―2―
「裏切られた」
その言葉を口にした瞬間、呉葉の喉尾の奥がきしんだ。
秋とはいえ日差しがまだ暖かくあたりを照らしているのに、胸の内だけが冷えていく。
維茂は言葉をすぐには返さなかった。
じっとただ次の言葉を待った。
呉葉の目は地面の上をさまよった。言葉が喉に詰まったまま出てこない。
……あの屋敷の空気、畳や几帳の匂いが、よみがえってくる気がした。
そして──凍りつくような、視線。
「えらい人が来るっていう日、みんなで準備をしてたんだ」
呉葉はぽつりとこぼした。
「あー……」
維茂はなにかを思い出すように、少しだけ目を上に向けた。
「あれだ、常陸国司だろ。赴任前に経基の屋敷に挨拶に行くって言ってた」
「知ってるのか?」
「まあ、オレも坂東武者のはしくれだからな」
ふぅん、と呉葉は鼻を鳴らした。
坂東武者というのがなんなのか、よくわからない。
維茂みたいなやつばっかりのだとしたら、随分楽しそうだ。
……と思いかけて、急いで心の中で否定する。
呉葉は前を向いたまま続けた。
「それで、アタシも藤と一緒に手伝ってた。でも常陸に呼ばれて、藤と離れたんだ。
……常陸が、着付けを教えてくれるっていうから」
胸がきゅっと苦しくなる。
あのときの後悔がまだ残っている。
「その間に、藤が……秩父に、なにかをされたんだと思う」
呉葉はふと視線を落とした。
風に乗って落ち葉がかさかさと転がっていく。
「藤が用意していた、えらい人用の座具が間違って置かれていたんだ」
「座具かあ……」
維茂が眉を寄せた。
「都の連中は、そういうつまらねえとこ、うるせえからな」
「……そのせいで常陸が屋敷から出ていくことになった」
あの場面を思い出して息苦しくなる。
誰も動けなかったあの冷たい空気。扇の揺れる影。
維茂はあごに手を当てたまま、少し黙った。
「その常陸と秩父ってのは、アレか。経基の屋敷の女房達の中心にいた二人か」
「そんなことまでわかるのか?」
「まあ、時々顔出してたからな。それくらいはわかる」
そういえば維茂が来てたことあったな。
渡殿で話したっけ。
あのときは楽しく笑えてたのに。
懐かしさが一瞬だけ胸に宿って、消えた。
「そのあとだ」
呉葉はつばを飲み込んだ。
「藤が、座具事件の犯人を追い詰めたい、って言い出したんだ」
「犯人を追い詰める?」
呉葉はうなずいた。
「常陸の仇討ちをしたい、って。
そのときアタシはなんか変だ、って思ったんだ。藤がそんなこと言うなんて、って……」
声がかすかに掠れる。
気づいていたのに。変だと思っていたのに。
「けど藤の力になれるならって思って……」
言葉尻が落ちる。
維茂はじっと宙に目を止める。それから切り出した。
「どうやって追い詰めるって言ったんだ?」
「アタシが、秩父に呪術を見せて脅かすんだ。怖がらせて、やったことを自白させようって」
「え、ちょっと待て」
維茂の眉が上がる。
「藤は、呉葉が呪術を使えることを知っていたのか?」
「あー……うん」
呉葉はうつむいた。
「呪術は使っちゃダメだ、って母にも言われてた。だけど……。
うっかり使っちゃったところを、藤に見られたんだ」
「ふぅん……」
顎に手をやる維茂。
その仕草がやたら落ち着いて見える。
「で、なにをやった?」
「夜中に庭に出て……秩父のいる局の外の庭で呪術を使うことになった。
北の対の見回りは、藤がわかってるから大丈夫だ、って」
夜の庭の空気。土の感触。月明りの静けさ。
背中がわずかに震える。
維茂は黙って聞いている。
呉葉は続けた。
「それで、呪術を使ったんだ。小石を投げ込んで、秩父に気づかせて。
……誰にも見られてないと思ってた」
悔やむように拳を握る。
どうにもならない思いが胸の中をかけめぐる。
「次の日……藤は何事もなかったみたいに、常陸のいた局を掃除する、って言い出したんだ。
常陸はすごく綺麗に掃除していったのに。……でも」
苦しい。
次の言葉が喉に詰まる。
「掃除をしている最中に……木の呪詛人形が、見つかった」
「それは、どこからだ?」
維茂の目が細くなった。
「……縁の下だ。アタシも見てた」
「ふぅん」
維茂の顔がわずかに歪む。
「呪詛、ねえ……」
そして重たい吐息をこぼす。
少しの沈黙。
維茂は空に目を向けたまま、じっとなにかを考えている。
やがて口を開いた。
「それから、どうなった?」
促されて呉葉は続きを吐き出した。
「呪詛をした者を探す、ってことになった。みんなの荷物を調べて、おかしなものがないかって。
……探す役目は藤になった」
「へえ」
維茂の目つきが鋭くなる。
「だけど……藤の様子が、なんかおかしかったんだ」
藤の表情。声。
まるで突き放すような、こっちを見ていないような目。
あのときの息が詰まるような感覚を思い出す。
皮膚に刺さるような、冷たい言葉。
「それで──」
呉葉は絞り出すような声で続けた。
「アタシの葛籠の中から、『紅葉』って書いてある紙の人形が出てきたんだ。
……呪詛返し除けだ、って」
そのときの凍りつくような空気。下女の悲鳴。
思い出すだけで涙がこぼれそうになる。
唇が乾く。
「もちろん、そんなのアタシは知らない。作ってない。
だけど……その紙に書いてあるのは、アタシが書いた字だった」
「ん? いつ書いたんだ?」
維茂の眉が動いた。
「前に、藤に文字を教えてもらったことがあるんだ。そのとき練習で書いた字だった」
「書いた紙は、そのあとどうしたんだ?」
「えっと……」
軽く眉をひそめて記憶の底を探る。
……あのときはどうしたんだっけ。
「たしか……だけど……。
あ、そうだ。常陸に呼ばれて、途中で出ちゃったんだ。藤が、片づけてくれたと思うけど……」
ふむ、と維茂は鼻を鳴らした。
「お前の葛籠は自分で片づけていたのか? 藤にやってもらったことは?」
「もちろん自分でやってた。
……あ、衣替えのとき、藤に畳むのを手伝ってもらったけど、そのくらいだ」
「……やっぱりな」
「えっ」
維茂が低く言った。
呉葉は眉をひそめた。




