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空に、月が上っている。
もっとも、雲が出ているせいでそれほど明るいわけではない。
藤は袴の裾をまくり、縛り上げた。
今だけは作法などかまっていられない。
藤は呼吸をひそめたまま、縁側から庭へ降りる。藁履が砂を噛む音すら怖い。
白砂は月光を照り返して明るく、足元に不安はない。庭木のまわりは深い闇に沈み、虫の声すらまばらだ。
後ろから紅葉が庭に降りる音が聞こえる。
周囲を素早く見回し、人けがないことを確かめる。
「……打ち合わせどおりに」
藤は小声で告げた。紅葉はうなずく。
藤は北の対の南側、寝殿へと続く渡殿の方へ回る。
「この時間は北の対には見回りは来ないが念のために渡殿を見張る」と、紅葉には伝えてある。
紅葉が東の庭へ向かうのが見えた。
庭木の間を縫うようにして、やがて闇に溶けて見えなくなる。
藤は喉の奥で息を噛み殺した。
音を立てないようにしつつ、小走りで渡殿をくぐる。
その先──渡殿に挟まれた中庭。常陸のいた局の間、その正面だ。
じっと耳を澄ます。
誰もいない。ちょうど月が雲に隠れ、周囲が沈むように暗くなった。
藤は懐へ手を入れた。
指先に乾いた木の感覚。そして、かさっ、と紙に触れる。
雲の隙間から月明かりが差し込んでくる。
木の枝で組んだ呪詛の人形。
枝を縛っているのは、紅緋色の紐。匂い袋の口を縛っていたものだ。
まきつけてある紙に書かれているのは、『常陸』の文字。
紐には沈香の匂いがかすかに染みついている。
それを確かめて、上唇が無意識に持ち上がる。
藤は自分でそれに気づいて、嫌悪感に肩が震えた。
縁の下の暗がりに、木の人形を投げ込む。砂のこすれるかすかな音。
(……これで)
踵を返しながら、唇をきゅっと締める。
もう後戻りは、できない。
藤は足音に気をつけながら、もと来た方へ戻っていった。
◇◆◇◆◇◆◇
呉葉は庭木の間を駆け抜けた。
ここからだと北の対はよく見えない。
それは向こうからも見えないということ。
庭木のそばは、白砂がないせいで暗い。
裸足で走るのは久しぶりだった。土の地面が冷たい。けど、心地良い。
(前に庭に飛び降りたときは、常陸に怒られたっけ)
牛車を起こしたときのことを思い出して、口の端が微かにもちあがる。
もし常陸がいたら、また怒られるだろう。
でも。
今は、足を止められない。
東の庭の中ほど。
ちょうど背の高さほどの庭石の裏へ。
そこから覗き見るように顔を出す。……秩父の局。その正面だ。
月は雲に隠れてよく見えない。お屋敷の向こう側の夜空がぼんやりと明るい。
縁側は影になって真っ暗だ。
誰も通っていない。藤の言っていたとおりだ。
一度だけ息を逃し、喉を閉じる。
そして呉葉は目を閉じた。
──そんな力を持っていると知られれば、都では生きることすら許されない。
母の言葉が、頭の中でよみがえる。
怖れるような目。
袖を強く握る手。
(……許されない?)
そっ、と目を開ける。
違う。これは悪いことじゃない。
藤のため、だ。
(アタシは藤の力になりたい)
拳に軽く力をこめる。
ふいにあたりが暗くなる。月が雲に隠れたらしい。
視界がわずかに紅めく。体の内側が熱を帯びる。
両手を胸の前で広げる。
ふっ、と息を吐く。その息が白く糸を引き、淡く光を帯びた煙になる。
その煙が、次第に集まって形を作っていく。
それは、月の光を浴びて、この世のものとは思えないほど怪しくゆらめく。
……人の輪郭。
慣れていないせいか、すぐに形が崩れ始める。きらきらと粉を散らすように、薄らいでいく。
(急がなきゃ──)
足元の小石を拾って、秩父の局に投げ込む。
小さすぎたのか、音すらしない。
……もう一度。
今度は硬いものに当たったのか、コッ、と小さな音がした。
几帳の奥から布がこすれる気配。微かな声。
「……なんなの」
そのとき雲が切れたのか、月明かりが庭に差し込んできた。
庭石で影になって手元が暗くなる。
短い悲鳴。
庭はまたすぐに夜の闇に包まれる。
同時に、人の輪郭だったものは煙に戻って消えてしまった。
呉葉は足音を立てないよう、庭石の裏を駆け抜けた。
「どうだった?」
元の場所まで戻ってきたところで、藤が待っているのが見えた。
呉葉はようやく肩の力を抜いた。
藤の心配そうな表情。
呉葉は笑みを作ろうとして、顔がこわばっていたことに気づく。
「うまく、いった」
小声で告げると、藤の顔がわずかにゆるんだ。
縁側へ上がり、足の裏の土をさっと手で払う。
……秩父の局のほうから、人を呼ぶかすかな声。
呉葉は藤と顔を見合わせた。
まだどこからも足音は聞こえてこない。でも時間の問題だ。
示し合わせるまでもなく、呉葉と藤は縁側を滑るようにして戻っていった。
◇◆◇◆◇◆◇
次の朝。
朝餉の刻になっても、秩父は姿を見せなかった。
若い女房たちが口元を扇で隠し、声をひそめている。
藤は膳の支度をしながら、なにも聞こえていない風を装った。
「なにやら恐ろしいものを見たとか」
「おいたわしや」
「まだお若いのに、どなたかからお恨みを買ったのでしょうか」
……知らぬふりをするのなら耳を塞げばいい。
紅葉も、言っておいたとおりに素知らぬ顔を貫いている。
そこへ秩父つきの下女が入ってきた。
重たく苦しそうな表情。
それを見た女房たちは口を閉じた。
「秩父の方さまから、みなさまにご相談がある、と」
女房たちは眉をひそめ、互いの顔色を確かめる。
「とにかく、お集まりください」
若い女房たちは気まずそうに、秩父の局へと向かう。
それに引かれるように周囲もつられて動き始めた。
(……来た)
頭の中を数え切れないほどの言葉が駆け抜けていく。
そのくせ胸の中は恐ろしく凪いでいる。
藤は女房たちに続いた。
局に入ると秩父は隅で小さくなっていた。
いつになく顔色も悪い。屋内だというのに打掛を頭からかぶっている。
そのみっともない姿に、藤はちらっと目を向けた。
……驚くほどなにも感じない。
(今は、どうでもいいことだ)
藤は唇を固く結んだ。
その場に集まったのは、以前から秩父と親しくしていた女房たち。
ほかは、古株を除いて半分程度の人数。
秩父は不機嫌そうに横目で睨んだ。
「今の局から移りたいのよ」
イライラしているのか口調がやけに荒い。
女房たちは互いの顔色を確かめ合う。
部屋割りを決めていたのは常陸だった。今、空いている広い局といえばそこしかない。
……その名前は誰も口にしようとしなかった。
「あそこはイヤ」
それを察したのか、秩父が上ずった声を出した。
「もっと日当たりのいい場所がいいわ」
……と、言われても。
とでも言いたげに、女房たちの目が泳いだ。
東に向いたこの秩父の局が日当たりで言えばもっとも良い。
これ以上、良い場所など。
藤は拳にわずかに力を込めた。
息を吸い込み肺に力を入れる。
そして、一歩前へ。
あくまで礼を崩さぬよう、慎重に。丁寧な足取りで。
藤に気づいた秩父が不快そうに眉をゆがめた。
「畏れながら」
両手を揃え頭を下げる。
秩父の侮蔑するような吐息を受けても、藤は目を逸らさなかった。
「今、局の要にふさわしいのは、秩父の方さましかおりません」
「は?」
嘲るような声をあげる秩父。
「なあに? 今更媚びるつもり?」
低い声。
かまわず藤は続けた。
「早急に、あの局にお移りいただくのが自然な成り行きかと存じます」
「常陸さまの局を開けるの?」
「まだご退去されてから日も浅いのに」
背後から、ひそむ声。
「藤も、靡くの?」
ガッカリしたようなつぶやきも交じる。
(……今は。なんとでも)
軽く歯を噛みしめる。
「あそこは……っ」
秩父の眉がぴくっと動く。
「その……空気が嫌なのよ」
ぽそっと漏れた声。しかし藤はそれを無視した。
「憚られるような理由が、ありますでしょうか」
藤は視線を秩父から逸らさない。
「それとも……後ろめたく思うことでも、おありですか?」
きっ、と秩父が藤を睨みつける。
藤は身動きもせず、じっと秩父の返事を待つ。
秩父の扇を持つ手がわなわなと震えた。
やがて藤は静かに切り出した。
「……それでは局の大掃除をすませておきます」
秩父の舌打ちが聞こえる。
藤はゆっくりと頭を下げた。




