―4―
翌朝。
呉葉は外に出て空を見上げた。冷えた空気が頬に刺さる。
息を吸うと、湿った土の匂いが肺いっぱいに広がる。
いつものように、維茂が近習と一緒にやってきた。
手に文を持っている。
「寺へ向かわせておいた使いが戻ってきた」
熊武と山賊たちが一斉に息をのむ。
不安と期待で洞窟の空気が膨れ上がっていく。
維茂はさっと文を広げて見せた。
「あっちの準備は整ったそうだ。いつでも、何人でも来いってさ」
一斉に歓声が爆ぜた。
笑い声と泣き声が混じり、誰かがその場で座り込む。肩を震わせる者もいる。
熊武はほっとしたように肩を撫でおろした。
そして維茂の前へ進み出て深く頭を下げる。
「本当に、感謝する」
「なあに、寺にとっても貴族を牽制できるいい機会だからな」
維茂は軽い調子で言ってのける。
「荘園で苦しんでいる連中をなるべく多く集めて、寺に連れて行ってやってくれ」
「わかっている」
熊武の目に涙が浮かぶ。
それを見て呉葉は心の中が軽くなった。
これで山賊たちはもう山の中で暮らさなくても済む。
怯えながら、逃げながら過ごさなくても済む。
火と湿気の洞窟からやっと抜け出せる。
◇◆◇◆◇◆◇
維茂を先頭にして山を降りる。山賊たちは、まるで兵士に守られるように一緒に歩いていく。
ふもとが近づくにしたがって、木々の並びが整い、道が固くなる。
山の濃い緑の匂いが遠のき、代わりに人里の匂いが増えていく。
荘園までたどりついたところで、荘官たちが慌ただしく出迎えた。
その表情は浮き立っている。
「山賊を捕らえたのですか」
荘官の嬉しそうな声。維茂は首を横に振った。
「いや? 山賊は逃げ散った。オレは捕らえられていた荘民を連れ帰ってきただけだ」
「捕らえられていた?」
荘官の顔が曇る。
その後ろで、元山賊たちが家族や仲間と抱き合って泣いているのが見える。
「で、でも山賊は……」
「なにか疑念でも?」
なおも訝しむ荘官に、維茂は一歩踏み出して、顎をぐいっと上げた。
「朝廷への報告書はオレが書く。文句はあるか?」
荘官は黙り込んだ。
呉葉は内心で舌を巻いた。
維茂は喧嘩慣れしている。
「さーて、次だ」
維茂は矢継ぎ早に指示を出していく。
兵士たちはいくつかの集団にわかれた。元山賊たちを連れて、それぞれ別の荘園へ向かっていく。
「なるべく大勢集めるんだ。寺にはあらかじめ話は通してある。
討伐軍の兵士が一緒なら、荘園の連中は手出しできねえよ」
(こんなふうに、人って動くのか)
呉葉は感心して見守っていた。
これが維茂の喧嘩のやり方なのか、と。
ぞろぞろと荘園を出ていく荘民たちを、荘官たちは呆然と眺めている。
追捕使たちも唖然としたまま声一つ上げられない。
「んじゃ、次はオレたちだな」
呉葉は維茂の声で我に返った。
こっちはこっちで、まだやることがある。
山道を降りてまっすぐ歩いていく。
それほど行かないうちに別の荘園が見えてきた。
……鬼無里だ。
ここは少しだけ気が重い。
呉葉の肩に無意識に力がこもる。
やがて見覚えのある見張り小屋が見えてきた。
そこにいた追捕使が呉葉を見るなり叫んだ。
「罪人! ……捕らえてくださったのですか」
「いや、証人だ」
強い口調で維茂が言う。
(証人……罪人、じゃないんだ)
呉葉はわずかに目を見開いた。
追捕使は目を白黒させた。
「討伐軍としての権限で、山賊騒ぎの証人として、取り調べのために連れ出す。
……いいよな?」
「えっ、でも……手続きは……」
次の瞬間。維茂が刀の柄に手を置いたまま笑った。
「い、い、よ、な?」
声はやわらかい。のに、冷たさすら感じる。
追捕使の顔が青ざめた。
「あとで荘官にも伝えといてくれよな」
「は、はい……」
追捕使は下を向いて答える。
維茂は満足そうにうなずいて、悪そうな顔で歩き出した。
呉葉はあきれ半分、感心半分で、横目に見た。
「お前……そんな悪い真似もできたんだな」
「当たり前だろ」
維茂はくすっと笑う。
「オレはもともと、こういうやり方のほうがあってるんだ。坂東じゃ、肩書よりもこっちのほうが強いからな」
「そう、なんだ」
呉葉がつぶやいた瞬間。
「惚れたか?」
「惚れるか!」
すかさず呉葉は言い返した。
◇◆◇◆◇◆◇
その日の夜には寺に到着した。
大きな山門にはかがり火が焚かれている。行き交う人の影が揺れ、石畳を歩く音が絶え間なく聞こえてくる。
木の匂いに混じって線香の匂いが鼻をかすめる。読経の声が、遠くから流れてくる。
山の中とはまるで別の世界みたいだった。
山門をくぐると、小坊主が出迎えてくれた。
幼い顔なのに目はきりっとしている。
向こうにはすでに元山賊たちや熊武が到着しているのが見えた。
表情は明るく疲れはまるで見えない。
呉葉はほっと胸をなでおろした。
「まだいくつか、向かっている途中の集団があります」
維茂に気づいた近習が駆け寄ってきた。
「荘園からの妨害は?」
「寺からも僧兵が迎えに出たようです。問題はないでしょう」
「よっし」
維茂が嬉しそうに手をたたいた。
その音が石の乾いた空間に響いた。
熊武がこちらに気づいて歩み寄ってくる。
「思ったよりも多い人数が集まりそうです」
「ああ。これなら寺も大手を振って動き出せる」
維茂に熊武は嬉しそうにうなずいた。
そして右手を差し出す。
「これもすべて、あなたのおかげだ」
維茂は、ふっ、と笑った。
「明日を諦めていた連中が救われたのも、貴族どもにやり返してやれたのも。……この恩、どう返せばいいかわからないくらいだ」
維茂はうなずいて手を握り返す。
熊武は笑って、続いて呉葉を見た。
「頭領にも大変世話になった。あなたがいなければ、我々は山の中で虚しく朽ち果てていただろう」
「大げさだな」
呉葉は照れくさくなって頬をかいた。
でも胸の中はあたたかい。
「あなたにはいろいろなことを教わった。私もあなたのように、最後まであきらめずに、生きていこうと思う」
「ああ」
呉葉はうなずいた。
言葉が喉を通るだけで気持ちが軽くなる。
「あとは、うまくやるだけだ」
「じゃ、明日な」
熊武は手を振りながら寺に戻っていった。
火の灯りの中へ吸い込まれていく姿が、だんだん遠くなる。
少しだけ胸の中に隙間ができたような感覚。
でも嫌な感じはしない。
呉葉と維茂はその背中をしばらく見送った。
やがて、維茂がふっ、と笑って呉葉に顔を向けた。
「今夜は作戦会議だ。都に戻った後のことを、今のうちに決めておかねえとな」
呉葉は黙ってうなずく。
都に戻る。
でもそれだけじゃ終わらない。
呉葉は唇を固く結んだ。
「んじゃ、宿坊に行こうぜ」
「宿坊?」
「ああ。今日はここで泊まりだ」
それを聞いて、小坊主がすっ、と前に出てきた。
「女性の方はこちらです」
「あー、違う違う」
維茂は小坊主を止める。
「そいつは俺の嫁だから」
「はあ?」
呉葉は目を吊り上げて維茂をにらみつけた。
維茂は呉葉の耳元でささやく。
「ばっか、男宿と女宿で別れたら作戦会議できねえだろうが」
「だからって勝手に嫁にすんな!」
怒る呉葉。維茂は眉をひそめる。
「あのな……女宿は大部屋で、着替えも髪結いも同じ部屋でやるんだぞ」
「うっ」
呉葉は言葉に詰まった。
大部屋。隠れる場所もないのに、着替えも髪結いも?
想像しただけで胃がひゅっと縮む。無意識に手が輪に結んだ髪に伸びる。
……それは、困る。ものすごく困る。
維茂はいたずらっぽく笑う。
「夫婦宿なら、小部屋だからそんなの気にする必要はねえ」
「うぐぐ」
呉葉は歯を噛みしめた。
悔しい。……けど、維茂の言うとおりだ。
角を隠している髪の輪が、かすかに風に揺れた。




