―1―
寝殿の北の間。
夜気が、簾の隙間からすう、と忍び込み、畳の上に薄い霜でも置いていくみたいに冷たかった。
虫の声も遠い。屋敷の中にあるのは、燭台の灯と、誰かが息をする気配だけ。
燭台の火は高く燃えず、油皿の縁で小さく揺れている。影だけが床をそっと歩いてゆく。
「呪物は、まずい」
経基は扇を開いたまま、口元に添えた。顔の下半分を隠すその癖が、今夜はやけに頼りなく感じる。
家司が、音を立てぬよう一歩後ろで控えていた。
呪詛の実物まで出てきたとあっては、醜聞だけでは、済まされない。
内裏に出入りする身として、噂になるだけでも致命的だ。決して呪詛騒ぎなどに巻き込まれるわけにはいかない。
「内々に処理したい」
扇の骨を指先でなぞり、ぱた、と閉じる。
「……とはいえ現場にいた人数が多いな」
その場にいた女房。下女。
近くにいた女童も含めれば、手の届く人数ではない。
経基は眉をひそめた。
「まずは本物かどうかを確かめましょう」
家司はすっと目を上げた。
経基はうなずく。
家司に呼ばれて、下女が入ってきた。
小刻みに震える手には、古布で何重にもくるまれた塊。それを畳の上に置いて下女は飛ぶように後ずさる。
家司はそれを手に取り、布をめくった。
一枚、また一枚。
音すら立てないように、丁寧に。
そして古布の奥から、木の人形が現れた。
下女がひっ、と声にならない悲鳴を上げた。
(意外と素朴だな)
経基は目を凝らした。
木の枝を紅緋色の紐で結び、胴に当たる部分には紙が巻きつけてある。
簡素で適当な作り。
家司はそれを手に取り、破れないように紙を慎重に剥がしていく。
「これは……」
家司が広げた紙には『常陸』の文字。
家司が眉をひそめる。
「呪詛の人形、ですな」
がたっ、と音を立てて、下女が背後の衝立にしがみついた。
経基は扇を持つ手に力を込めた。
常陸が、呪われていた?
誰に?
(呪術……)
ちらっと呉葉の顔が浮かぶ。
この陰湿な手口が、あの性格と違いすぎる。筋が合わない。
首を横に振る。
あの娘なら、もっとまっすぐ……直接殴っている。それだけは、確信できる。
家司は枝を縛っていた紐をつまんだ。
すべらせるように指でしごき、その指を顔の前へ。
「これは沈香ですな」
「沈香、だと」
高価な香。薫物に使われるような、贅を知る家の匂い。
となれば、手にできる者は限られる。限られる――だからこそ、やっかいだ。
経基の思考は、すぐに冷たい算盤に変わった。
◇◆◇◆◇◆◇
塗籠の入口に、経基は言葉なく立ちつくしていた。
体は芯まで冷え切っている。
胸の内側にまで、嫌な予感が沈殿していく。
「わたくしが知るわけがないでしょう!」
秩父の声が周囲を囲む土壁に吸い込まれていく。
「このような無礼、殿がお許しになるものですか!」
家司を怒鳴りつける秩父。
足元には白目をむいて気を失っている下女が見える。
怒りか、恐怖か。震えているのは、おそらく声だけではない。
「もう一度お尋ね申し上げます」
家司の低い声がする。
「呪詛を指示したのは、あなたですか」
「なんの呪詛だというの! 言いがかりも大概になさい!」
悲鳴にも近い叫び。
床に崩れ落ちる音。
続けて、嗚咽。
家司が塗籠から、音もなく滑るように出てきた。
「あの下女ではありませんな」
家司は首を横に振る。
「尋ねただけで気を失ってしまいました。……あの気弱さでは、呪詛を仕込むどころではありますまい」
経基は眉をしかめた。
「……では秩父が自ら?」
「いいえ」
家司は即座に否定する。
「秩父の方さまは呪詛をよくわかっておられないご様子。
恋呪いと混ざっていたり、方違えと間違えておられたり……。
あれでは呪詛を命じたとしても人形の用意など思いつきもしないでしょう」
「だが沈香はどう見る?」
経基は扇を閉じ、指先で軽く叩いた。
「秩父に一切の関わりなし、というのは、さすがに無理がある」
家司が薄く息を吐く。
ややあって、切り出す。
「……あくまで推測ではありますが」
「よい。申せ」
「呪詛に詳しい実行犯が、別におります。
その者が、呪詛の道具を揃える際、秩父の方さまより紐を受け取った。
……秩父の方さまの持ち物であれば、沈香の香が残っていても不思議はありません」
「なぜ秩父から紐を?」
「自分に疑いがかからぬよう、あるいは裏切られた場合に備えて、指示を受けた証拠として預かったか……」
「筋は、通るな」
扇を閉じ、そっ、とまた開く。
迷いも、心も、晴れない。
「して、実行犯はどう探す?」
「呪詛をしたものは、呪詛返しを恐れます」
家司は言う。
「そのため、呪詛返し除けとして己の名前を書いた紙で人形を作り、身代わりにするのです」
「つまり──」
ぱたん、と扇を閉じる。
「名を書いた紙の人形を持っている者が怪しい、ということか」
経基の表情から色が消えた。




