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薄暗い一間。
人の気配が去ったあとは、急に静まり返っている。
建物の外から、虫の鳴き声が聞こえてくる。縁側からは、強い日差しが斜めに差し込み、床板をそこだけ明るく照らしている。
呉葉は藤を見た。
小さな肩。くりっとした瞳。
声の感じもさっきの常陸に比べるとずいぶんとやわらかい。
呉葉は少しだけ、肩の力を抜いた。
「なあ、藤」
「え、なに?」
声をかけると、藤はびくっと肩を震わせた。
「都の人ってみんな、あんな感じなのか?」
「ちょ、なに言ってるの」
藤がさっと呉葉の袖をつかむ。
そして常陸たちの消えた方を確かめるように振り向く。
「常陸の方さまはこのお屋敷の局の要だから、怒らせてはだめ」
小さい声。でも、必死だ。
「局の要?」
「女房たちのまとめ役。わたしたちはあの方の元でお仕事をするんだから……」
「ふぅん」
呉葉は首をひねった。
ようするに"偉い人"っていうことだろうか。
確かにあの目は怖い。藤が怯えるのもわかる気がする。
藤に促されて、呉葉はその間から出る。
縁側はひたすらにまっすぐで、床板も丁寧に磨かれている。
藤は歩きながら、早口で説明を始めた。
「こっちがわたしたちが使う間。開いている場所は好きに使って」
指さされた間を覗くと、厨子棚や大きな葛籠が整えて置かれている。
簾で仕切られた向こうに、別の誰かの気配。
「あっちが厨。あっちが厩で──」
「え、え」
藤は説明を続けながら、どんどん歩いていく。
呉葉も裾を踏みそうになりながら必死で追いかけた。
「あと、この先は常陸さまの局だから無断で立ち入らないように」
「わ、わかった」
返事をしながら、頭には半分も入っていない。
入っていい場所、ダメな場所が多すぎる。いっぺんに覚えられるわけがない。
「いろいろめんどくさいこと多いんだな、貴族のお屋敷って」
頭から湯気が出そうになって、つい言葉がこぼれる。
藤は心配そうに目元を曇らせた。
「そのうち覚えられるよ」
呉葉は、うん、と答えたものの、あまり自信はない。
そのとき。ふと、藤の表情に影が差した気がした。
「……紅葉は」
藤の口が小さく動く。
「殿に直々にお声をおかけ頂いた、って聞いているけれど、本当なの?」
「あー……そうかも」
呉葉は首を斜めにした。
……あれは直々と言っていいんだろうか。
経基とはどんなことを話したっけ。
出会ったときのことは、よく覚えていない。
維茂は──。
馬鹿だの、子供だの。
そんなやり取りを思い出して、ついイラッとする。
「どうして──」
呉葉に目を向けたまま、ふと藤がためらいがちに口にした。
「殿は……紅葉を女房に召し上げられたのかしら」
「さあ?」
それはこっちが聞きたい、と呉葉は思った。
「多分だけど……"家は伴氏の流れを汲んでる"んだって、父が言ってた。それが理由じゃないか、って」
「そうなの?」
藤が一瞬、驚いたような表情になる。
その目に、一瞬だけひどく切実な、あるいは暗い焦りのようなものがよぎった気がした。
すぐに扇を半分開き、口元を隠す。
「伴氏って言えば古くから名のある家柄じゃない……」
「そう、なのか」
そう言われても、よくわからない。
父も母も家柄の話なんてほとんどしない。
(それに、家柄なんてどうでもいい)
そんなものに興味はない。
「アタシはここで、自分の力で成り上がってやるんだ」
拳を握りしめ、そう心に決めた。
「都でいろんなことを覚えて、いろんなことをやってみたい」
「……そっか」
藤は笑みを浮かべる。でも、それはどこか複雑な笑みに見えた。
「けど……成り上がるってどうやって?」
「んー」
呉葉は首を傾けた。
「えらくなる、とか?」
藤が苦笑する。
「殿は、まだ室を決めておられないの。いずれ、女房のなかからお選びになるはずだけど……」
「室?」
また知らない言葉だ。
「そう。……正室になれたら、えらくなれるかもね」
「そっか」
呉葉は両の拳を打ち合わせた。
「じゃあ、その正室になる。正室を目指すよ」
「ちょ、声が大きい」
藤は扇をぱっと呉葉の口元に当てる。
「誰が聞いているかわからないんだから、そんなこと言ったらだめだよ」
震えるような声。周囲をさっとうかがう。
「目をつけられたら、都じゃおしまいなんだから……」
藤の怯えるような目つき。
それを見て呉葉は眉をひそめた。
気にしすぎじゃないか、と思う。
(でも、藤はアタシのために言ってくれている)
そう思って、呉葉は言葉を飲み込む。
「わかった。気をつける」
藤はようやく、ほっと表情をゆるめた。




