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翌朝。
朝霧が畑をなでるように薄く漂い、かまどに火を入れはじめた煙が、谷へゆるやかに流れていく。湿った土の匂いが鼻先にまとわりつく。
呉葉は、まだ空が藍のままのうちから身を起こしていた。
寝床に横になっても、胸の内だけが落ち着かない。頭のどこかが「ここは牢だ」と言い続ける。
だから歩く。歩いて、確かめる。
散歩、なんてものじゃない。"抜け道探し"だ。
山と谷に囲まれている鬼無里の地は、道らしい出口はひとつだけ。それも、細く曲がりくねった山道があるだけだ。
そこには追捕使の詰所がある。
丸太を組んだだけの荒い柵。そして、かがり火が焚かれている。松脂の匂いが、鼻の奥に張り付く。
研いだ金属の先端が、赤い火できらめいていた。
近づく呉葉に気づいて、番をしていた男がじろっと睨んだ。
すぐさま他の門番たちも視線を向けてくる。
これでは普通に通るのは無理だ。
呉葉はあきらめて引き返した。
なら道じゃないところから――と、山の斜面に無理やり踏み込んでみる。
しかし、木々が重なり空が見えなくなると、方角は一瞬でわからなくなった。
笹薮が脛に絡み、落ち葉がふかふかして足が取られる。柔らかいのに、やたらと進めない。
陽の筋も届かない暗さに、背中がひやりとした。
……迷ったら、笑えない。
汗が首筋をつたう前に、呉葉はそこも引き返した。
もっとも、仮に荘園を抜け出せたとして、都までの道なんてわからない。
わかったとしても、今度は路銀がない。
食うもの、寝る場所。関所はどうする?
与えられた小屋の前まで戻ってきて、呉葉はうなだれた。
気持ちだけが前のめりで、体の奥がじりじりとうずく。
握った拳をほどき、もう一度、ぎゅっと握りしめる。爪が手のひらに食い込む痛みで、なんとか現実に縫い留める。
ふと、顔を向ける。
荘園の中を行き交う人影が、やたらと多い。追捕使の服装だ。
しかも、ほとんどが武装している。鎧のこすれる音、弓の弦がきしむ音がする。
「戦でもあるのか?」
呉葉は近くを歩いていた追捕使を捕まえて尋ねた。
男は迷惑そうに眉をひそめる。
「山賊が出てるだろ?だから近くの荘園から集められたんだよ。こっちだってヒマじゃねえのにさ」
「山賊?」
「聞いてないのか?もう何度も、旅人や商人が襲われてる」
呉葉は改めて周りを見た。
そういえば、どことなく荘園の空気が暗い。怯えたような顔の荘民。怪我をしている者も、ちらほらいる。
道端には壊れた荷車。矢が刺さったままのもある。
「……あれも、そいつらのせいか?」
眉を寄せる。
「商人が寄りつかなくなって、こっちから物を売りに行くこともできない。おかげで塩も薬も入ってこない。……ま、そういうこった」
男は苛立たしそうに鼻を鳴らした。
塩も薬も、命に関わる。
呉葉は唇を噛んだ。
「山賊はどこにいるんだ」
「さあな。戸隠に向かう峠に出たって聞いたが、他の山道も危ないらしい」
そこでようやく、男は呉葉の顔をまじまじと見た。
今さら、自分が話していた相手に気づいたらしい。
「お前、都から流されて来たヤツじゃないか。あんまり出歩くな」
「荘園の中なんだから別にいいだろ」
男は不機嫌そうな顔をした。
「ほんとにこれが貴族の女房さまだったのかねえ」
ぶつぶつとつぶやきながら、男は去っていった。
背中を見送ったあと。
呉葉は口の端をふいにゆるめた。
(決めた)
拳にぐっと力を込める。
胸の中のくすぶりが火に変わっていく。
「山賊ぶったおせばいいんだ」
その"成果"としてなら、少しくらいもらってもバチは当たらない。どうせ奪われた金だ。
──路銀さえ手に入れば、あとはどうにかなる。
両方の拳を、ぱん、と打ち合わせる。
乾いた音。拳の力強い感触が心地良い。
「まずは山賊退治だ!」
◇◆◇◆◇◆◇
山の夜は、早い。
空気は一段と冷えて、指先がじんとする。
呉葉は詰所を目指して歩いていく。
火の赤が目に痛い。追捕使たちの影が地面に揺れている。
近づいていくと、追捕使たちはさっと身構えた。
槍を手に取る者もいる。
が、やってきたのが呉葉一人だと気づいて、肩の力を抜いた。
呉葉はその前まで来ると、手を出した。
「山賊を退治しに行くから通せ。ついでに武器も貸してくれ」
「はあ?」
中の一人が、怪訝な顔をする。
つかの間の静寂。
続いて、一斉に怒号が返ってきた。
「お前罪人だろ。馬鹿を言うな!」
「おまけに武器だと?そんなことしたら俺達の首が飛ぶ」
「寝言は寝て言え!」
呉葉は頬を膨らませた。
……山賊を退治してやる、って言ってるのに。
「とっとと帰れ!」
追い払うように振られる手。
呆れたような目つき。
イラッとして、呉葉は彼らをにらみつけた。
「……どうしてもダメか?」
「当たり前だろう」
呉葉はわざとらしくため息をついた。
「まあ、そうだよな」
にっ、と笑う。
「ま、アタシは許可されてもされなくても──勝手に行くけどな」
足に力を込める。膝を曲げる。
視界の端が紅く染まる。頭の中がカッと熱くなる。
次の瞬間、呉葉は地面を蹴っていた。
体が宙を舞う。
男たちの頭上。柵もかがり火も詰所も、その全部をひと息に飛び越える。
「……は?」
呆けた声が背中に飛んできた。
着地。わずかに土埃が舞う。
「それじゃ行ってくる」
肩越しに手を振り、呉葉は闇の中へ駆け出した。
あとには、ぽかーんと口を開けたままの男たちが残された。
かがり火のぱちぱちいう音だけがやけに大きい。
「なんだ今の」
「人なのか……?」
一人が、ぶるっと身震いをする。
「お、追わないと……」
「あれをか?」
言われた男は、青くなって首を横に振る。
「……報告だけでいいだろ」
追捕使たちは顔を見合わせ、うなずきあった。




