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―2―

 空に、月が上っている。

 もっとも、雲が出ているせいでそれほど明るいわけではない。


 藤は袴の裾をまくり、縛り上げた。

 今だけは作法などかまっていられない。

 藤は呼吸をひそめたまま、縁側から庭へ降りる。藁履わらじが砂を噛む音すら怖い。

 白砂は月光を照り返して明るく、足元に不安はない。庭木のまわりは深い闇に沈み、虫の声すらまばらだ。

 後ろから紅葉が庭に降りる音が聞こえる。

 周囲を素早く見回し、人けがないことを確かめる。


「……打ち合わせどおりに」

 藤は小声で告げた。紅葉はうなずく。


 藤は北の対の南側、寝殿へと続く渡殿の方へ回る。

 「この時間は北の対には見回りは来ないが念のために渡殿を見張る」と、紅葉には伝えてある。


 紅葉が東の庭へ向かうのが見えた。

 庭木の間を縫うようにして、やがて闇に溶けて見えなくなる。


 藤は喉の奥で息を噛み殺した。

 音を立てないようにしつつ、小走りで渡殿をくぐる。

 その先──渡殿に挟まれた中庭。常陸のいた局の間、その正面だ。

 じっと耳を澄ます。

 誰もいない。ちょうど月が雲に隠れ、周囲が沈むように暗くなった。


 藤は懐へ手を入れた。

 指先に乾いた木の感覚。そして、かさっ、と紙に触れる。


 雲の隙間から月明かりが差し込んでくる。

 木の枝で組んだ呪詛の人形。

 枝を縛っているのは、紅緋色の紐。匂い袋の口を縛っていたものだ。

 まきつけてある紙に書かれているのは、『常陸』の文字。

 紐には沈香の匂いがかすかに染みついている。


 それを確かめて、上唇が無意識に持ち上がる。

 藤は自分でそれに気づいて、嫌悪感に肩が震えた。


 縁の下の暗がりに、木の人形を投げ込む。砂のこすれるかすかな音。

(……これで)

 踵を返しながら、唇をきゅっと締める。

 もう後戻りは、できない。


 藤は足音に気をつけながら、もと来た方へ戻っていった。



◇◆◇◆◇◆◇



 呉葉は庭木の間を駆け抜けた。

 ここからだと北の対はよく見えない。

 それは向こうからも見えないということ。


 庭木のそばは、白砂がないせいで暗い。

 裸足で走るのは久しぶりだった。土の地面が冷たい。けど、心地良い。


(前に庭に飛び降りたときは、常陸に怒られたっけ)

 牛車を起こしたときのことを思い出して、口の端が微かにもちあがる。

 もし常陸がいたら、また怒られるだろう。

 でも。

 今は、足を止められない。


 東の庭の中ほど。

 ちょうど背の高さほどの庭石の裏へ。

 そこから覗き見るように顔を出す。……秩父の局。その正面だ。


 月は雲に隠れてよく見えない。お屋敷の向こう側の夜空がぼんやりと明るい。

 縁側は影になって真っ暗だ。

 誰も通っていない。藤の言っていたとおりだ。


 一度だけ息を逃し、喉を閉じる。

 そして呉葉は目を閉じた。


 ──そんな力を持っていると知られれば、都では生きることすら許されない。

 母の言葉が、頭の中でよみがえる。


 怖れるような目。

 袖を強く握る手。

(……許されない?)


 そっ、と目を開ける。

 違う。これは悪いことじゃない。

 藤のため、だ。

(アタシは藤の力になりたい)

 拳に軽く力をこめる。


 ふいにあたりが暗くなる。月が雲に隠れたらしい。

 視界がわずかに紅めく。体の内側が熱を帯びる。

 両手を胸の前で広げる。

 ふっ、と息を吐く。その息が白く糸を引き、淡く光を帯びた煙になる。

 その煙が、次第に集まって形を作っていく。

 それは、月の光を浴びて、この世のものとは思えないほど怪しくゆらめく。

 ……人の輪郭。


 慣れていないせいか、すぐに形が崩れ始める。きらきらと粉を散らすように、薄らいでいく。

(急がなきゃ──)


 足元の小石を拾って、秩父の局に投げ込む。

 小さすぎたのか、音すらしない。

 ……もう一度。

 今度は硬いものに当たったのか、コッ、と小さな音がした。


 几帳の奥から布がこすれる気配。微かな声。

「……なんなの」

 そのとき雲が切れたのか、月明かりが庭に差し込んできた。

 庭石で影になって手元が暗くなる。

 短い悲鳴。

 庭はまたすぐに夜の闇に包まれる。

 同時に、人の輪郭だったものは煙に戻って消えてしまった。

 呉葉は足音を立てないよう、庭石の裏を駆け抜けた。



「どうだった?」

 元の場所まで戻ってきたところで、藤が待っているのが見えた。

 呉葉はようやく肩の力を抜いた。


 藤の心配そうな表情。

 呉葉は笑みを作ろうとして、顔がこわばっていたことに気づく。


「うまく、いった」

 小声で告げると、藤の顔がわずかにゆるんだ。


 縁側へ上がり、足の裏の土をさっと手で払う。

 ……秩父の局のほうから、人を呼ぶかすかな声。

 呉葉は藤と顔を見合わせた。

 まだどこからも足音は聞こえてこない。でも時間の問題だ。


 示し合わせるまでもなく、呉葉と藤は縁側を滑るようにして戻っていった。



◇◆◇◆◇◆◇



 次の朝。

 朝餉の刻になっても、秩父は姿を見せなかった。


 若い女房たちが口元を扇で隠し、声をひそめている。

 藤は膳の支度をしながら、なにも聞こえていない風を装った。


「なにやら恐ろしいものを見たとか」

「おいたわしや」

「まだお若いのに、どなたかからお恨みを買ったのでしょうか」

 ……知らぬふりをするのなら耳を塞げばいい。

 紅葉も、言っておいたとおりに素知らぬ顔を貫いている。


 そこへ秩父つきの下女が入ってきた。

 重たく苦しそうな表情。

 それを見た女房たちは口を閉じた。


「秩父の方さまから、みなさまにご相談がある、と」

 女房たちは眉をひそめ、互いの顔色を確かめる。

「とにかく、お集まりください」

 若い女房たちは気まずそうに、秩父の局へと向かう。

 それに引かれるように周囲もつられて動き始めた。


(……来た)

 頭の中を数え切れないほどの言葉が駆け抜けていく。

 そのくせ胸の中は恐ろしく凪いでいる。

 藤は女房たちに続いた。



 局に入ると秩父は隅で小さくなっていた。

 いつになく顔色も悪い。屋内だというのに打掛を頭からかぶっている。

 そのみっともない姿に、藤はちらっと目を向けた。

 ……驚くほどなにも感じない。

(今は、どうでもいいことだ)

 藤は唇を固く結んだ。


 その場に集まったのは、以前から秩父と親しくしていた女房たち。

 ほかは、古株を除いて半分程度の人数。

 秩父は不機嫌そうに横目で睨んだ。

「今の局から移りたいのよ」

 イライラしているのか口調がやけに荒い。

 女房たちは互いの顔色を確かめ合う。

 部屋割りを決めていたのは常陸だった。今、空いている広い局といえばそこしかない。

 ……その名前は誰も口にしようとしなかった。

「あそこはイヤ」

 それを察したのか、秩父が上ずった声を出した。

「もっと日当たりのいい場所がいいわ」

 ……と、言われても。

 とでも言いたげに、女房たちの目が泳いだ。

 東に向いたこの秩父の局が日当たりで言えばもっとも良い。

 これ以上、良い場所など。


 藤は拳にわずかに力を込めた。

 息を吸い込み肺に力を入れる。

 そして、一歩前へ。

 あくまで礼を崩さぬよう、慎重に。丁寧な足取りで。


 藤に気づいた秩父が不快そうに眉をゆがめた。

「畏れながら」

 両手を揃え頭を下げる。

 秩父の侮蔑するような吐息を受けても、藤は目を逸らさなかった。

「今、局の要にふさわしいのは、秩父の方さましかおりません」

「は?」

 嘲るような声をあげる秩父。

「なあに? 今更媚びるつもり?」

 低い声。

 かまわず藤は続けた。

「早急に、あの局にお移りいただくのが自然な成り行きかと存じます」


「常陸さまの局を開けるの?」

「まだご退去されてから日も浅いのに」

 背後から、ひそむ声。

「藤も、靡くの?」

 ガッカリしたようなつぶやきも交じる。

(……今は。なんとでも)

 軽く歯を噛みしめる。


「あそこは……っ」

 秩父の眉がぴくっと動く。

「その……空気が嫌なのよ」

 ぽそっと漏れた声。しかし藤はそれを無視した。

「憚られるような理由が、ありますでしょうか」

 藤は視線を秩父から逸らさない。

「それとも……後ろめたく思うことでも、おありですか?」

 きっ、と秩父が藤を睨みつける。

 藤は身動きもせず、じっと秩父の返事を待つ。

 秩父の扇を持つ手がわなわなと震えた。


 やがて藤は静かに切り出した。

「……それでは局の大掃除をすませておきます」

 秩父の舌打ちが聞こえる。


 藤はゆっくりと頭を下げた。




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