―4―
夜は、まだ続いている。
油皿の火がじりっ、と揺れている。
経基はぱさっ、と扇を開き、顔の下半分を隠した。
呉葉は藤から視線を外せないまま、身体のどこかが凍っていくのを感じていた。
「ある日、わたしは紅葉が庭で呪術を使っているところを見てしまったのです。
……蝶の呪術でした」
藤の声。なのに、初めて聞くような響きだった。
硬く、冷たく、遠い。
呉葉の胸が、ぎゅっと縮む。
かすれた音が喉から漏れる。
口がうまく動かない。
(言わないって。誰にも言わない、って……)
そう言ったのに。言ってくれたのに。
足元で、なにかが崩れていく。ぞっとするほどの暗い穴へ、落ちていく感覚。
「……なぜ、黙っていたのだ」
経基が扇の陰から低く落とした。
「都で呪術を使うことがどういうことか、知らないわけではないだろう」
藤は扇をわずかに傾けた。
経基に顔を半分見せ、怯えた色を作る。
「そのときはそれが恐ろしいものだとは知らず、ただ蝶を見せるだけのもの、と……。
人を呪うような力はない、と言われ信じてしまったのです」
言った。
それは、確かに。
……だけど。
藤の言葉は、半分は本当。
でも半分は違う。
拳を握ろうにも、指が動かない。力が抜けていく。
「また別の日、紅葉が秩父の方から匂い袋を受け取っていました」
「それは秩父の下女も言っていたな」
経基がうなずく。
藤は顔をうつむかせる。
「その後……常陸さまがお客様にらしからぬ失態を、してしまいました」
「……あれは、確かにらしくなかった」
経基の声にふっ、と寂しさのようなものが乗る。
藤もそれに合わせるように小さくうなずく。
「そこで気づいたのです。
紅葉は、秩父さまに頼まれて常陸さまに呪詛を仕かけ、失態をさせたのだと。
匂い袋はその報酬だったのではないか、と」
息が詰まる。怒りより先に、痛みがきた。
それでも呉葉は必死に息を絞り出した。
「嘘だ!」
ようやく出てきた声は、かすれて震えている。
「藤! どうしてそんな嘘をつくんだ!」
藤の肩がぴくりと跳ねた。
「恐ろしい」
まるで作り物のような、怯えた表情。
経基の背に藤はすっ、と隠れる。
まるですがりつくような手。
(……藤?)
おぞましいとすら感じる。
藤はこんなふうに人の背に隠れない。
(なんだ、これは……)
背中が粟立つ。
藤は経基の後ろから半身だけ出す。
「普段から、紅葉は人並み外れた怪力でまわりを驚かせておりました。
『人ならざるモノ』『バケモノ』と」
藤の口から一番聞きたくなかった言葉。
胸が締め付けられる。
「そして昨日……朝から、秩父さまは異常に怯えておいででした」
藤の声をした音が、胸に響く。
「呪詛をしかけたのは人ではない。もっと恐ろしいものだ。
皆の言う通り、あれは、すべて紅葉の仕業だったのです」
(どうして)
呉葉は呆然と藤を見つめていた。
(そんなことを、言うんだ)
呉葉の膝が、勝手に震える。
畳が遠い。灯が滲む。
世界の輪郭が、ほどけていく。
「アタシじゃ、ない……」
喉から出た声は、自分でも頼りない。
泣きたくないのに、目の奥が熱い。
「アタシは、呪詛なんてしてない」
なんで信じてもらえない?
みんなが言うから?そう"見える"から?
……疑われたら、おしまい?
頭が、真っ白になる。
家司が、重たげに口をひらいた。
「呪詛人形に使われていた沈香の匂いのする紐。
紙人形の『紅葉』の字。
もはや、疑う余地はございません」
「──全ての辻褄が、合ってしまうな」
経基が、長く息を吐く。
その息が、呉葉の心の灯を消した。
(これが、都なのか……?)
呼吸が止まる。
涙が勝手にこぼれ落ちる。
油皿の灯火がじりっと音を立てた。
「惜しい、が……やむをえまい」
経基の視線が、呉葉の結った髪へ──その奥へ、刺さるように向けられる。
見えている。見えていないはずなのに、見られている気がする。
体が、足が、腕が。まったく動かない。
呉葉は、目だけを経基に向けた。
扇が閉じる。乾いた音。
経基はわずかに目を細めた。
……まるでなにかを惜しむように。
そして、まっすぐに呉葉を見据える。
「都で呪術を使うなど死罪に値する」
冷たい言葉が耳を通り抜けていく。
「本来ならば、陰陽寮に引き渡すべきところだ。
だが、当家に呪術を使う者が出た、などという噂が広まるだけでも致命的。
そんな者を屋敷に置いておくわけにはいかない」
淡々と。なにかを読み上げるような言い回し。
「……私は、家を守らなければならない」
経基は宣言するように、冷たい言葉を落とした。
「よって紅葉を都から追放し、信濃国戸隠の山奥、鬼無里の荘に流罪とする」
呉葉の奥歯が、ぎり、と鳴った。




