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―1―

 翌朝。

 朝霧が畑をなでるように薄く漂い、かまどに火を入れはじめた煙が、谷へゆるやかに流れていく。湿った土の匂いが鼻先にまとわりつく。


 呉葉は、まだ空が藍のままのうちから身を起こしていた。

 寝床に横になっても、胸の内だけが落ち着かない。頭のどこかが「ここは牢だ」と言い続ける。

 だから歩く。歩いて、確かめる。

 散歩、なんてものじゃない。"抜け道探し"だ。


 山と谷に囲まれている鬼無里の地は、道らしい出口はひとつだけ。それも、細く曲がりくねった山道があるだけだ。

 そこには追捕使の詰所がある。

 丸太を組んだだけの荒い柵。そして、かがり火が焚かれている。松脂の匂いが、鼻の奥に張り付く。

 研いだ金属の先端が、赤い火できらめいていた。


 近づく呉葉に気づいて、番をしていた男がじろっと睨んだ。

 すぐさま他の門番たちも視線を向けてくる。


 これでは普通に通るのは無理だ。

 呉葉はあきらめて引き返した。


 なら道じゃないところから――と、山の斜面に無理やり踏み込んでみる。

 しかし、木々が重なり空が見えなくなると、方角は一瞬でわからなくなった。

 笹薮が脛に絡み、落ち葉がふかふかして足が取られる。柔らかいのに、やたらと進めない。

 陽の筋も届かない暗さに、背中がひやりとした。

 ……迷ったら、笑えない。

 汗が首筋をつたう前に、呉葉はそこも引き返した。


 もっとも、仮に荘園を抜け出せたとして、都までの道なんてわからない。

 わかったとしても、今度は路銀がない。

 食うもの、寝る場所。関所はどうする?

 与えられた小屋の前まで戻ってきて、呉葉はうなだれた。


 気持ちだけが前のめりで、体の奥がじりじりとうずく。

 握った拳をほどき、もう一度、ぎゅっと握りしめる。爪が手のひらに食い込む痛みで、なんとか現実に縫い留める。


 ふと、顔を向ける。

 荘園の中を行き交う人影が、やたらと多い。追捕使の服装だ。

 しかも、ほとんどが武装している。鎧のこすれる音、弓の弦がきしむ音がする。


「戦でもあるのか?」

 呉葉は近くを歩いていた追捕使を捕まえて尋ねた。

 男は迷惑そうに眉をひそめる。

「山賊が出てるだろ?だから近くの荘園から集められたんだよ。こっちだってヒマじゃねえのにさ」

「山賊?」

「聞いてないのか?もう何度も、旅人や商人が襲われてる」

 呉葉は改めて周りを見た。

 そういえば、どことなく荘園の空気が暗い。怯えたような顔の荘民。怪我をしている者も、ちらほらいる。

 道端には壊れた荷車。矢が刺さったままのもある。

「……あれも、そいつらのせいか?」

 眉を寄せる。

「商人が寄りつかなくなって、こっちから物を売りに行くこともできない。おかげで塩も薬も入ってこない。……ま、そういうこった」

 男は苛立たしそうに鼻を鳴らした。


 塩も薬も、命に関わる。

 呉葉は唇を噛んだ。


「山賊はどこにいるんだ」

「さあな。戸隠に向かう峠に出たって聞いたが、他の山道も危ないらしい」

 そこでようやく、男は呉葉の顔をまじまじと見た。

 今さら、自分が話していた相手に気づいたらしい。

「お前、都から流されて来たヤツじゃないか。あんまり出歩くな」

「荘園の中なんだから別にいいだろ」

 男は不機嫌そうな顔をした。

「ほんとにこれが貴族の女房さまだったのかねえ」

 ぶつぶつとつぶやきながら、男は去っていった。



 背中を見送ったあと。

 呉葉は口の端をふいにゆるめた。


(決めた)

 拳にぐっと力を込める。

 胸の中のくすぶりが火に変わっていく。


「山賊ぶったおせばいいんだ」

 その"成果"としてなら、少しくらいもらってもバチは当たらない。どうせ奪われた金だ。

 ──路銀さえ手に入れば、あとはどうにかなる。


 両方の拳を、ぱん、と打ち合わせる。

 乾いた音。拳の力強い感触が心地良い。


「まずは山賊退治だ!」



◇◆◇◆◇◆◇



 山の夜は、早い。

 空気は一段と冷えて、指先がじんとする。


 呉葉は詰所を目指して歩いていく。

 火の赤が目に痛い。追捕使たちの影が地面に揺れている。


 近づいていくと、追捕使たちはさっと身構えた。

 槍を手に取る者もいる。

 が、やってきたのが呉葉一人だと気づいて、肩の力を抜いた。


 呉葉はその前まで来ると、手を出した。

「山賊を退治しに行くから通せ。ついでに武器も貸してくれ」

「はあ?」

 中の一人が、怪訝な顔をする。


 つかの間の静寂。

 続いて、一斉に怒号が返ってきた。

「お前罪人だろ。馬鹿を言うな!」

「おまけに武器だと?そんなことしたら俺達の首が飛ぶ」

「寝言は寝て言え!」


 呉葉は頬を膨らませた。

 ……山賊を退治してやる、って言ってるのに。


「とっとと帰れ!」

 追い払うように振られる手。

 呆れたような目つき。

 イラッとして、呉葉は彼らをにらみつけた。

「……どうしてもダメか?」

「当たり前だろう」

 呉葉はわざとらしくため息をついた。

「まあ、そうだよな」


 にっ、と笑う。

「ま、アタシは許可されてもされなくても──勝手に行くけどな」

 足に力を込める。膝を曲げる。

 視界の端が紅く染まる。頭の中がカッと熱くなる。

 次の瞬間、呉葉は地面を蹴っていた。


 体が宙を舞う。

 男たちの頭上。柵もかがり火も詰所も、その全部をひと息に飛び越える。


「……は?」

 呆けた声が背中に飛んできた。

 着地。わずかに土埃が舞う。


「それじゃ行ってくる」

 肩越しに手を振り、呉葉は闇の中へ駆け出した。



 あとには、ぽかーんと口を開けたままの男たちが残された。

 かがり火のぱちぱちいう音だけがやけに大きい。

「なんだ今の」

「人なのか……?」

 一人が、ぶるっと身震いをする。

「お、追わないと……」

「あれをか?」

 言われた男は、青くなって首を横に振る。

「……報告だけでいいだろ」

 追捕使たちは顔を見合わせ、うなずきあった。




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