わりのないことでございましょう」

 じっ、と維茂を見る。

 維茂はこちらを一瞥しただけだった。


「今回の討伐依頼は"鬼無里の山賊退治"ってだけだった。なのに途中から追加で"鬼女の首"を要求された」

 維茂は周囲をぐるりと見回した。

「先だって、オレは呪詛事件の犯人とされた人物を、鬼無里まで送り届けている」

 ちら、と経基に目を向ける維茂。

 経基は、続けろ、というようにうなずく。

「文にはこう書いてあった。

 『鬼女が紅葉のことであれば、恐ろしい力で蘇るかもしれません』……と。

 そして『鬼女がたしかに退治されたかを確かめるために、必ず首級を』とも」

「確かにそのように書きました」

 藤は落ち着いて維茂を見る。

 維茂はごくわずかに唇をゆがめた。

「この"紅葉"っていうのが鬼無里へ追放された人物だ。もし呪詛事件が冤罪であったなら、オレは鬼女ではなく、無実の人物の首を刎ねることになる」

「事件の詮議はすでに終わったことです」

 少し声を強める。

 後ろの女房たちがうなずくのを感じて、藤は内心で笑みを浮かべた。


 屋敷の中では、声の多いほうへ空気が流れる。

 女房たちをこの場に集めたのも、そのためだ。


 藤は続ける。

「もしやとは思いますが、首実検ができない理由でもあるのでしょうか、維茂さま?」

 問いを疑いに変える。

 そうすれば相手は答えに追われる。

 ……殿の前で、御母堂の前で。

 逃げられるものですか。


「まあ待て」

 経基が軽く制する。

「維茂はなにか疑念を抱いているようだ。ならば、ここで晴らしてやろう」

 藤の呼吸が一瞬止まる。

 しかし頭の中は驚くほど落ち着いている。


 どうせ。

 殿はそう言うと思っていた。

(でも、関係ない)

 扇を持つ手が固くなる。

 女房たちも、下女たちも、御母堂様も。

 わたしの味方。


 紅葉を。

 あのまっすぐな笑顔を、裏切って、突き落として。

 ……あんなおぞましい、許されないことをしてまで、手に入れたものを。

(今さら、失うわけにはいかない──)

 扇を持つ手にぐっと力を込める。


「どのような疑念があるというのですか」

 声を落ち着かせて、藤は視線を維茂へ向けた。


 維茂がまっすぐ藤を見た。迷いのない、力強い目線。

(まるで、紅葉のような──)

 藤の心臓が、びくっと跳ねた。


「あんたが、呉葉を無実の罪に陥れた、という疑念だ」

 維茂が近習に指示する。

 長櫃の蓋が、ぎっ、と音を立てて開いた。


 中から人影が起き上がった。




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