―2―
呉葉はひたすらに山の中を駆けた。
枝が頬をかすめる。斜面は崩れやすく、落ち葉は滑る。
舌が渇く。足の裏が熱い。
それでも呉葉は止まらなかった。
やがて木々の隙間から岩肌が見えた。
その切れ目に洞窟がある。
まだ周囲に兵士の姿はない。呉葉の胸がわずかに軽くなる。
「頭領!」
洞窟から熊武の声が届いた。その後ろから山賊たちも顔を出す。
「お頭!」
「姐さん!」
……生きてる。まだいる。
呉葉は張り詰めていたなにかがほどけそうになった。
「よかった、間に合っ──」
「後ろ!」
熊武の叫びに背筋が凍った。
呉葉はとっさに振り向いた。
維茂。と、兵士たちが見える。
木々の間を槍と刀がきらめきながら迫ってくる。
「こんなところに隠れてたのか」
洞窟を見上げながら、維茂は低く言った。
(つけられた)
それに気づいたとき、全身の力が抜けそうになった。
(さっきの"隠れ場所を発見した"って声は、嘘だったんだ……)
胃の底がずしんと重たくなる。
助けるために飛び出したはずが逆に誘導してしまった。
維茂が手を上げると、兵士たちはさっと左右に広がった。
じゃりっ、という足音。
洞窟の前はぐるっと取り囲まれた。
熊武は刀を構えた。
しかしその背後には洞窟の中の怪我人たちがいる。
飛び出すことができないまま熊武は唇を噛む。
(アタシの、せいだ)
胸の中が焼けるように痛い。
呉葉は奥歯を噛みしめた。
「汚いぞ維茂!」
肺から声を吐き出すように呉葉は維茂に叫んだ。
維茂の顔がわずかに歪む。
「……悪いがこれも仕事だ」
絞り出すような声。
その言葉に胸がきつく締めつけられる。
(まだだ……!)
呉葉は洞窟の前に立ちはだかった。
山賊たちの前へ。怪我人の盾に。
(最後まで……ここから……)
諦めたりしない。してやるもんか。
両足に力を込めて地面を踏みしめる。
維茂がため息をつくのが見えた。
顔をしかめ頭を振る。
(都の理屈なんて、嫌いだ)
呉葉は指が白くなるほど強く、金砕棒を握りしめた。
維茂が手を上げた。
弓兵が前へ出る。きりりっ、と弦を引き絞る音が山の中に響く。
次の瞬間──維茂の手が落ちた。
ざっ、と矢の雨。
空気を切り裂く音。落ち葉が跳ね、岩肌が弾ける。
熊武はとっさに洞窟へ身を引いた。
呉葉は避けきれなかった。
ふくらはぎに衝撃。そして熱い痛み。
耐え切れず膝が砕けるように地面へ落ちる。
視界が揺れる。
土の匂いが迫る。
足がいうことを聞かない。力を入れようとすると激痛が走る。
手をついて体を支える。
洞窟から山賊たちの悲痛な叫びが聞こえた。
(守れない……?)
視線を上げる。
体の芯からの熱が冷めていく。指先から力が抜けていく。
無理やり拳を握り締める。爪が食い込む。
力を隠してさえいれば、生きていけると思った。
力を見せて、役に立って。……そうすればきっと受け入れてもらえるって思った。
……でも。
(これで、終わり?)
アタシは間違ってた?
いけないことだった?
自分を曲げたくなくて。自分に嘘をつきたくなくて。
ただそれだけだったのに。
肺が、呼吸が、苦しくなっていく。
(違う……)
呉葉は眉間に力を込めた。
目を前へ向ける。
維茂が兵士たちの前へ出てくる。
そしてうずくまる呉葉をじっと見下ろしながら、歩いてくる。
「……なんでお前、そこまでして戦えるんだよ」
維茂がぽつりと落とした。
「人並外れた力を見せて、呪術まで使って、鬼女とまで言われて……。それでも諦めないんだな」
「前にも言っただろ」
荒い息のまま呉葉は返した。
視界の端が白い。それでも目はそらさない。そらしたくない。
「アタシは誰かを守るためにしか、この力を使ったことはない。
自分が間違ってないって思うから、アタシは戦うんだ」
維茂が言葉を失って立ち止まった。
その表情は眉間を寄せたまま固まっている。
「……あーもう、なんでこんな任務真面目にやってんだオレ」
維茂は独り言みたいに言った。
「これじゃあのクソ貴族喜ばすだけじゃねえか」
その隙を逃さない。
呉葉は最後の力を振り絞って金砕棒を振り上げた。
維茂は軽く半身を引く。
同時に、維茂はとっさに刃先を呉葉に向ける。
──切っ先が、呉葉の頭布を裂いた。
ぱさり、と布が落ちた。
冷たい風が髪を揺らす。
隠していたものが露になった。
──風になびく黒髪。そして二本の白い角。
その艶めくような美しさに、その場にいた誰もが、魅入るように息をのんだ。
そして次の瞬間、はっとして恐怖を思い出した。
「鬼だ……!」
「本物の鬼女だ……!」
ざわめき。それとともに兵士が後ずさる。
洞窟の山賊たちも呼吸を忘れて静まり返った。
呉葉は血の気が引くのをはっきりと感じた。
(見られた……)
人ならざるもの。
化け物。
今まで浴びせられてきた言葉が、脳裏を刃物のように切り刻んでいく。
(終わりだ──)
呉葉はその場にしゃがみ込んだ。
嫌だ。
もう……。
両手で角を隠す。肩の震えが止まらない。
ぎゅっ、と目を閉じる。奥歯がかちん、と鳴った。
怖がられたくない──。
「撃つんじゃねえ」
維茂の声。
弓の弦がゆるむ音。
足音が近づく。ゆっくりと。
呉葉の脈がきゅっと止まる。
「なんだその角……」
「み、見るな」
自分でも驚くほど声が震えている。
ダメだ。
次の言葉は、もうわかってる。
沈黙。風の音すら聞こえない。
足音が、目の前で止まる。
そして──。
「かっけー!」
間抜けなくらい明るい声が、空気を破った。
「……は?」
呉葉はあっけにとられて目を開けた。
維茂が目を輝かせている。
「なんだその角! めっちゃかっけー!」
「う……うるさい……!」
角を隠したまま、弱々しく怒鳴り返す。
周囲の兵士たちも、山賊たちも、ぽかんと口を開けたまま固まっている。
沈黙の中。
維茂がさらに足を踏み出す。
呉葉は後ずさり……しようとしたが、足がいうことを聞かない。
維茂は呉葉をまじまじと見つめ──突然、叫んだ。
「惚れた!」
そして手を差し伸べる。
「お前、俺の嫁になれよ!」
「…………は?」
呉葉は固まった。
(え? なんて?)
頭の中が真っ白になる。
……今、なんの話してた?
『化け物』とか『鬼』とか言われる覚悟はしてた、のに。なんだそれ。聞いたこともない。意味がわからない。
維茂がさらに一歩踏み出す。
呉葉は角をぎゅっと手で握ったまま、縮こまった。
「頭領!」
熊武の声が飛んだ。
次の瞬間熊武が走りこんできた。
泡を食った兵士たちがぱっと散った。
よろめき、逃げ惑う。
「あ、コラ、逃げるな!」
維茂が慌てた。その声に呉葉ははっと我に返った。
ふっ、と息を吐いて紅葉の幻を作り出す。
突然のことに兵士たちはぎょっとした。
その隙に熊武が呉葉の肩をつかんだ。
「今のうちに!」
呉葉は足に無理やり力を込め、熊武の腕を掴んで立ち上がる。
そのまま熊武に支えられながら、引きずられるように洞窟へ逃げ込んだ。
山賊たちが槍をがっ、と入り口に並べた。木を組んだ柵で正面を塞ぐ。
「やっべ、逃げられた」
外では維茂が頭をかきながらぼやいていた。
周囲を見渡し、怪我をしている兵士に目を止める。
そしてめんどくさそうに肩をすくめた。
「しゃあねえ。いったん引くか」
維茂は洞窟の奥へ声を張った。
「呉葉! あとでもっかい求婚しに行くからな!」
「くんな」
か細い声で呉葉はどうにか言い返した。




