―3―
その夜。
寝殿の北の間には、宵の闇が濃く溜まっていた。月がなく、灯がふたつあっても隅々まで届かない。
油皿の火が、ときおり小さく鳴く。
経基が座し、隣に家司。
呉葉は正面に据えられ、背筋だけを頼りに座っていた。肌が焼けるように張りつめた静けさ。
喉が乾く。唾を飲み込む音が、自分の耳にだけ大きい。
経基は扇で口元を隠したまま、黙って座っている。
呉葉は静かに言葉を待った。
咳払い。
それから経基が静かに切り出した。
「呼ばれた理由は、わかっているな」
知らない。けど、わかってる。
どうせ──。
「あの紙人形のことだろ」
呉葉はぶっきらぼうに言い放った。
「アタシは知らない。誰かがアタシの葛籠に入れたんだ」
経基は顔をしかめた。
「では、この字を書いたのは?」
経基がちらっと目を動かす。家司が紙の人形をすっ、と差し出した。
『紅葉』の文字。
藤が教えてくれた文字だ。
何度も筆でなぞって、直してもらって、ようやく書けた文字。
「書いたのはアタシだ」
呉葉は吐き捨てた。
「でも紙を人の形になんてしていない。葛籠の中になんてしまっていない」
強い口調で言い切る。
(なんで、わからないんだ)
経基をじっと睨む。
経基はさっきから何度もため息を零していた。
思案するように、扇を開いたり閉じたり。指先で骨をなぞり、また開く。
長い沈黙。
「紅葉よ」
ようやく、経基が扇を閉じた。
「常陸のいた局の縁の下から、木の人形が見つかったことは知っているな」
「知ってる。見つかったところにいたからな」
あの凍りつくような空気。
誰かの息をのむ音。
……思い出したくもない。
「あれが呪詛の人形だ」
「そう聞いた」
「あの人形に使われていた紐には、沈香の香りがついていた」
沈香。
(……たしか、秩父がくれたやつだ)
「だが、秩父は呪詛に明るくない」
経基の視線が細くなる。
「誰か、代わりに呪詛を行った者がいる」
「なら、そいつを探すべきだろ」
呉葉は声に棘が混じるのを止められない。
「お前が──」
経基は言葉を途切らせ、目を閉じた。
とん、とん……と、軽く扇を額に当てる。
そして諦めたように目を開き、再び扇で口元を隠した。
「お前が怪しげな術を使うところを見た、という者がいる」
胸が冷える。
誰が?まさか。
誰にも見られていないはず。
指先に自然と力がこもる。
経基は家司に目配せする。
家司は小さくうなずき、後ろに声をかけた。
「入れ」
経基の横にある屏風の裏から、恐る恐るといった様子で下女が半身を出した。
顔色は青く、肩がかすかに震えている。
「どこで、それを見たのだ」
「はい……東の庭です」
呉葉はどきっとして下女を見る。
「お前の見たとおりに申せ」
家司の言葉に、下女はつばを飲み込んだ。
「先日の晩……灯の消し忘れがないか、見回りをしておりましたところ……。
東の庭の岩陰に、どなたかいらっしゃるのが見えたのです」
「岩というのは、庭の中ほどにある、人の背ほどもある大岩のことか」
「はい……」
小さく途切れそうな声。下女は続ける。
「なにをなさっておいでなのか、わからなくて……見ていたら……」
そして両肩を自分で掴む。
「はじめは、暗くてよくわからなかったのですが……雲が一瞬切れて、わずかに月明かりが差してきたとき、庭に……恐ろしい、人のような姿が……」
下女は息継ぎをしようとして、ひゅっと喉が鳴った。
「あれは……まぎれもなく、物の怪のしわざでした……」
下女は、ぶるっと大きく体を震わせた。
「すると、岩陰にいたお方が、さっと走り出すのが見えました。
暗かったので確かではありませんが、紅葉の方さまだということはわかりました」
呉葉はつばを飲み込む。
……見られて、いた。
でもどうして?
あの時間。あの場所には誰もいないって、藤が言ってたのに。
呉葉は無意識に歯を噛みしめていた。
「そのとき、お前はどこにいたのだ?」
「はい……東の対、です」
家司に下女は小さくなりながら答える。
一瞬、目の前が真っ暗になった。
藤は北の対に見回りはいないと言っていた。
でも東の対は……。
呉葉は唇を噛んだ。
──そんな力を持っていると知られれば。
母の言葉が、脳裏をよぎる。
都では生きることすら許されない。
「ふむ……」
経基は眉をひそめたまま目を閉じた。
なにかを思案するように扇をゆらりと動かす。
少しして目を開ける。
経基の扇が音を立てて閉じた。
「お前が秩父から沈香を受け取ったことは、秩父の下女から聞いている」
なんの光も感じられない突き放すような経基の目。
はじめて見る目だ。
経基の声はぞっとするほど冷たい。
「お前には、秩父に頼まれて常陸に呪詛をしかけた、という疑いがある」
「そんなわけないだろ!」
とっさに呉葉は叫んだ。
「デタラメにもほどがあるだろ! いい加減なことばっかり言うんじゃ──」
「デタラメでは、ない」
経基の低い声。
「秩父からもらった匂い袋の紐を使い、秩父に疑いが向くように仕向け、また秩父にも呪詛をしかけた。
また、呪詛返し除けとして自身の名を書いた紙を人の形に折り、隠し持った」
「だからあれは、アタシじゃ──」
「……お前は、周囲から『人ならざるモノ』と言われているそうだな」
言葉がぐっ、と詰まった。
耳の奥がぐわん、と揺れる感覚。
「『物の怪』『鬼』。……そう呼ぶものもいる」
「違う! アタシは人だ!」
とっさに叫ぶ。
「そいつらが勝手に言っているだけだ! そんな言葉を信じるのか経基!」
お願いだ。どうか、信じてくれ。
アタシは、なにも──。
しかし経基の表情は変わらない。
暗い瞳がただ冷たく見据えてくるだけだ。
がん、と頭を殴られたような衝撃。
体の内側に空いた穴から、すべてが抜け落ちていく。
(なんで)
信じてもらえない?
アタシを、誰も……。
「藤……」
はっとして、呉葉は目を上げた。
「藤を呼んでくれ!
アタシはそんなことしてないって、藤なら言ってくれる。藤を呼んでくれ!」
しかし返ってきたのは硬く、乾いた声。
「藤は会いたくないと言っている」
「そんなのウソだ!」
呉葉は叫んだ。
「藤がそんなこと言うはずがない。ウソを言うな経基!」
どん、と畳に手をつく。
身を乗り出し、さらに声を張り上げる。
「いいから藤に会わせろ!」
「紅葉……」
経基の目が細まる。
哀れみ。あるいは諦め。……のように見える。
そして、それはそっと閉じられた。
「経基!」
呉葉がさらに身を乗り出そうとしたとき。
藤が、屏風の陰から入ってきた。
「藤!」
どっと全身の力が抜ける。
よかった!
安堵が、両肩から大きく抜けていく。
藤は扇で顔を隠したまま、経基の隣に座った。
「藤! 経基に言ってくれ。アタシは呪詛なんてしてないって」
すがるように、呉葉は叫んだ。
藤は扇の裏からちらっと目だけを向ける。
「……藤?」
腹の底が凍りつくような感覚。
……なんだ、これは?
続いて、藤は呉葉を指さした。
「わたしは、紅葉が呪術を使う所を、この目で見ました」
息が、喉の途中で止まった。




