―3―
午後。
呉葉はすることもなく、ただ掃除の様子をぼんやりと眺めていた。
常陸の局だった間に、手の空いている女房たちと下女が集まっている。
「梁の裏、板間の隙間、縁の下も全部掃き出して」
藤が下女たちに指示を出していた。
この局の間は、常陸が退去する際、そこにいた痕跡すら残さないほど念入りに掃除をしていった。
板間に残るかすかな傷や、畳の傷み。それすらも凝らさなければわからないくらいに。
秩父が入るためとはいえ、こんな大掛かりに掃除をする必要があるのか。
藤はそこまで秩父のために──。
……どうして?
胸の内がすうっと冷えていく。
空っぽになった間。
それでも、常陸がいた記憶だけは、まだ残っている。
叱責された日の、畳の冷たさ。
着付けを教えてもらったときの、弾むような気持ち。
それが、消えていってしまう。
(仕返しするんじゃなかったのか?)
藤の動きをじっと目で追う。
秩父を脅して焦らせる、って言ってたのに。
「仇討ち」なんて藤らしくない言葉まで使って。
……それでも藤の力になれるのなら。そう思って、使ってはダメと言われた呪術まで使った。
それなのに。
(なにを考えているんだ、藤)
藤は忙しそうに立ち回っていた。指示を飛ばし、細かく確認し、また下女を走らせる。
たまに目があってもなにも言わない。
まるで昨夜のことなど最初からなかったように。
わからない。不安で胸がつぶれそうになる。
……でも、信じたい。
きっとなにか考えがあるはずだ。
呉葉は唇を噛んだ。
──そのとき、庭から悲鳴が上がった。
全員が一斉に目を向ける。下女たちが手を止める。
渡殿に挟まれた中庭。
縁の下に潜っていた下女が、転がるように飛び出してくる。
「ひ……人形……呪いの……」
ひゅっと、かすれた声。
……呪い?
嫌な響きに背中が冷える。
藤はぱっと駆け寄り、縁側から下を覗き込んだ。
すぐに体を起こし、袖で口元を抑える。
「雑巾を──」
落ち着いた口調。
近くにいた下女が、青い顔で走っていく。
重苦しい空気。
「獣でも迷い込んだのかしら──」
誰かが震える声を漏らす。
やがて下女が使い古しの布束を抱えて戻ってきた。
そして縁の下へ入っていく。
さっき悲鳴を上げた下女も、すすり泣きながらそれに続いた。
少しして。
下女たちがそろりと出てきた。
何重にも古布で包んだ"なにか"を二人で抱えながら。
誰も身動ぎすらしない。
(なん……だ……?)
ひとがた。呪い。
知らない言葉。……でも、意味はわかる。
呉葉はつばを飲み込んだ。
藤は古布の端を指で摘んだ。わずかにめくった瞬間、指がぱっと離れる。
表情は冷たいまま。
そして藤は言った。
「殿にご連絡を」
◇◆◇◆◇◆◇
大掃除は、すぐさま中止となった。
ほどなくして、経基から「口止め」が命じられた。このことは誰にも漏らすな、と。
──けれど。
噂は、止められない。
夕刻には、屋敷のあちこちで下女や女房たちが言葉をかわし合っていた。
普段の、常陸と秩父の仲。
退去させられた常陸への同情。
陥れた相手への"恨み"。
そして"異常なほど"怯えた秩父。
「……常陸さまの局の、縁の下から?」
「それって、秩父さまが……」
断片的でしかないはずの話が、いつの間にか、それらしく繋がってしまった。
"秩父が常陸に呪詛をしかけ、恨んだ常陸に呪いを返された"
──と。
遠くで、藤が後片付けの指示を出している。
喉の奥が、張りつくように重たい。
(これが──)
藤の言う、仇討ち……?
釈然としない気持ちのまま、呉葉は拳に力を込める。
手を見る。
昨夜。
藤の言うままに、煙で人の形を作った。
自分がやったことといえば、それだけだ。
秩父は今、追い詰められている。
それまで周囲に集まっていた若い女房たちでさえ、近寄ろうともしない。
華やいでいた秩父の局が、しん、と静まり返っている。
けど、それは。
(正しい、のか?)
背中を汗が伝う。ベタつく、嫌な感覚。
目眩がする。足元が揺らぐような不快感。
これで、よかったんだろうか。
違う、とすぐさま頭の中で声がする。
「このやり方は、正しくない」
呉葉は、そう言い切った。
縁側で、誰かが囁く。
「呪術を使ったのは、本当に秩父さまだけ?」
別の声が続く。
「恐ろしい術を使うなど、人ではない」
「もっと恐ろしいモノがいるはず」
「──人ならざる、バケモノが」




