―3―
翌朝。
呉葉が目を覚ましたときには、経基と維茂は「支度をしてくる」と言って、早朝にどこかへ出ていったあとだった。
父は大急ぎでどこかへ出かけていってしまい、母も蔵をひっくり返し始めた。
大げさだなと思いながら、呉葉も自分の荷物をまとめることにした。
(都まで、どのくらいかかるんだろ)
ずっと西の方、と聞いた。
山や川をいくつ越えるのか。どんな土地を通るのか。
想像するだけで、胸がそわそわ騒ぐ。
あっという間に、数日が過ぎた。
呉葉は母に呼ばれて離れの間に入った。
そこには衝立がいくつも並べてあり、見慣れない衣装がかけられていた。
恐る恐る、触れる。
「え、これ絹?」
呉葉はつい大きな声を上げた。
指先がするっと滑る。
白い小袖に、濃い緋色の袴。いつもの、ざらつく麻の衣装とはまるで違う。
「すごい。こんなの持ってたんだ」
「こういう日のためにしまい込んでおいたの。……いいから早く着なさい」
母は急かすように手招きする。その声はどこか固い。
うきうきしながら袖を通す。
衣擦れの音すらやわらかい。布地が肌に触れるだけで、心が軽くなる。
明るい紅色の単衣。その上に淡い萌葱色の袿を羽織る。
「都の女房って、こんなのを着るんだ」
こんな色の重ね、はじめて見た。
うれしさに、口元が勝手にゆるんでしまう。
「これも持っていきなさい」
母が手に取ったのは紅色の紐だった。
呉葉の目と同じ色。ただ、端のほうがちょっとだけ青い。
「これ、こないだ染めたやつ?」
「ちょっと失敗したけどね」
母は呉葉の肩に手を添えて、すっ、と後ろを向かせる。
「貴族のお屋敷で働くときは、頭布はかぶれないからね」
櫛で髪を梳いていく。いつもの優しい手つき。
耳の上で輪を作るように束ねる。余りを後ろにまとめて、紐で縛る。
きゅっ、と締まる感覚。
「こうすればアレは見えないから」
母が差し出した鏡を覗いて、呉葉は耳の上の輪を指先で確かめた。
……すこし、子供っぽい気がする。
(でも、仕方ない)
そう思って、呉葉は鏡から目をそらした。
「毎日、自分で髪を束ねるんだよ。たとえ親しくなった相手にも、絶対に見られてはならないからね」
「わかってるって」
うっとおしい、と思いながら答える。
「都の正しい作法を身につけるんだよ。それから──」
「心配し過ぎだ」
めんどくさくなって、呉葉は口をはさむ。
都へ行くことが決まってから、何度も何度も同じことばかり。
「大丈夫。アタシは絶対うまくやってみせるから」
すがるように袖をつまむ母の手を、呉葉は外した。
門の外には、すでに経基、維茂、それから十人ほどの従者が待っていた。
それを見ただけで、胸が高鳴る。
呉葉は反射的に走り出しそうになって、背後にいた母の咳払いに気づいて、はっと足を止めた。
(走らないんだった)
袴は膝まで持ち上げて、ゆるく紐で縛ってあるだけ。走ったら、ほどけてしまう。
ゆっくりと歩く。急がない、慌てない。
そう思っても、気持ちも足も全然止まってくれない。
「なかなか見栄えするではないか」
経基が扇で口元を隠したまま、言った。
視線を感じて呉葉はぱっと耳の上を押さえた。
髪で作った輪っかの感触。いつもの頭布がないだけで、気持ちがそわっ、とする。
「馬子にも衣装、ってやつだな」
「どういう意味だ?」
笑う維茂に、呉葉は首を傾けた。
従者たちの後ろには、見たこともない立派な輿が置かれていた。
屋形が備えつけられていて、左右には簾までかけられている。
担ぎ手が四人。その前後に控えている。
「すごい」
呉葉は思わずはしゃいだ。息が弾む。
「これに乗っていくのか?」
「都入りする女人を乗せるのだ。それなりの輿でなければな」
経基がさらっと言う。
「やっぱりすごいな、都って!」
輿の周りをぐるぐると回る。
「人が担いでくれる乗り物なんて、はじめてだ」
「落ち着けって」
維茂があきれた声を出した。
「本当に大丈夫かい」
「戻りたくなったら、いつでも戻ってきていいからな」
歩み寄ってきた母、そして父が、不安そうな顔をする。
(──戻る?)
冗談じゃない、と呉葉は首を振った。
戻ったって、こんな土地にはなにもない。
「戻ってくるときは、成り上がってからだ」
体の奥の熱は、どんどん温度が上がる一方だ。
呉葉は振り向きもしない。
「じゃあ、行ってくる」
そして、輿に乗り込んだ。
簾を下ろすと、思ったよりも暗い。外の音も聞こえづらい。
呉葉は簾を少し持ち上げて、外に顔を出す。
経基は従者が引いてきた馬の手綱を受け取った。
そして父に向き直る。
「受領どのには世話になった」
父は腰を折るように深く頭を下げた。
「どうか娘をよろしくお願い申し上げます」
「御息女は、たしかにお預かりした」
経基は目を閉じて、首をわずかに傾ける。
それから、さっと馬にまたがった。
「次にお目にかけるときは、立派な都の女房になっていることを期待しておいてくれ」
「問題を起こさなけりゃ、な」
維茂は小声でつぶやき、同じように馬に乗った。
経基がさっと手を上げた。担ぎ手が掛け声とともに輿を持ち上げる。
ふわっと体が浮く感覚。呉葉はあわてて柱に掴まった。
「それでは失礼する」
経基たちは、ゆっくりと馬を進め始めた。
蹄の音と、舞い上がる土埃の匂い。
呉葉は簾を持ち上げたまま、後ろに目を向けた。
父と母が、まだ不安そうに見ている。
呉葉は無言で、二人の姿が見えなくなるまで見つめ続けた。
そして、見えなくなったところで簾をおろした。
◇◆◇◆◇◆◇
山道が続く。
といっても、簾越しでは外の景色がわからない。どこを通っているのかさえ見当がつかない。
蝉の声はうるさくて、輿がきしむ音や担ぎ手のかけ声に被さってくる。
思った以上に揺れるし、風も入ってこないから暑い。
「なー」
呉葉は少しだけ簾を開ける。
すぐ横には馬に乗った維茂がいた。
「なんだよ」
「なにも見えなくて退屈なんだけど」
「……あのな。これから女房になろうって女子が外で顔を出すんじゃねえ」
「なんで?」
呉葉は本気でわからず、首を傾ける。
維茂は言いにくそうに頭をかいた。
「なんで、って……よくわかんねえけど、そういうのが上品なんだよ」
「……だから、なんで?」
「よく知らねえ、けど……そういう決まりなんだよ」
ごにょごにょと歯切れが悪い。呉葉は小さく頬をふくらませる。
「なんだそれ。都ってめんどくさいんだな」
「都の女人はみだりに人に顔を見せないものだ」
反対側から経基の声がした。わずかに笑みを含んだような声色。
簾からでは人影くらいしかわからない。
「しきたりや、たしなみを知らない者には、都人は厳しいからな」
「そんなのもったいないじゃないか」
呉葉は思わず口にした。
せっかく見知らぬ土地を旅しているのに、外も見れないなんて。
(こんなことなら、輿じゃなくて馬に乗せてもらえばよかった)
唇が勝手に尖る。
「だが、ここはまだ都ではない」
くすっと笑った気配。
「それに、ここには見咎める者もいない。道中の景色を眺めるのもまた風流というものさ」
「話せるじゃないか」
嬉しくなって、呉葉は簾を大きく開けた。
涼しい風が髪を優しく撫でる。木々の匂いが吹き込んでくる。
呉葉は肺いっぱいに外の空気を吸い込んだ。
道の先には見慣れぬ山陰が続いている。
里と同じような山の風景なのに、なにもかもが目新しく感じる。
「あとで苦労するのはお前だからな」
維茂がため息をこぼす。
「……あと、その言葉遣いもなんとかしろ」
「なんとかって?」
「お前がこれから行くのは大貴族の屋敷だ。そんな下女みたいな言葉遣いじゃ経基が笑われる」
「そんなこと言われても、どうしたらいいんだ」
眉をひそめて、口元をきゅっと結ぶ。
女房の言葉遣いなんて知らないし、わからない。
「まあそう焦るな、維茂」
経基が苦笑する。
「そうしたことも、おいおい覚えていってもらえばいい」
「けど、こんなんじゃ都についてから苦労するぜ?」
維茂の言葉に、経基は意味ありげに口元をゆるめた。
「なんだ、面倒見がいいな」
「そういうんじゃねえよ!」
維茂が少し焦ったように言い返す。
経基は軽く笑みを浮かべた。
「なに、道程は長い」
経基の声はのんびりしている。
そして呉葉と目を合わせた。
「まだお前はそのままでいい。気楽に構えて、気長に行こうではないか」




