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翌朝。
藤は薄暗い北の間へと入った。
まぶしい光が北の中庭を照らしている。
「私物を、改めさせていただきたい」
家司に頭を下げられ、藤はとまどった。
呼び出されたときから、藤は憂鬱だった。
……恐ろしいモノが、この屋敷に潜んでいる。
そんな噂に女房たちは怯えていた。
足音、衣擦れの音にすら反応し、言葉を交わす者もない。
そんな空気が胃の中を重たくしていたのだ。
「女房や下女の私物は、我々が手を出すのは問題があります。なので、藤の方に指図していただきたいのです」
「……わたしが、ですか」
声が思ったよりも細くなった。
……逃げたい。けれど、逃げられない。
几帳の奥から経基の声。
「お前は常陸の下で長く働いてくれていたな」
常陸の名前。藤の胸が古傷のように疼く。
藤は深く平伏する。
「今、屋敷の細かい段取りができるのはお前だけだ、藤」
視界が揺らぐ。
歓喜?まるで違う。
認められた嬉しさなど、全身から血の気が引いていく感覚で消し飛んでしまう。
「なるべく、ことを荒立てずに済ませたい」
重ねて、経基の言葉。
……拒むこと、など。
できるはずがない。
「承知、いたしました」
藤は声の震えをこらえた。
◇◆◇◆◇◆◇
「わたしの厨子を?」
若手の女房の顔は、血の気が引いていた。
藤はただじっと相手を見つめていた。
私物改めの順番を決めるのに"意図"がある、などと思われてしまっては、まずい。
この女房を最初に選んだのは、最近秩父と仲良くしていたから。
周りにそう思わせられれば、それでいい。
胸が痛まないわけではない。
が、あくまでお役目。そう言い聞かせ、藤は感情の蓋を押さえ込む。
「あるわけないでしょう、呪術の道具など!」
焦っているのか、声が上ずる。近くにいた下女までもが振り向く。
「なにもなければ、すぐに済みます」
低く、平静に。
相手を落ち着かせるために、藤はなるべく感情を出さないように気をつけた。
女房はさらに声を高めた。
「ないと言っているのです!」
(……愚かな)
藤は聞こえないように短く息を吐く。
声を上げれば上げるほど人目が集まる。
やましいものがあると自ら示すようなもの。
「であれば、改めさせてください」
ただ相手を見つめる。
笑みも、視線も、言葉もなく。
それが一番相手を怯えさせる。
やがて、その女房は観念したように厨子棚の前を退いた。
藤は左右にいる下女に目配せをする。
下女は手早く厨子棚から櫛箱、化粧箱などを取り出す。
女房は泣きそうな顔で唇を噛み締めている。
「あ」
文箱を開けた下女が小さな声を上げた。
「ちが、うのです。それは」
女房のしゃくりあげる声。
下女が取り出した文には、五色の糸が巻かれている。
──恋のまじない糸、だ。
「蔵人の君からの文を……まとめていただけで……」
真っ赤な顔で、女房は涙をこぼす。
これは他愛もないもの。
とはいえ"まじない"ではある。
藤は困ったように息を漏らし、目を閉じた。
「見なかったことにいたします」
下女に命じて文を戻させる。
若手の女房は恥と安堵にうずくまり、しくしくと泣き始める。
藤は後味の悪さを噛み締めながら、その間を出た。
続いて次の間へ。
そこは顔なじみの古株の女房の間だ。
藤が足を踏み入れたと同時に、その女房は厨子棚を自ら開け、一礼した。
「ご協力、ありがとうございます」
藤も同じように頭を下げる。
「あまりいい気分はしません」
険しい目つき。しかし次の言葉は意外にやわらかかった。
「ですが……改める係が、あなたでよかった」
呼吸がつかえそうになる。
藤はもう一度深く頭を下げた。
「……常陸さまがおられたら、こんなことにはならなかったのに」
ため息とともに、吐き出された言葉。
その言葉に、藤の胸の底がじくりと痛んだ。
「わたしも……そう思います」
自分の声が他人のものみたいに乾いて聞こえた。
「藤」
藤と紅葉が使っている間。
その縁側に紅葉が立っていた。
表情は硬い。怒りというより、煮えきらない鬱屈。胸の内で何かが煮詰まっている目だ。
ぽつりと口にする。
「すごく、嫌な空気になった」
「……そうだね」
藤は自分でも驚くほど、乾いた声が出た。
紅葉が一瞬、ぎょっとした表情になる。
──心は、今はいらない。感情は全て消す。
藤は背筋をきつくこわばらせた。
「決まりだから」
藤は紅葉と目を合わせない。
視界の端で、紅葉が体を固くしているのがわかる。
「いいよね」
「……っ」
紅葉が戸惑うような声を漏らす。返事、ではない。
藤は構わず紅葉の葛籠に手をかけた。
「もちろん、だ」
紅葉はためらいがちに顎を引いた。
その表情の奥に見えるのは……わずかな、信頼。
「なにを探してるのか知らないけど、ヘンなものは入ってない。藤も知ってるだろ?」
「でも一応」
藤は声を抑えた。
知ってる。わかってる。
紅葉は悪いこともしていないし、ヘンなものは入れていない。
やったのは、ぜんぶ──。
袖をぎゅっと握りしめる。
葛籠を開け、下女に命じて中の物を取り出させていく。
紅葉は、ずっと無言。
藤は目を閉じた。
(ごめん、紅葉)
下女が夏の小袖を持ち上げたとき。
折りたたんだ間から、かさっ、となにかが落ちる音がした。
藤は薄目を開けた。
紙だ。人の形に折られたもの。
胴のところに墨で文字が書かれている。
……『紅葉』の文字。
その瞬間、ひっ、と下女が悲鳴を上げた。




