―1―
輿は、ゆるやかな坂を下っていく。
山道の静かな雰囲気が、次第に雑多な喧騒に変わっていく。
忙しない足音。犬の吠える声。
煮炊きの匂いに、鼻を突くような糞尿の匂い。どこかで木を燃やす煙まで混じって、胸の内がむわっとする。
呉葉は指先で簾をわずかに持ち上げた。
道沿いに並ぶのは粗末な建物。
行き交うのは、子供を抱えた町人や腰の曲がった老婆、声を張り上げる物売り。
……通り過ぎる人々は、無遠慮な視線を向けてくる。
目が合ってもすぐに逸らされる。
呉葉の口から、思わず漏れた。
「都って思ったより汚ないんだな」
胸の内で、期待がするりと滑って落ちた。
熱が引いていき、代わりに、じわりとした重たさが広がっていく。
「いい加減、顔を引っ込めておけ」
隣を行く維茂が、めんどくさそうな顔をする。
「ここはもう都の中だ。お前が妙なことをすると経基の評判に関わるんだよ」
呉葉は唇を尖らせて、しぶしぶ簾の中に顔を引っ込めた。
しばらくして。
ようやく、輿が止まった。
外でいくつか言葉が交わされ、足音が遠ざかっていく。
残るのは風の音と、水の流れる音だけ。
呉葉は簾の隙間から、そっと外をうかがった。
一面の白い砂。
ずっと奥に木が植えてあり、池のような場所も見える。
周囲を塀が取り囲み、池の向こうには大きな門も見えた。
(なんだここ……?)
反対側も覗く。
見たこともないほど大きな建物。左右に渡り廊下が伸び、その先でまた別の建物へ繋がっている。
(貴族の屋敷だ)
腹の奥が、ぶわっと熱くなった。
──都についた。
里では見たこともないような場所。
なのに、人の気配がない。
耳を澄ましても、ざわめき一つ聞こえない。
(早く外に出てみたい)
脈がまた早くなってくる。
こらえきれず、簾に手が伸びる。
(まだ出たらダメだろうか)
……都の女人は、みだりに人に顔を見せない。
経基の言葉を思い出して、ぎりぎりで手を引っ込める。
「もういいぞ」
経基の声。それから、簾が開かれた。
(まぶしい──っ)
強い日差しが急に入ってきて、視界がにじんだ。
暗い輿の中にいたせいで、目がちかちかする。
薄目を開けたまま、呉葉はそろそろと外に出た。
周りには維茂と経基しかいない。
経基が扇を手に、淡々と言う。
「じきに案内の者をやる。それまで待つといい」
胸の中に、風が吹き抜けていくような気がした。
こんな広すぎる場所で、人を待つ?
呉葉は経基の顔を見る。
「経基が案内してくれるんじゃないのか?」
「そうしても良いが……あとで困ったことになるぞ」
経基は苦笑を浮かべた。
維茂は呆れた顔をした。
「馬鹿かお前。経基はここの御館様なんだぞ。雑用押しつけんな」
「馬鹿って言うな!」
むっとして、呉葉は言い返した。
経基は扇を口元に当てて目を細める。
「……そのあたりのことは、これからおいおい学んでもらえばいい」
そう言い残して、経基は建物の方へ歩き始めた。
「では後程」
「えっ」
思わず声が出てしまう。
本当に取り残されてしまう。
……追いかける? でも"待て"と言われてしまった。
立ち尽くしていると、維茂が肩をすくめた。
「じゃあな田舎娘」
維茂も手をひらひらと振りながら、門の方へ歩き始める。
「来月まで追い出されずにいられたら、菓子でも買ってやるよ」
「子供じゃない!」
叫ぶ間に、維茂はそのまま池に架かる橋を渡って門の外へ。
振り返ると、経基も建物の中へ入っていってしまった。
広い中庭に、ただ一人。
呉葉は茫然と立ち尽くしていた。
真っ白な砂の上に、自分の影だけがぽつんと落ちている。
(待てって……いつまで?)
輿に寄りかかったまま、ぼんやりと周囲を眺める。
(もしかして、このまま忘れられて、なんてことは……ない、よな?)
指先が冷えていくような感覚。
額を伝う汗を指で拭う。
ふと人の気配に気づき、正面へ目を向ける。
正面の大きな建物の中から、誰かが近づいてくる。振り分け髪の女童だ。
女童は、ちょこちょこと歩いて呉葉の側へやって来て、手招きをした。
「アタシか?」
呉葉が自分を指差すと、女童はこくっと顎を引いた。
「常陸さまがお呼びです」
可愛らしい声。
「常陸さま?」
問い返すと、女童はくるっと背を向けて歩き出した。
(ついてこい、ってことだよな)
呉葉は怪訝そうに女童の背を見た。
けど、他に誰かが来るような気配もない。
(……とりあえず、行ってみるしかないか)
白砂を踏みしめて、歩き始める。
女童は建物の横へ。渡り廊下の下をくぐり、さらに奥へ。
奥にもまた別の建物があり、さっき正面に見えた大きな建物と渡り廊下で繋がっている。
(どれだけ広いんだ)
中に入ったら迷わないだろうか、と呉葉は不安になった。
奥の建物の前まで来たところで、女童は中を指さした。
「入れ、ってこと?」
女童はうなずく。
呉葉は履物を脱いで縁側へ上がった。御簾を持ち上げて、中へ。
奥行きのある板間は薄暗い。
……目が慣れるまで、一瞬の間。
(……え?)
板間には、色とりどりの女房装束を着た女性たちがずらりと並んでいた。
衣の華やかさよりも、その空気に息をのむ。
張り詰めた沈黙。値踏みする目。扇の影から覗く表情と、ひそひそ交わされる囁き。
「お座りなさい」
中央にいる、もっとも豪華な装束の女性が言った。
緋袴に淡い藍色の単衣、濃い青の袿。
年は二十後半くらいだろうか。
扇で口元を隠したまま。声は低く、落ち着いている。なのに、背筋が勝手に伸びるような圧を感じる。
息が詰まるような重たい空気。
呉葉は戸惑いながら、その場に腰を下ろした。
「殿から仰せつかっています。あなたが、新しく殿がお迎えしたという方ですね」
「呉葉だ」
呉葉は視線を逸らさずに言った。
つい下を向きたくなるほどの、威圧感。
(だけど……)
下を向いたり、縮こまったりなんて、してやるもんか。
呉葉は眉に力を込めた。
周囲の女房たちは、扇で口元を隠したまま。なにかを囁き合っている。
中央の女房は、じっと無言で呉葉を見つめている。
やがて、呆れをにじませた吐息をこぼした。
「わたくしは、常陸と申します」
「あ……」
さっき女童が言っていた名前だ、と気づく。
そういえば、あの女童はいつの間にかいなくなっている。
きょろきょろと見回していると、呆れたようなため息が聞こえた。
「うかがっていた通り、作法もしきたりもわかっておられないようですね」
「……なにかダメだったか?」
さっそく、なにかやってしまっただろうか。
「座り方。足を広げない」
「っ」
びくっとして、呉葉は慌てて座りなおした。
「頭を下げるときは指先をそろえなさい。声が大きい」
「ウヘェ」
変な声が出た。
すかさず突き刺すような視線が飛んできて、呉葉は口を閉じる。
「それと、ここでは本名を呼び合うことはいたしません」
「なんで──」
常陸の目つきがさらに鋭くなる。
呉葉は息をのんで、再び口を閉じた。
「それが作法というものです。あなたは……」
常陸は言葉を切り、じっと呉葉を見つめた。
心の奥まで覗かれるような視線に、背を嫌な汗が伝う。
やがて、目線がわずかにやわらぐ。
「いろいろと足りないものが多すぎますが、瞳の色だけは珍しい。……そうですね、"紅葉"とでもお呼びしましょうか」
「え、でも」
「でも、です」
短い言葉なのに、有無を言わせない。
肌を撫でるみたいに冷たい視線に、呉葉は押し黙った。
これも都のしきたり、なんだろうか。
維茂や経基が言っていたように、細かい決まりが山ほどあるんだろう。
(……だったら、従うしかない)
呉葉はまっすぐ常陸の顔を見る。
(これも、都で成り上がるためだ)
呉葉は息を吸ってから言った。
「わかった」
「その言葉遣いもどうにかなさい」
すぐさま、鋭い言葉が飛んでくる。
吸い込んだばかりの空気が抜けそうになる。
呉葉は唇を結び、どうにかこらえた。
「あなたの教育係は──」
常陸は、後ろに目を配った。
「そうね、あなたにお願いします。──藤」
「は、はい……」
後ろから、震えるような返事。
続けて、一人の女房が前に進み出てくる。
濃藍の袴、薄紫の単衣に鈍い青色の袿。どこか幼さの残る若い女性だ。
表情は緊張で固くなっている。
その女房は、なめらかな仕草で手をそろえ、床に指をついて頭を下げた。
「藤、と呼ばれています。よろしくね」
ほうっ、と見とれてしまってから、呉葉は気を取り直した。
「よろしく藤! アタシは呉葉──」
「紅葉、でしょ」
すかさず藤は訂正する。
「あ、そか」
名前は呼び合わない、だった。
(気をつけなきゃな)と、呉葉は胸の内で釘を刺した。
「後は頼みましたよ藤」
常陸はすっ、と立ち上がった。
そのまま、音もなく奥の間へ。他の女房たちもそれに続く。
後には、呉葉と藤だけが残された。




