―1―
高く澄んだ空に、淡い輪郭の雲が細く伸びている。
庭を通り抜ける風も、肌に冷たい。虫の声が、秋の到来を感じさせる。
藤は葛籠から出した装束をひとつずつ畳んでいた。
夏の袿を一番奥へ。水色の単衣も下の方へしまう。
かわりに冬の小袖を手前へ。
(常陸さまは、もういない──)
ふと手が止まる。
あの局の間にあった常陸の気配が、すう、と薄れていくような気がする。しんと冷えた空気だけが残り、そこに誰もいない事実だけが重かった。
来客の件のあと、数日のうちに常陸は屋敷を退いた。
経基が引き留めた、という話は聞いた。でも、常陸の決意は崩れなかったらしい。
いまは四条の親族の屋敷に移り、支度が整い次第、坂東の実家、そして寺へ入るという。
常陸と親しかった女房たちは、まだどこか呆けたままだ。
それも、そのうち日常に溶けていくのだろう。そう思いたいのに、藤の胸は、ずっと凍ったままだった。
「こういうの苦手なんだよ」
隣から、愚痴が聞こえる。
目をやると、紅葉の葛籠の前はぐちゃぐちゃに散らかってしまっていた。
夏の小袖も冬の袴も、筆入れも櫛も化粧箱も。
藤はくすっと笑った。
「もう、しょうがないな。手伝ってあげる」
そして葛籠の中にある衣装を出していく。
紅葉の葛籠は、衣装や荷物の割には小さい。すべての荷物がまとめて詰め込まれているせいで、すぐにぐちゃぐちゃに散らかってしまう。
藤は、冬の色の単衣と厚手の小袖、袴を選んで取り分けた。
「こっちも追加で干してきて」
「わかった」
紅葉はそれをまとめてかき揚げて、外へ出ていった。
ぱたぱた、と足音が遠ざかるのを、藤は耳の端で数えた。
──今だ。
胸の中でなにかが小さく鳴った。ダメ、と自分の中のどこかがささやく。
指先は止まらない。
葛籠の奥。小箱をそっと持ち上げ、開ける。
甘い香りがあたりにふわっと広がった。以前、紅葉が秩父から受け取った匂い袋だ。
次に、藤は自分の厨子棚に手を伸ばす。
一番上。紅葉から預かったままになっていた、紅い紐。
匂い袋の口を縛っているのは、似たような紅緋色の紐。こうして並べでもしない限り、まず気づかれないはずだ。
藤はちらっと紅葉の出ていった方に視線を向ける。
まだ、しばらくは戻ってこない。
すばやく匂い袋の紐を解く。
……指が震える。ゆるいはずの結び目が、なかなかほどけない。
几帳が風で揺れるたびに呼吸が止まりそうになる。
(大丈夫。落ち着いて)
藤は自分にそう言い聞かせる。
どうにか紐を抜き取り、紅葉の紅い紐と入れ替えて、同じ結び方で縛る。
匂い袋は急いで小箱に戻し、葛籠の元の位置へ。
指に移った沈香の甘い残り香が、まるで罪の印みたいにまとわりつく。
抜き取った紅緋色の紐は、自分の厨子棚の上へ。
今度は、大きく『紅葉』と書かれた紙を取り出す。
以前、紅葉が字の練習をしたときのもの。折り重ねて、人の形に折ってある。
それを葛籠の底のほう、夏衣装の隙間に差し込む。
(これで……)
喉の奥が、ひどく乾く。けれど、今さら手を引くことはできない。
再び外の気配を探る。
まだ紅葉の足音は聞こえない。
間に合った。
(──って、まだ)
周囲には鼻に残る香りがかすかに残ってしまっている。
とっさに近くにあった衣装を広げ、空気を外へ追いやるように仰ぐ。
(几帳が邪魔……!)
これがなければすぐに空気を入れ替えられるのに。
「藤?」
全身の肌が粟立った。
几帳の脇から、紅葉が顔をのぞかせている。その手には、虫干しが終わったばかりの衣装。
「な、なに?」
平静を保ったつもりだった。なのに、わずかに声が裏返っている。
胸が痛いほど早鐘を打つ。
「もしかして、畳むの手伝ってくれるのか?」
「えっ……」
そこでようやく、手にしていたのが紅葉の袿だったと気づいた。
「う、うん」
藤はぎこちなく笑みを浮かべた。そして、取り繕うように続ける。
「畳み方、教えてあげようと思って」
「ありがとう、藤」
無邪気な紅葉の表情。
まるで人を疑うことを知らない顔。
落ち着いてきたはずなのに、刺すような胸の痛みだけが残っていた。
いくつか畳み方を見せると、紅葉は見様見真似で単衣を畳んでいく。
あっという間に、あれほど散らかっていた衣装はすっきりと片付いた。
「今干している冬の衣装は、一番上にしまっておいてね」
「うん。ありがとう、藤」
にっこりと笑う紅葉。
まぶしくて、まっすぐな笑顔。
……それを、これから、自分の手で。
藤は、一瞬体をぞくっと震わせた。
(……やるんだ)
生き残るために。
もう守ってくれる人は誰もいない。
さっと周囲に目を配る。
他の女房も、下女も女童も。……誰もいない。
「思いついたんだけど、さ」
声色はあくまでも自然に。
震えを抑えてしゃべるのは、いつものことだ。
「……紅葉って、蝶の他にも、呪術でなにか出せる?」
紅葉の眉がぴくっと動く。
警戒。紅葉の目にさっと鈍い色が差し込む。
その反応は、読み通り。藤は続ける。
「たとえば……人の形、みたいな」
「それ、は……」
紅葉の顔が暗くなる。周囲をうかがっている。
迷うように目が流れている。
畳みかけるように藤はさらに続けた。
言葉を選ぶように。ためらって見せる。
「えっと……これは相談……じゃなくて、お願い、なんだけど」
意図的に言葉をつまらせる。
「……わたしに、力を貸してほしいの」
紅葉がわずかに視線を上げた。
迷い……は、まだ残っている。けれど、紅葉はまっすぐにこちらを見つめている。
(こう言えば、この子はきっと聞いてくれる)
袖を、ぎゅっと握る。
「座具のすり替え事件の犯人を追い詰めたいの」
藤は低い声を出した。
「秩父さまに、呪術で人の形のまぼろしを見せるの。
常陸さまが冤罪だと知っているなら、生霊が出た、と思って焦るはず。
……そうしたら」
声がかすれる。喉が痛いほどに乾いている。
「冤罪を自白しなければ呪われる、と脅す。
怯えて気が弱くなっていれば、いずれボロを出すわ」
「……そう、うまくいくだろうか」
紅葉が軽く首をかしげる。
「うまく行かなくても、いいの」
不安を包むように、藤は柔らかな声を作った。
「秩父さまを脅かしてやるだけでも、気が晴れるじゃない」
「でも……」
なおも紅葉は言葉を濁す。
「呪術は、もう使わないって……」
……そう言うのもわかってる。それも折り込み済み。
「大丈夫。女房や下女たちが寝静まった夜なら、誰にも見られない」
「夜は見回りの下女がいるんじゃないのか?」
「見回りの当番は、わたしが把握してる」
「でも秩父も寝ているんじゃ……」
「呪術を使ったら、小石を投げ込んで秩父さまに気づかせるの」
藤は紅葉の手を握り、両手で包み込んだ。
「一緒に、常陸さまの仇討ちをしようよ」
紅葉の顔に怪訝そうな色が浮かぶ。藤は続けた。
「お願い。こんなこと、紅葉にしか頼めないの」
紅葉の手がぴくっと震える。
……瞳が、揺れる。
横に流れ、下を向き……そっと目を伏せる。
そして、紅葉は目を開けた。
「わかった」
紅葉は迷いを残したまま顎を引いた。
藤はほっと肩の力を抜いた。
安堵。のはずなのに、胸の奥底がしん、と冷えていく。
指先まで冷えていく。紅葉の温かい手とは反対に。
「もし妙な噂が立ったとしても、紅葉のことは絶対に守るから」
真剣に。まっすぐに。……けっして、悟られないように。
藤はじっと、紅葉の目を見つめた。
◇◆◇◆◇◆◇
夕餉の当番に呼ばれ、紅葉が出ていったあと。
藤は周囲に人がいないのを確かめてから、下女を呼んだ。
「あなた、今夜は北の対の見回り当番だったよね?」
下女がかしこまってうなずく。
「北の対はいいから、東の対の見回りをお願いできる?
……最近、燭台の灯の消し忘れが多いのよ」
「かしこまりました」
藤は念を押す。
「お願いね」




