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―3―

 それから数週間が過ぎた。


 信濃国。

 戸隠と周辺の荘園は、まるで見えない糸で締め上げたような緊張に包まれていた。

 冷え切った山道には霧が立ち込めている。


 租税を積んで都へ向かう荷駄隊が、ことごとく襲われる──。

 噂は油を落としたようにじわじわと広がった。


 護衛を増やしても目立つし、小分けにすれば弱くなる。

 通る道を変えたくても、山の中では選びようがない。

 無事にたどり着けたのは、数えるほどしかなかった。


「戸隠には鬼がいる」

「山賊を率いているのは鬼女」

「紅葉の呪術をつかう"鬼女紅葉"──」


 最初は笑っていた者たちも、次第に減っていった。

 護衛を求める貼り紙の前で誰も足を止めない。『鬼女』の字を見ただけで、郎党たちですら顔を背けていく。

 やがて荘園のいくつかは租税を送ること自体を諦めはじめた。

 荘官たちの胃は重くなり、帳簿の文字だけが増えていく。



 鬼無里の荘園では、追捕使たちが山道を警備していた。

 しかし不思議なほど鬼無里の周辺には山賊は現れなかった。


「どうしたものか……」

 荘官はこめかみを押さえた。


 都から預かった罪人には逃げられてしまった。

 探そうにも人手が足りない。

 だというのに、租税も都に送らなければならない。

 そうしなければ最悪責任を取らされて、首が飛ぶ。

「やるしかない、か」


 総勢にして百名ほど。

 馬のいななき。鎧の綴れ、金具がこすれる音。

 追捕使たちと荷駄隊は、すでに出発する支度が整っている。


「なあに、ふもとまでたどり着いたら、あとは東山道まですぐですよ」

 隊長である太り気味の男がへらへらと笑う。

「これだけの人数が護衛についているんです。山賊なんか近寄って来ませんよ」

 男は腹を叩いた。

 荘官は眉をひそめる。胸の中の不安はまったく消えそうにない。

「まさか鬼女なんていう噂を信じておられるのですか?」

 隊長は笑った。

「本物の鬼なんているわけがないでしょう。どうせ、臆病なヤツらが自分の恥を隠すためについた嘘ですよ」

 荘官は顔をしかめたまま黙り込んだ。

 それが嘘なら、どれほど気が楽か。

「……くれぐれも気をつけてくれ」

 苦い顔で、それだけつぶやく。

 隊長は手をひらひらと振った。

「返り討ちにしてやりますよ」


 ……それが、最後に聞いた"元気な声"だった。



 その、次の夜。

 追捕使の一団はボロボロになって戻ってきた。

 鎧は泥まみれ。烏帽子は破れ、刀は曲がるか、折れている。

 松明の火が照らす顔は、皆青ざめていた。


 荷駄隊は全滅。

 積み荷はすべて奪われた。


 その報告に荘官の声が裏返った。

「なにがあったのだ」

 真っ先に逃げ戻ってきていた隊長が、震える声を絞り出した。

「鬼、が……紅葉の鬼女が、出た……」


 荘官はため息をついた。

 噂であってほしかった、という願いは、叶わなかった。


 疲れた顔の荷夫が空の荷車を引いて戻ってくる。

 荷のなくなった馬が寂しそうに鼻を鳴らす。


「やはり……我々だけではどうにもできん」

 口の中が乾く。

 責任。叱責。……罰。

 そんな言葉が頭の中をぐるぐると巡る。


「都に助けを求めよう」



◇◆◇◆◇◆◇



 一方、都。

 戸隠周辺の山賊騒ぎはここにも届いていた。


 左衛門府。

 詮議の間に紫装束の男──荘園の持ち主である大臣家の一門が、真っ赤な顔で座り込んでいる。

 灯りは落とされ、薫物たきものの香がかすかに漂う。

 集まった公卿たちの表情は、みな重く沈んでいた。


「大臣家一門の面子がかかっている」

 その一言で、速やかに討伐軍を送ることが決まった。

 しかし、そこで詮議は止まっていた。

「それで──誰を行かせるのですか」

 参議の一人が尋ねる。

 誰もすぐには答えない。扇の紙がこすれる音と、咳払いだけが返ってくる。

「信濃の山奥、か……」

 中納言が低くうめいた。

「坂東も瀬戸内も、ようやく落ち着いてきたというのに」

「誰ぞ適任者はおらんのか」

 再び、沈黙。


 "適任"とは──武にたけている者、ではない。

 政治をかき回さず、いらぬ恨みを買わず、かつ成果を持ち帰る者。

 ……そんな都合のいい駒はそう多くない。


 源経基が、顔を上げた。

「平維茂を討伐軍の大将に据えてはいかがでしょう」


 その瞬間、紫装束の顔が露骨にゆがんだ。

「あれは乱暴すぎる」

 大納言も中納言もしかめ面でうなずく。

「あれは関白家の子弟ともめごとを起こしたばかりではないか」

「あの一門に目をつけられるのはまずい」

 畳の上をざわめきが走る。

 経基は眉一つ動かさない。

「維茂も反省して謹慎しております」

 貴族は不機嫌そうに鼻を鳴らす。

「今回の討伐を受けることで反省を示してもらう、というのはいかがでしょうか」


 "反省"という名の、都合の良い鎖。

 口実を与えたことに満足したのか、沈黙が少しだけ和らいだ。

「……よかろう」

 貴族が重苦しそうに首を動かした。



◇◆◇◆◇◆◇



 左衛門府の庭で、維茂は平伏したまま目だけを動かした。


 御簾の手前に座っていた経基が告げる。

「信濃の戸隠周辺で、恐ろしい鬼女が荘園を荒らしている」

「……鬼女?」

 顔を上げた維茂は、怪訝そうに首を傾げた。

 うっかり鼻で笑いそうになるのを、ぎりぎりでこらえる。

「さすがに鬼女はいないだろ」

「それを確かめるのも、お役目のうちだ」

 経基の声はやわらかい。

 しかし、逃げられない重たさを含んでいる。


「租税の荷駄隊が襲われて困っているのだ」

 御簾の後ろから声が聞こえた。

 わずかに紫装束が見える。一番嫌いな色だ、と維茂は心の中で吐き捨てた。



 ――鼻をつく、むせ返るような重たい薫物の匂い。

 いつだったか。自身が流された根も葉もない「重税」の噂。その本当の元凶である大貴族の子弟の館へ怒鳴り込んだ日のことが、脳裏にこびりついている。

 御簾の向こうで響く、薄ら笑い。

 こちらを見下ろす、冷え切った白い目。

 力づくで押さえつけられ、頬をこすりつけた白砂の、ひどく冷たい感触。


 正しいかどうかなんて関係ない。都では、御簾の奥に座る「紫」の言葉だけが正義だ。

 あの日の泥の味が、ふたたび舌の裏に蘇るのを感じて、維茂はギリッと奥歯を噛み締めた。


「おかげで新嘗祭の支度が滞って困っておるのだ」

「……はあ」

 維茂は気のない返事を落とした。

 よりにもよって揉めた一門と同族。

「……それで都から討伐軍を出すのか? 朝廷の軍隊だろ?」

 つい、口からこぼれる。

 その瞬間、貴族の眉がつりあがる。

 にらみつけないだけでもマシだろ、と維茂は思った。


 こほん、と経基が咳払いをする。

「維茂。……大人になれ」

 その一言は、刃物のように静かで鋭かった。

「都で生きるということを考えろ」

 維茂は舌打ちをこらえて、深く頭を下げた。

 ……下げないと、侮蔑が顔に浮かびそうだった。

 平伏する頭の上から貴族の視線が落ちてくる。

 見下ろすことで自分が偉いと確かめる、いつもの目だ。


「坂東武者のお前ならきっと退治してくれると信じている」

 貴族は恩着せがましい声で続ける。

「この討伐が成功したら、お前を免罪するようはからってやる」

(……なにが免罪だ、えらそうに)

 維茂は心の中で吐き捨てた。

 ──オレは、なにも間違ってない。


 冤罪。讒言。

 誰かを貶めるために平気で嘘をつくヤツら。

 嘘を嘘だ、と言っただけで、どうして頭を下げなきゃいけないのか。

 喉の奥が苦しくなっていく。


 経基と目が合う。

 わかっているな、というように、経基は静かに目を閉じた。


 腹の中に苦いものがたまっていく感覚。

 それでも維茂はうなずいた。

 都で生きていくなら、飲み込むしかない。

「謹んで、お役目お引き受けいたします」

 貴族は御簾の向こうで、満足そうに扇を広げた。



 そのとき、ふと──鬼無里まで届けた呉葉の顔が脳裏をよぎった。

 口が悪くて、強情で……目だけが、妙にまっすぐな女。

 鬼無里と戸隠は、距離が近い。

(巻き込まれてねえといいけどな)

 維茂は胸の内でそうこぼした。

 同時にあの跳ねっ返りな性格を思い出す。

(いや、あいつならやりかねねえな)

(なんて、まさかな)

 維茂は つい口の端がゆるんだ。


 それから維茂はむくり、と体を起こした。

「では出立の準備をしてまいります」




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