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北の対。南側に向いた局の間。
藤は扇を開いては閉じ、閉じては開いていた。
畳の上に落ちる影が、落ち着かない。
(絶対、紅葉は戻ってきている)
そうでなかったとしても、そう考えて備えておくしかない。
違っていたのなら、それはそれでいい。
だいたい、維茂が討伐から戻ってまっすぐ屋敷に来るのはおかしい。
首を持ってくるだけなら近習に届けさせればいいはずだ。
武門の作法? そんなもの本当かどうかわかったものではない。
(やっと……ここまで来たのに)
藤は手をぎゅっと握りしめる。
局の要に任じられてから、実家へ送れる金は増えた。
この冬を越すだけならなんとかなる。
……でも、足りない。再興にはまだ遠すぎる。
あとは私が室に選ばれれば。
そうすればすべてが成る。
あと一手。
手が届くところまで、ようやくたどり着いたというのに。
(どうして、ここで戻ってくるの──)
藤は苛立ちを噛み殺し、親指の爪を噛んで……はっとして止めた。
近くに控えている下女が不安そうにこちらを見ている。
さっと扇で口元を隠し、藤は静かに息を整えた。
(大丈夫)
心の中で言葉にする。
(もし維茂さまが紅葉を匿っていても、朝廷の命に背いた、と追求できる)
それに、呪術を見られた、という事実はひっくり返せない。
紅葉が"恐ろしい鬼女"という噂は、もう止められない。
藤は扇を握る手に力を込めた。
骨がきしむほどに。
(それに打てる手はあらかじめ打ってある。抜かりはない)
何度も胸の内で繰り返す。
(全部うまくいく)
藤は目を閉じた。
◇◆◇◆◇◆◇
翌朝。
寝殿の大広間。
藤はじっと前庭を眺めていた。
秋の風が吹き、白砂の上を転がる落ち葉が乾いた音を立てる。
朝の冷えた空気が、藤のほほを撫でていく。
大広間の縁側には几帳が立てられ、そのすぐ内側に経基が座っている。
後ろには女房たち。
御簾の外、縁側には家司が控えている。
ふと藤は顔を渡殿へ向けた。御簾の向こうから鈴の音と衣擦れが聞こえてくる。
朽葉の落ち着いた色目の衣装。経基の御母堂が、ゆったりと姿を現した。
「……なぜ急に?」
経基はゆるりと体を向けて、少しだけ驚いた表情をした。御母堂はにっこりとほほ笑んだ。
藤は口元を隠したまま、経基に向かって穏やかに頭を下げた。
「わたしがお呼びいたしました」
やわらかな調子で藤は言った。
「当家を騒がせた鬼女の話を申し上げましたところ、御母堂様が」
「そんな恐ろしい鬼女がいたとは知りませんでした」
御母堂はにっこりとほほえみ、経基の横に来る。
藤は御母堂に頭を下げて、続ける。
「鬼女が倒されたことをきちんと確かめていただければ、御母堂様もご安心くださるかと存じました」
「しかし母上」
経基はわずかに眉をまげ、困惑したように御母堂を見る。
御母堂はにっこりと微笑んだ。
「かまいません。世にも恐ろしい鬼女の首、一目見てみたいものです」
目尻のしわまで穏やかだというのに、言葉は楽しそうだ。
経基はわずかにため息をつき、視線を落とした。
そして下女に合図をして座を用意させた。
藤は御母堂の隣へ。その影に身を寄せるように座った。
……あくまで、表情は自然に。思惑などは一切見せずに。
(これで鬼女を退治していないなどと言えば──)
維茂は討伐令にも背いたことになる。
のみならず、御母堂の前で殿に恥をかかせたことにもなる。
(殿は外聞を捨ててでも動かざるを得ない)
扇の骨を握る指先にじわりと力が入る。
表情だけは消して崩せない。
……今日この場ですべて終わらせる。
胸の内の石は転がるように落ち着かない。
(大丈夫。……きっと、うまくいく)
そう言い聞かせるように胸の内で唱えた。
前庭の中央には長櫃が置かれている。
維茂と近習は、それを挟むように立っている。
日当たりのよい庭には似つかわしくないほど、空気は張り詰めている。
「久しぶりね、余五。……今は維茂、だったわね」
几帳の内側から御母堂が声をかけた。
「ご無沙汰しております」
維茂は丁寧に頭を下げる。
「お父君に似てきましたね」
御母堂は、ふふっ、と笑った。
維茂は困ったように頭をかいた。
「近頃は会ってもおりません」
「親不孝なところも、そっくり」
御母堂は穏やかに笑った。
経基が扇を閉じた。
「さて維茂。さっそく鬼女の首実検を始めてもらおうか」
その瞬間、空気がさっ、と引き締まった。
藤は息を止めた。
ざわついていた女房たちも静まり返る。
御母堂の手が両方とも扇に添えられる。その視線は維茂に向けられている。
(無様な言い逃れなど)
決して見逃さない。許さない。
藤は突きさすような視線を維茂へ向けた。
「その前に聞きたいことがある」
維茂がそう言った瞬間、御母堂の眉がかすかに動いた。
(……来た)
心の奥がしん、と冷たくなっていく。
藤は扇の裏で唇を引き結んだ。
経基は、ふっ、と目を細め、視線を維茂に止めた。
「いいだろう」
御母堂は訝し気に息子を見る。
経基は扇の裏でゆるやかな笑みを作った。
「まず、この屋敷で起きた呪詛事件について確かめたい」
維茂はまっすぐに立ち、前を向いた。
「恐れながら」
藤は静かに言った。
声は張り上げない。
「それは当家の問題。維茂さまには関わりのないことでございましょう」
じっ、と維茂を見る。
維茂はこちらを一瞥しただけだった。
「今回の討伐依頼は"鬼無里の山賊退治"ってだけだった。なのに途中から追加で"鬼女の首"を要求された」
維茂は周囲をぐるりと見回した。
「先だって、オレは呪詛事件の犯人とされた人物を、鬼無里まで送り届けている」
ちら、と経基に目を向ける維茂。
経基は、続けろ、というようにうなずく。
「文にはこう書いてあった。
『鬼女が紅葉のことであれば、恐ろしい力で蘇るかもしれません』……と。
そして『鬼女がたしかに退治されたかを確かめるために、必ず首級を』とも」
「確かにそのように書きました」
藤は落ち着いて維茂を見る。
維茂はごくわずかに唇をゆがめた。
「この"紅葉"っていうのが鬼無里へ追放された人物だ。もし呪詛事件が冤罪であったなら、オレは鬼女ではなく、無実の人物の首を刎ねることになる」
「事件の詮議はすでに終わったことです」
少し声を強める。
後ろの女房たちがうなずくのを感じて、藤は内心で笑みを浮かべた。
屋敷の中では、声の多いほうへ空気が流れる。
女房たちをこの場に集めたのも、そのためだ。
藤は続ける。
「もしやとは思いますが、首実検ができない理由でもあるのでしょうか、維茂さま?」
問いを疑いに変える。
そうすれば相手は答えに追われる。
……殿の前で、御母堂の前で。
逃げられるものですか。
「まあ待て」
経基が軽く制する。
「維茂はなにか疑念を抱いているようだ。ならば、ここで晴らしてやろう」
藤の呼吸が一瞬止まる。
しかし頭の中は驚くほど落ち着いている。
どうせ。
殿はそう言うと思っていた。
(でも、関係ない)
扇を持つ手が固くなる。
女房たちも、下女たちも、御母堂様も。
わたしの味方。
紅葉を。
あのまっすぐな笑顔を、裏切って、突き落として。
……あんなおぞましい、許されないことをしてまで、手に入れたものを。
(今さら、失うわけにはいかない──)
扇を持つ手にぐっと力を込める。
「どのような疑念があるというのですか」
声を落ち着かせて、藤は視線を維茂へ向けた。
維茂がまっすぐ藤を見た。迷いのない、力強い目線。
(まるで、紅葉のような──)
藤の心臓が、びくっと跳ねた。
「あんたが、呉葉を無実の罪に陥れた、という疑念だ」
維茂が近習に指示する。
長櫃の蓋が、ぎっ、と音を立てて開いた。
中から人影が起き上がった。




