―5―
与えられた個室は、思った以上に静かだった。
外に見えるのは夜の山。黒い稜線が折り重なり、寺の屋根が段々に並んでいる。
どこからか、低くお経を読む声が聞こえてきて、燭台の灯りまで落ち着いて見える。
維茂は机に向かって文を書き終える。そして、外で待っていた近習にそれを渡した。
かさっ、という紙の音が、小さく響く。
「誰に出したんだ?」
「経基だ」
維茂の言葉に呉葉は目を丸くした。
「先に手を打っておこうと思ってな。お前と会ったことを話して、呪詛事件のことを調べたいから証拠の品を用意しておいてくれ、って伝えた」
呉葉は不安に眉をひそめた。
「一度罪が決定された濡れ衣を晴らすには、あいまいな証拠じゃだめだ。もっと明確で、確実な証拠がいるからな」
意味はわかる。
それでも心の中のじめっとした感触は消えない。
「……経基が協力してくれるだろうか」
経基はしょせん都の貴族。しかも自分を追い出した張本人だ。
味方になってくれる想像がつかない。
「あいつは誰の味方もしねえよ。ただ筋と建前に従うだけだ」
維茂は眉をひそめて、軽く鼻で笑う。
「あいつのことだ。確実な証拠が出て事件がひっくり返る可能性を考えて、証拠品を保管してある」
維茂は複雑な笑みを浮かべた。
「あいつはそういうヤツだ。……だから、都で生き残れてる」
都の理屈。生き方。
自分とは違いすぎてよくわからない。
呉葉は胸のつかえを落とすように息をついた。
(けど維茂なら)
維茂なら戦い方を知っている。
……維茂と一緒なら、都でも戦える。
呉葉は拳にぐっと力を込めた。
「ところで」
呉葉が言った。
「どうやって都までたどり着くんだ? 維茂はともかく、アタシは関所を通れないんじゃないのか?」
維茂は肩をすくめ、軽く笑った。
「こっちは天下の官軍だぜ? 積荷に紛れ込めば、中身を調べられたりはしねえよ」
「都についた後は?」
「長櫃にまぎれて経基の屋敷に潜り込む。急な指示の追加、それから室候補の文を官軍宛の文と同梱した理由を問いただす、と言えば、あいつは会うだろうよ」
なるほど、と呉葉はうなずく。
怖い。けど道が見えている怖さは、立ち向かえる。
「いっちょ、ぶちかましに行こうぜ」
維茂はにっと笑った。
呉葉もつられて笑みを返した。
腹の中に灯りがついたように、前を向く力が湧いてくる。
──と。
維茂がおもむろに懐からなにかを取り出した。
小さな包みを、得意げに見せる。
「つーわけで、櫛を買ってきた」
「なんでだよ」
呉葉は即座に突っ込んだ。
維茂が包み紙をほどいた。
火の明かりを吸うような、艶のある漆の櫛。黒いのに濡れているように見える。
寺の夜には場違いなほど、綺麗だった。
香油の小瓶まで一緒に入っている。
(いつのまに?)
そういえば寺のふもとに小さな市があった。
人が行き交う足音と、賑やかな声。
線香だけではない、生の暮らしの匂い。
通る途中、少しだけどこかにいなくなっていたっけ、と今さら思い出す。
「坊主に聞いたんだ。惚れた女には櫛を贈るのがいいって」
「なんて坊主だ」
呉葉はあきれる。維茂は満面の笑みを浮かべた。
「都に乗り込む前におめかししようぜ」
「……これから寝るんだけど」
呉葉はじと目で睨む。
維茂はまったく気にしていない顔だ。
「まあそう言うなって。俺が梳かしてやるよ」
「えっ」
呉葉は固まった。
髪を?
母親以外に触られたことないのに。
つい耳の上に作っている輪に指が触れて、止まる。
「いや、自分で」
呉葉は慌てた。
さすがに、角を見せるのは。
……もう、一度見られてるけど。
でも、ぞわぞわする。
維茂は笑わなかった。
いつものふざけた調子じゃない。
じっと、まっすぐ呉葉を見る。妙に真剣な顔。
そして両肩にそっと手を添えた。
「したい」
その甘い言い方に、呉葉の鼓動が止まった。
……ずるい、と呉葉は思う。
こんな真面目な顔で言われたら、どう言い返せばいいかわからない。
「か、髪、ぼさぼさだし」
「だから梳かすんだろ」
維茂は当たり前のような顔をした。
(なんでそんなに……)
呼吸が自然と浅くなる。肺が忙しい。
髪を触られるのは怖い。角を見られるのは、もっと怖い。
ずっと、そうだった。
呉葉はちらっと櫛を見た。綺麗だ。腹が立つくらい。
……これで、髪を? 維茂が?
恥ずかしさと、それを否定する言葉で、胸の中がむず痒い。
でも。
(こいつだったら……)
そんなに、嫌じゃない。気がする。
そう思えてしまった自分が、なんとなく悔しい。
(維茂のおかげで都に戻れる、わけだし)
(山賊たちも、熊武も、助かった、わけだし)
言い訳が、頭の中で渋滞する。
目が、床の上をうろうろと動く。
(そんなに、したいって言うなら……)
呉葉は小さく言った。
「……梳かすだけだぞ」
維茂は、ぱあっと顔を明るくした。
それはそれで腹が立つ。
黙って呉葉の後ろへ回る気配。
背中が、そわっ、として体が固まる。
維茂の指が、結った髪に触れる。肩がぴくっと動いてしまう。
それから、すっ、と結び目を解いていく。
──角を隠していた髪が、するりと落ちた。
呉葉はびくっと震えた。
背中から、ほうっ、とため息。
むずがゆさに、体が震えそうになる。
維茂が香油を指先に乗せる。
ふわりと甘い匂い。
そこに維茂の体から、微かな汗と日に焼けた布の匂いが乗る。
櫛が髪に入る。
最初のひと梳き。さらり、と音がするような感覚。
痛くない。引っ張られない。驚くほど優しい。
呉葉は息を止めていたことに気づいて、ふっと吐いた。
背中に回られているというのに、威圧感のようなものは感じなかった。
無意識の内に、呉葉は背中の力を抜いていた。
「お前の髪、さらさらなんだな」
「な、なんだよ」
声が近い。背中が、なぜか熱くなる。
鼓動が変なところで跳ねる。
「オレがガキの頃飼ってた犬なんて、毛がもしゃもしゃでよく絡まってた」
「犬と一緒にすんな!」
思わず怒鳴る。
背中で小さく笑う声。それが妙にくすぐったい。
直後に、沈黙。
急に空気が濃くなったような気がして、喉が詰まる。
櫛が、頭の上へ。横へ。
丁寧に、丁寧に梳いていく。その指先が、わざとなのか、時折かすかに耳の裏やうなじをなぞる。
ざらりとした男の指。
それが素肌に触れるたび、背筋を甘いしびれが駆け抜けた。
怖いはずなのに、息がゆるむ。逃げ出したいのに、体がいうことを聞かない。
ふいに、うなじに熱を帯びた吐息がかかった。
「……隠すことねーのにな」
耳元でささやかれる、いつもより一段低い声。
「い、いいだろ」
強がったはずが、声がかすれる。
次の瞬間。
角の先端に、指が絡められた。
息がひゅっと詰まって、肩がぴくっと震えた。
「さ、さわんな!」
「ちょっとだけ」
しれっと言う声が優しい。ずるい。怒りたいのに、怒れない。
維茂の指が、角の曲線をなぞる。
撫で上げるような、確かめるような手つき。
触れられた場所だけ、熱を帯びていくような感覚。
「やっぱ……すげーきれいだ。けど」
維茂の唇が、耳元にさらに近づく。
「他の奴らには、触らせたくねえ」
「っ……!」
鼓動が飛び跳ねる。
違う。これは──。
(怖い、だけ。それだけだから……!)と呉葉は必死に思い込んだ。
指の腹が角をなめらかに滑り降りてくる。
優しく、でも逃がさないような手つき。体の芯から熱が湧き上がってくる。
「……んっ」
思わず、甘い声が、漏れた。
呉葉は慌てて口を押えた。……遅い。思わず目をぎゅっと閉じてしまう。
香油の匂いと、背後から包み込むような体温。頭の中が溶けてしまいそうだ。
……指先が、角の根元触れた。
(だめだ)
(もう心臓が持たない)
「も、もうおわり! もういい!」
呉葉はたまらず、維茂の手を振り払った。
「えー、もうちょっと」
残念そうな維茂の声。それが余計に腹立つ。
「おわりだ!」
呉葉は袖で顔を隠した。頬が熱い。絶対赤い。
維茂が小さく笑った気配がした。




